吐かない桜 3


――貴方が、好きでした。貴方は忘れてしまったけど俺は覚えてる。あの日、貴方は俺を助けてくれた。桜吹雪の中から現れた貴方は、言葉に出来ないくらい綺麗で、力強い眼をしていた。俺、知ってるんです、本当はとても優しい人だってことを――
荒い息遣いと肉を打つ音に紛れて、そんな言葉が耳の上を通り過ぎた。
――馬鹿な奴。あれはたまたま通りがかっただけで、あいつらが勘違いして逃げただけだ。お前はやっぱり蛆虫以下の最低野郎だよ――
涙の入り混じった絶叫とともに強引に押し入る熱が速さを増した。
振り落とされそうな自分の体を目の前にある肩に縋りついて難を逃れる。
痛みに呻きながらも満たされている自分に気づき、自然と笑みが零れた。
ああ、幸せだ。


「風紀一同、及び校内生徒、八割を超える意見により現生徒会役員をリコールする」
厳めしい声で告げる風紀委員長の言葉に慌てふためく役員たち。その中には補佐になったばかりの転校生もいたが、黒木田は我関せず窓の外をぼんやり眺めていた。
桜の花弁がひらひらと散っていく。その一つ一つが、やけに鮮やかに映った。
ふう、と浅く溜息をつく。枝垂れ桜のようにぐったりした倦怠感が体中に纏わりついていたが、黒木田の胸は破裂しそうなほど満たされていた。
どれだけ冬木を殴っても、これほど幸福感を味わったことはない。
「動揺しないんだな」
風紀委員長の冷たい声が遠くのほうで木霊した。
「しているさ。自分でも信じられない位にな」
鉛のように重い腰を上げて生徒会室を抜ける。背後で誰かが咎めるような声をあげた気がしたが、どうでも良かった。
踏み心地の良い絨毯の上を歩きながら、自室にいる冬木へ夢想する。
朝に黒木田が起きた時、冬木はまだ眠ったままだった。
寝台に身を預け浮べる、あどけない寝顔に拳を打ち込みたいと強く思った。醜く拳のめり込んだ冬木の頬を見たかった。見開いて驚きと憎しみに燃える瞳も。
しかし黒木田の思考に反して、右手はその前髪を優しく撫でることを優先したのだ。
膨張して切れ目の入った胸から熱いなにかが、じわりと滲み広がる。
「冬木……」
桜色の唇にその名を乗せると、隅々まで全身が火照った。
あんな風に冬木に求められたせいか、今の自分はおかしくなっている。
昨夜、激情に駆られて襲い掛かってきた冬木は腰を打ちつけながら黒木田に愛を告げた。
嬉しかった。愛した男が一番好きな表情を浮べて自身を犯すという最高の贅沢。あのまま時が止まればどれほど良かったか。
今まで悲痛な表情を見たくて黒木田は暴力を奮い続けていた。
桜の降りしきる中で見た、あの醜い笑顔を脳裏に呼び起こす。どれだけ泣き咽び、のたうちまわっても眼の光を失わず、絶対に暴力で返さない冬木。それどころか自分に対して笑顔を見せた冬木。
歴史ある道場の後継者たる彼には、容易く打ち負かせたというのに。
ずくり、と胸が疼く。
この気持ちを伝える気はなかった。冬木は高等部から学園に来た人間だ。同性愛なんて絶対に気持ち悪がられる。冬木に拒絶されるくらいなら……そう思っていたのだが。
リコールなんてどうでも良い。早く冬木のところへ戻りたかった。
風紀から呼びつけられたとはいえ、やはり部屋を出るんじゃなかったと歯噛みする。
もし冬木が起きていて、もう彼の自室に戻っていたらと思うと自然と歩く速度が早まった。
「冬木、冬木」
不安は杞憂に終わった。
ばたばたと騒がしく音を立てて寝室に飛び込むと、ベッドで横になった冬木を見つけて胸を撫で下ろす。
相変わらずの寝顔に愛おしさが増した。ホッとしながらベッドの端に腰掛ける。
ふと頬に何かが、ふわりと掠めた。
窓が開いている。その身を散らす桜が寝室に入り込み、フローリングの上を優雅に踊っていた。恐らく、冬木が一度起きて窓を開けてから寝なおしたのであろう。
掃除が大変だなと思いつつも窓を閉めることはせず、通り抜ける気持ちの良い風に身を委ねた。
確かにこれは二度寝する。気温も申し分ない。
また冬木の前髪を撫でたい欲求が沸き起こり、そっと手を伸ばす。
前髪には桜の花弁がついていた。小さく笑みを零し取ってやると、その花弁の違和感に気づく。
花弁の先端が、赤い。
身を乗り出して冬木の顔を覗き込むと、隠れた首元から真っ赤な鮮血が滴り落ちていた。
黒木田はきょとんとして、手が汚れるのも構わず、ゆっくり冬木の頭を抱え込む。曝け出された首には横に一閃した切り傷のようなものがあった。血で汚れすぎていてよく見えない。
冬木、死んだのか。
すとん、と胸に落ちてきた事実。だが、うまく飲み込めずキョロキョロと視線を巡らせる。
サイドテーブルに何かあるのを見つけ、無感動にそれを摘んだ。
あの重要書類だ。裏向ければ何か走り書きをしてある。
黒木田は眼を滑らせるが理解することが出来ず、首を傾げて無用になった紙切れを放り投げた。
冬木の死んだ顔はこんななのか。見るのは俺が初めてなんだなと思うと少し嬉しい。
けれど、何かが足りなかった。何が足りないのかよく分からず、冬木の頭を抱えながら呆然と満開の桜を見上げる。
視界いっぱいに広がる薄桃色の世界。風に揺られ、楽しげに歌い始める。
ベッド下に打ち捨てられた血色に染まった果物ナイフ。その上に落ちた紙片が、じわじわと真紅に染まっていく。
ごめんなさい、というか細い文字も全て赤の中へと溶けてしまった。

――扉の向こうから多くの靴音が近づいてくる。不躾で、苛立った、ひどく暴力的な足音だ。次の獲物は、以前の強者。
それでも黒木田は冬木を抱えて首を傾げ続けるのみである。
全てを見届けていた桜だが彼に答えてくれるはずもなく、涙を流すように二人の上へ花弁を落としていった。


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