819の日記念企画



 昔からそうだった。疲れたりストレスが溜まってくると活字を目にしたくなる。分厚い小説を読んだり一面記事からお悔やみ欄まで隅々と新聞を読んだり、漫画を読んだり。普通は逆ではないかと同僚に言われるけれど一種の癖のようなものなのでどうしようもできないし、苦でもない。そんな私にとって職場近くの夜遅くまで開いている大きな図書館は都合がよく、仕事が終わると図書館によって本や新聞を読むという生活はもはや最近のルーティンだった。

 特にここ2日間は明日か明後日に直撃すると言われている大型台風に備えて、同僚も後輩も上司も血眼となってディスクに向かっていたためストレスが蓄積されていく。やっと仕事を終えた同輩たちがスーツを草臥れさせて駅へと向かう中、私は図書館へと足を運ぶ。そして疲れやストレスを癒すべく、文庫本や漫画や新聞を眺める。ルーティンというよりはもはや儀式と化している行動に対し、友人たちはこぞって『さっさと結婚したほうがいいよ』というけれど、誰と付き合ってもどうしてもあの人以上に好きになれる人はいなかった。

 あの人というのは私が活字に逃げるようになってしまった原因の幼馴染だ。幼稚園の頃に出会った彼――もとい倫太郎とは中学3年までずっと一緒で、彼が兵庫の強豪高校に推薦が決まって会えなくなっても、幼馴染という関係が続けばいいと願っていた。しかし、ある日。本当に些細なことをきっかけに大喧嘩をした。思ってもいないことを言って、倫太郎からも心無いことを言われて、喧嘩別れという形でそれっきり連絡を取ったことはない。気を紛らわせるべく手に取ったのが分厚い文庫本で、私はひたすらに活字を追った。親が定期購読していた新聞も読んだ。友人たちがおすすめしてくれた少女漫画も少年漫画も文豪の小説も片っ端から読んだ。それが今、癖となって体に染み込んでいる。

 中学時代の私たちを良く知る友人たちは、現在も倫太郎の携帯番号が変わっていないと教えてくれたけれど、連絡を取る気にはならなかった。いや、取りたいけれど勇気がなかったというほうが正しいのかもしれない。

 なにかきっかけさえあればいいのに、と願いながらもそのきっかけを探すことすらしない。電話番号を変えていなくても、着信拒否をされていたらとか倫太郎が私のことを忘れていたらとかいろいろ考えてしまい、踏み出そうとしてはやめてを繰り返していた。今日もそうだ。仕事によって疲れた体を癒したいのと、日々大きくなっていく倫太郎への想いを誤魔化すべく図書館へ行っては、閑静な空間の中で本を読み新聞を読む。見るつもりのないテレビ欄を眺めたり、芸能人のスキャンダルを眺めたり、巷を騒がせるニュースを眺めたり。自分とは関わりのない人のお悔やみ欄を読んでは、数多の訃報に少しだけ悲しくなったり。

「明日は無理そうだな……」

 僅かに聞こえていた雨音がいよいよ窓を叩きつける音に変わり、図書館にいる人たちが鎌首を擡げながら窓の外を眺めたところで私も新聞を閉じた。思った以上に台風の接近が早いのかもしれない。もし明日休みになれば土日と続くので三連休を手に入れることになる。図書館へ来られないのは少しばかり寂しいけれど、仕事が休みの方がよっぽどいい。

台風がもっと強くなればいいと、小学生みたいなことを思いながら本と新聞を元に戻した。







          **

何か伝えたいことはない? と涙ぐんだ母親に頷けていたかは分からない。ただ、ぼやけた視界と遠くなった耳の中で「わかったよ」と聞こえた気がしたからきっと伝わってはいるんだと思う。双子や、あの北さんでさえ両目に涙を溜めていたのがなんとなくおかしかった。こんな台風が接近している今日にわざわざ集まらなくても良いのに。

思い残したこと、欲しいもの、伝えたいこと。ここに入院してから幾度となく訊かれたし、答える度にそれらを用意してくれたから正直もう思いつかない。しかし、ひとつだけ。誰にも言っていない心残りがある。
 中学の時に喧嘩別れをした幼馴染に、さいごに会いたかった。柄にもないかもしれないが、あの幼馴染のことばかりが心残りだった。自分のことは後回しにして俺のことばかりを心配する幼馴染に、思ってもいないことを叩きつけた。だから、さいごに謝りたかった。

 共通の友人たちは、あいつはもう怒っていないとか電話番号は変わっていないとか教えてくれたけれど、結局さいごまでその番号に連絡をすることはなかった。それが心残りだけれど、でももう間に合わないから。

――おやすみ。

 伝わっていたかは分からない。けれど、もう疲れたので、寝ようと思う。






          **

「――ろう、りんたろ……倫太郎!」
「っ!」

 ゆさゆさと揺さぶられ、鉛のように重い瞼を開いた。目の前にはこちらを見詰める幼馴染――もとい名前が心配そうにしている。

「名前、」
「うん、久しぶり」

 10年以上ぶりの姿だというのに、眉を下げている顔は変わらない。たしかあの時も、名前はこんな顔をしていたはずだ。喧嘩別れだったからなんとなく気まずくて、どう話を振ろうかと悩んだところでそんな俺のことなんか歯牙にもかけず名前はあっけらんとした顔をした。

「倫太郎、聞いたよ? 倫太郎が高校2年生のとき全国で2位だったんでしょ?」
「……うん、そうだね」

 まさか名前がインターハイの結果を知っているとは思わなかった。もしかしたら共通の友人たちに聞いたのかもしれない。あの時かなり祝福を受けたし。正直勝ち負けはさほど気にしていなかったし、部活の方針自体が1位以外ビリと同じ精神だったからその祝福も受け流していたけれど。
 そういえば、俺が稲荷崎の監督からのオファーを受けた時、名前に1番最初に報告したはずだ。そして名前が1番手放しで喜んでくれた。俺以上に稲荷崎のことを調べてくれて、名前が住む訳じゃない寮のこととか兵庫の海沿いの某ランドとか、安いスーパーとか。正直言うと名前が教えてくれたことの五割は役に立たないことだったけど(だって観光のこととかパワースポットのこととかもあったし)それでも俺以上に俺のことを考えてくれる姿が嬉しかった。
 そのお礼もきちんとできないまま喧嘩別れをしてしまったのだから、俺は随分と嫌な奴なのかもしれない。

「実は私ね? 高校の時、倫太郎が試合してるの見たことがあるんだよね」
「へえ……」
「私たちが2年の時の冬の大会。私の進学した学校も全国決めて、それであの東京の体育館に行ったんだ。たまたま隣のコートで倫太郎の学校……稲荷崎が試合してた。黒いユニフォームかっこよかったよ!」
「あー、春高ね。セッターにすごい奴いたでしょ?」
「セッターってどこのポジションだっけ」

 名前は掌を組んで下手くそなレシーブのフォームを繰り返す。まるで素人の動きだけれど、それがなんとなく愛おしかった。

 それから俺と名前は色々な話をした。決別したこの10年以上の時を取り返すように。名前が俺からの連絡を待っていてくれたと聞いた時もっと早く連絡をしとけばよかったと後悔したけれど、体は段々と重くなっていく。今までは名前とさいごに話せれば思い残すことはないと思っていたけれど、やっぱりまだ足りない。名前とまだ一緒にいたかった。でももう遅い。

「名前、そろそろ俺行くね」
「私もそろそろ戻らないと」

 どこへ、とはお互いに言わなかった。でもきっともう会うことはない。そんな気がした。体が次第に重たくなっていく。瞼が重く、眠くなっていく。きっともうこれで終わりなのだ。

「あ、名前」
「なあに?」

 掠れる声で名前を呼ぶ。名前がゆらゆらと揺れて、霞んで見えるのでその体を抱きとめた。もう少しだけ待っていてほしい。これだけ、これだけ。

「嫌いだって言ったろ。あれは取り消してくれ」
「倫太郎……。私も酷いこと言ってごめんね……ずっと好きだった……倫太郎のこと、ずっと、ずっと」
「うん、俺も名前のことが好きだったよ」

 あんなにも重たかった体が軽くなっていく。あんなに辛かった体が楽になっていく。名前にさいごに伝えられたからだろうか。

「倫太郎、またね」
「うん、ばいばい」

 名前が後ろを向いて光が差す向こう側へと足を進めた。その姿を俺はただただ見送るしかできなかった。

「おやすみ」

 今度こそ。名前とはまた違った声が俺の名前を呼んでいるけれど、それに答える前に睡魔が襲う。おやすみ。今度こそ。耳元で甲高い機械音が鳴り響く。







          **

 夢を見た。不思議な夢だ。
 あまり覚えていないけれど、夢には倫太郎が出てきて、色々な話をしたような気がする。夢を見た割には妙にすっきりとした目覚めのおかげで体が幾分軽く感じた。しかし残念なことに、外は強風と大雨。これで快晴だったら完璧なのに。
 案の定会社からは今日の自宅待機のメッセージが届いており、いつもの慌ただしい朝は優雅なものとなる。やはりこれで天気が良かったら最高なのに。いや、これが快晴だったら今頃私は仕事に向かっていたのだから複雑である。

 せっかくの優雅な朝をどう過ごすか。パンじゃなくてご飯を炊いてしっかりとした朝食にしようか。お弁当に使うわけでもないご飯を炊くのはなんとなく勿体ない気がするけれど、せっかくの休みなのでゆったりと過ごしたい。あとは倫太郎に電話をしてみたい。なんとなくだけれど、夢で話した時許されたような気がしたから。ジャーにお米と水を溜めた状態で隣に置いていたスマホを手に取る。行儀が悪いけれど、早く電話がしたくて生き急いだ。

「もういいよね?」

 誰に聞かせるわけでもない言い訳をして、アドレス帳をタップする。さ行の5番目、角名倫太郎。携帯をガラケーからスマホに変えて、そのあとも何度も変えて、それでも消えることのなかった番号。もう押すことはないと思った番号を、幾度となく悩んでタップすることをやめた番号を久しぶりに押す。どくどくと高鳴る心拍は今までにないほど大きな音を立てていて、心臓が止まってしまうかと思ったほど。

 まずはワンコール、2回目、3回目。コール音は響いているので着信拒否はされていないはずだ。この番号も使われているはず。6回目、7回目。しかしなかなか倫太郎が電話に出ることはない。まあ早朝だし、まだ寝ているのかもしれない。着信を残していたら折り返してくれるだろうか。そんな願いを込めて耳から外した。

「って、うそでしょ……」

 電話を切った拍子に掌から滑り落ちたスマホは、無情にもぽちゃんと水のたまったジャーの中へと落ちた。そのままブラックアウトする画面に唖然としてしまう。林檎マークのスマホは水没に弱い。よく水没にしたスマホはお米で直るというのを聞いたことがあるけれど、濡れたお米では意味がないような気がする。それにあとなにかが必要だった気がする。まあそれを調べる術すらもないけれど。

 きっとこの台風なのでショップも閉まっているはずだ。明日もショップが開くか分からない。行けても日曜日か最悪月曜日の仕事が始まる前か。仕事からの連絡も分からないのは正直きつい。唖然としてその米を見詰めることしかできなかった。





title:ユリ柩 様
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さよならは本当になった

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