短編集





 温かな笑顔に囲まれるこの空間が好きだ。人の良い笑みをこちらに向ける、お義父さんが好きだ。そして、明日の式に参列することができない祖父のために、式でお世話になる介添人さんとドレスを提供してくれた美容師さんに頭を下げた鉄朗が大好きだ。


 明日は11月17日、鉄朗の誕生日である。『プロポーズはお前の誕生日で、式は俺の誕生日。そんな日を夢見たことがある』と、意外とロマンチストな鉄朗の言葉を聞いたとき、笑ってしまったのと同時に涙が出た。そして、鉄朗の教えてもらったとき、更に涙が出た。持っていたハンカチをびしょびしょにして泣いてしまった私に、不安そうに「名前、いい?」とこちらを伺う鉄朗にすぐに頷いて、ふたりでドレスを提供してくれる予定の美容師さんに頭を下げにいったのだ。

「お父さん、喜んでくれてよかったね」
「だな」

 皆、鉄朗の笑顔は怪しいだとかセールスマンみたいだとか言うけれど、実際はかなり穏やかに笑う。目尻を細めて皺を作り、それはそれは綺麗に笑うものだ。怒るときは怒るし、拗ねる時は拗ねる。機嫌が悪いときはとことん機嫌が悪いし、木兎くんと悪ふざけする時はする。しかし真面目な一面もあってそしてかなり優しい。今だってこれ以上に無いくらい、表情を柔らかくして穏やかに佇んでいる。

 鉄朗のもうひとつやりたかったこと。それは、病気で寝たきりになってしまった祖父に、タキシードとウエディングドレス姿を見せてあげることだった。快く了承してくれた介添人さんは、メイクさんまで呼んでくれて、結婚式本番のようなブライダルメイクを施してくれた。まるで擬似結婚式だ。牧師役を担ってくれたのは何故か木兎くん。慣れない英語に苦戦しており(時折赤葦くんのヘルプが入った)、最後はカタコト言葉で祝福してくれた。来賓役は研磨くんと赤葦くんが担ってくれた。鉄朗のあばあちゃんの嗚咽交じりの祝福と、お義父さんの鼻を啜る音に囲まれて、私たちは小さな一回目の結婚式をした。それはそれはとても幸せな時間だった。今はその、帰り道である。

「今日はサンキューな」
「こちらこそ」

 鉄朗の実家からふたりで住んでいる家までは徒歩圏内の距離にある。ここまで育ててくれた祖父母と父に親孝行したいと願っていた鉄朗が、近場のマンションを選んだためだ。その道を、11月の寒い夜風に当たりながらゆっくりと歩く。黒尾家の優しくて温かく幸せな時間は、余韻として、カイロのように心の中に留まっていた。

「黒尾家の雰囲気、すごく好きなんだよね」

 改めて、黒尾家の雰囲気が好きだと思った。もちろん私の家が仲が悪いわけではないし、むしろ良好だと思うが、その家それぞれの香りや雰囲気があるように、黒尾家には黒尾家特有の温かさがある。まるで真綿に包まれるような柔らかい雰囲気を浴びる度に、鉄朗を育ててくださりありがとうございますという気持ちになった。私はすっかりと黒尾家の虜なのだ。
 ふふ、と笑みを零してみれば、繋がれていた手に、少し力が入った気がした。「名前」そして呼ばれる名前。思わず隣を見ると、切れ長の双眸ががこちらを捉えていた。

「お前も黒尾だろ?」
「っ! ふふ」

 至極真面目に言うものだから、思わず笑ってしまった。その笑い声に釣られてくれたのか、口許を緩める鉄朗の面持ちは酷く穏やかで、そして、恥ずかしげもなく言いのけてしまうところが鉄朗らしくて好きだ。
 くろお、くろお、黒尾。心の中で、その名字を何度も呟いてみる。そして、その下に自分の名前を入れては、ちょっと悶えてみたり。
 苗字が変わってから数ヶ月経ったというのに、なんとなくまだくすぐったくて、噛んだ唇がぴりぴりと痺れた。付き合いたてに、浮かれながら好きな子の名前をノートに書いた中学生の乙女のような気分になる。それにまたもや笑みが溢れれば、今度は訝しげに見つめてきた。

「なんでもないよ。帰ろっか」
「おう、寝坊できないからな」

 そうだ。寝坊なんてできない。式当日に寝坊なんてしたら、夜久くんに笑われるだろう。リエーフにだって揶揄われるだろうし、一番怖いのは菩薩顔の海くんだ。あの優しい笑顔で「遅刻はダメだぞ」なんて至極真っ当なことを言われたら、山本か福永くんに慰めてもらうほか無い。

「楽しそうだな」
「うん、ちょっとね」

 どうやら私は思ったことが顔に出やすいそうだ。横から聞こえてきた鉄朗の指摘に、脳内にいた音駒のメンバー達が「また明日な」と手を振る。
 そうして、脳内のメンバーたちに笑われていれば、いつの間にやら家に着いていた。エントランスにオートロックを備えるマンションが、私たちを出迎えてくれる。

「なあ」
「ん?」

 ロックを解除しようと、引越し当日に貰った鍵を当てたところで、聞こえてきた鉄朗の声が耳を掠る。生真面目な顔つきはまるでプロポーズの時のようでーー。

「結婚してくれてありがとう」

 ――ガチャンとなった鍵の開く音。そしてカチャンと私が鍵を落とした音。やはり言った本人は至って真面目だ。私の心臓の音なんて知らないとでも言いたげに。
 光り輝くエントランスに不釣合いな心臓の音はきっと私にしか聞こえていないし、ぎゅっと締め付けられる心臓の痛みは私しか知らない。その痛みや、羞恥やらから逃れるべく、私は口を開くのだ。

「こちらこそ」

 あ、鉄朗も照れた。




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