04. Irish Coffee
仕事が終わって、家路について、電車から降りたんです。あぁ、今日もかって思いました。ここ最近駅を出てから私の家までずっと付けられているような気がして……。昨日もでした。だから、いつも通り早歩きで家に向かったんです。ただ昨日は、その人が目の前に現れて、そして――。
ソファーに座っている名前さんが、大きく息を吐きながらゆっくりと話してくれた。日付が変わる前の夜の出来事である。
名前さんは残業があまりない会社に勤めているらしく、多分帰る時間を知られている可能性があると。いつもは後をつけられているだけで済んでいたものが、昨日はその付けていたストーカーにとうとう腕を掴まれたようだ。
「私が勤めている会社のお得意先様の人でした。必死に逃げようとして、それで、」
逃げる最中に挫いたという、湿布を貼っている足首を撫でながら、名前さんが顔を顰める。なんとか男から逃げられたものの、多分家もバレているし、相手がお得意さんということで下手に警察にも言えなかったようだ。怖くなった名前さんは、最初に兄に連絡したらしいのだが、如何せん兄が連絡つかず、だからと言って、女友達に連絡をしてストーカーらしき男がいる道を歩かせる訳にも行かないし、自分が歩くのも怖くて仕方がない。そこで白羽の矢が俺に立ったと。
「家に帰ってきて、ご飯を食べて、お風呂に入って、いつもの日常をすることで恐怖心は薄れていくと思いました……。でも間違っていました。時間が経つに連れて怖くて怖くて……」
「名前さん……」
肩を震わせる名前さんを抱き寄せて、頭に顎を乗せて、壊れものを扱うようになるべく優しく撫でる。優しく、優しく。
「こんな時間に呼び出して、本当にすみません……。しかもそんな危ない道を、本当に、」
「名前さん」
そんなこと、謝らなくていい。
真綿を撫でるかのごとく扱っていたこの人の、涙にまみれた顔を、肩に押し付けた。
「俺はあなたに頼ってもらえて嬉しいです」
そして、彼女がまた謝ってしまう前に俺の気持ちを押し付ける。
風呂上がりだからだろうか、僅かに濡れている髪から覗く、小ぶりの耳に想いを込めた。名前さんの息が短くなっていき、どくんどくんと心臓が大きくなっていくのをシャツ越しに感じるが、これがきつく抱きしめているから苦しくてなのか、それとも別の感情からなのかを考えてしまうほど、俺は単純なのだ。
じわじわと濡れていく肩と、縋るように掴まれたシャツに、ぎゅうっと心臓が萎む気がした。子供が親に抱きつくような仕草に、俺も負けじと彼女を抱きしめる。そして、
「俺は、あなたが好きです。初めて会った時から、名前さんが好きです」
「っ、」
ゆっくりと体を離し、目が腫れている名前さんに告げた。
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「んっ、」とくぐもった声が聞こえて、名前さんを眺めていた双眸を閉じ、じっと身を固める。ガサガサと隣で布が擦れる音とゆっくりと息を吐く音が耳を打った。多分、寝顔を堪能していたことはバレていないはずだ。
「赤葦、さん……」
なんとなく掠れた声に返事をするか否か迷ったが結局目を開けられず、誤魔化すように寝息を立ててみる。こういう時、表情をあまり表に出さないことを得意としていて良かったと改めて思う。ただ、そろそろ起きてやることをやらなくては。話すことは、沢山ある。
「ん、」と短く鼻息を吐いて、あくまで今起きた体で態とらしく足を動かした。どちらかが脱ぎ捨てた下着が足の親指を掠る。レースらしきものに触れたから、多分これは名前さんのだ。ということは俺が昨日脱がしたもの。
昨日の情景を頭に描いて、途端に中心に熱が篭もるような気がしたが、なんとか奥歯でかみ締めた。
こういうのはバレてはいけない。何事も慎重であれ。
「おはようございます」
「おはよう、ございます」
返した名前さんの声が掠れた理由は、寝起きだからだけではないはずだ。原因は俺。でも、こちらを覗いている美しい瞳が腫れている原因は、あの腹立たしい体験のせいだ。
全て終わったあとに目を冷やしてあげればよかったと後悔しても遅い。
「腰痛くないですか?」
「えっ、あー、はい。大丈夫です。赤葦さんが優しくしてくれたから……」
ただ、赤面しながらそう言ってくれたこの人が酷く愛おしかった。
昨日、あのあと。俺たちは明々白々の如く体を重ねた。そういう雰囲気や流れ作業と呼ぶには、その通りなのかもしれないけれど、たしかにふたりの間にはそれ相応の感情があったはずだ。
ぎゅうっと収縮する中をぶるりと震わせて『あかあしさんがすき』と熱い息を吐いた名前さんの言葉が幻聴や幻覚でなければ。俺の都合のいい夢でなければ。
ただ、当の彼女の顔色はあまり良くない。だからこそ、腰が痛むのか喉が痛むのかと声をかけてみたが、どれもこれも違うのだと言うから、きっと気持ち的な問題だ。
もし、間違えたと思うのならばそうはっきりと言って欲しいという感情と、名前さんに振られるかもしれないという恐怖が俺の心を雁字搦めにしている。色々な感情を隠しながら、次に訪れるであろう言葉を大人しく待った。
「私、はしたないですよね……」
「え……?」
しかし、実際に名前さんの口から出てきた言葉は自省するもので、俺の口は間抜けにもぽかんと開いてしまう。
「赤葦さんを利用してしまった……。あの男が怖いとあなたに縋ったのに、あなたに抱かれた時全て忘れられた気がしたんです……」
「そんなこと、」
「私は――」
あぁ、綺麗だ。
「私は、あなたに好きって言って貰えて嬉しかったです。私も赤葦さんが好きです。初めて会った時から、あなたのことが忘れられなかった。だからこそ、あなたの気持ちをきちんと受け止めたかったのに、それよりも先に恐怖を忘れたいという気持ちであなたを利用してしまった」
「名前さん……」
ぽろぽろと涙を流して懺悔するこの人を好きになるなという方が酷い話だと思う。男が名前さんにした行為は絶対許されないことだけれど、この人を自分のものにしたいと思うのはよく分かる。
だからこそ、絶対に渡さない。
「嬉しいですよ。名前さんが俺を呼んでくれて、俺を受け入れてくれて。嬉しいです」
「赤葦さん……」
「名前で呼んでください」
「っ、京治さ、んぅっ、」
「絶対守りますから。あなたを愛しています」
呼吸さえも奪うように隙間なく唇を重ねて誓う。首に回された細い腕に力が込められていく瞬間に愛を感じて、そして舌を絡ませた。この人を一生守りたい、絶対に裏切らない、だなんて随分と歯が浮くようなセリフが頭をよぎるが、その気持ちに嘘はない。
ホストだということを隠していることを棚に上げて、そんなことを思う。
「あなたが好きです」
Irish Coffee(アイリッシュコーヒー)
カクテル言葉:暖めて