あなたが好きです

03. Earthquake





 本日最後の俺のお客サマをお見送りしたのは、日付が変わってから15分後のこと。頬をピンク色に染めあげて手を振る姿に、こちらもひらひらと振り返し、後に来るであろうメールへの返信を考えながら、大理石に輝く磨かれた床を歩く。今日は終わるのが少し早くていい。
 そのまま卓の掃除を終わらせて、あとは奥の部屋で経理業務を担っている孤爪に今日の売上金を報告すれば、本日の俺の業務は終了となる。
事業をしている立場とはいえ、経理のノウハウは基本的なことしか分からないため、雇うという形で専門的な知識や資格を持つ孤爪にやってもらうのは本当に助かっている。

「お疲れ様」
「うん、お疲れ」

 ちょうど誰かの計算をしていたのだろう、孤爪はパソコンのキーボードを叩いている最中で、ちらりとこちらに一瞥をくれた後、また画面に視線を戻した。
 カタカタとキーボードの軽やかな音が室内に響く中で、時々力強くガチンと鳴るのは、孤爪にしては珍しい。心做しか顔を顰めているところを見ても、随分と穏やかではないみたいだ。

「……1本吸う?」
「うん」

 孤爪が短くお礼を言いながら、人差し指と中指を立てるので、先程胸ポケットから出したタバコを差し込んでやる。「火は?」ジッポを揺らして尋ねれば、「大丈夫」と返ってきた。
 孤爪はパソコン横に置いてある自分のライターで火をつけ、ゆっくりと煙を吐き出した。

「なにがあったの?」

 と尋ねれば、意外と表情豊かな孤爪は、眉間に皺を寄せてからクレームをこぼす。

「クロが遅い」
「あー……」

 たしかに、営業終了時刻が迫っているというのに、黒尾さんはへべれけなお客サマに捕まったままのはずだ。あのお客サマは、俺たちの中で中々しつこいことで有名だが、そこそこお金を落としてくれているだろうし無下に出来ないのだろう。そういうお客サマの扱いが上手な黒尾さんが苦戦しているなんて珍しい。

 黒尾さんが終わらないと、経理を担う孤爪も終わられない。特にこの時間は精算ラッシュで、だからこそ孤爪の眉間の皺が濃くなっていく。

「赤葦終わらせてきてよ」
「……難しいこと言うね」

 こういうところは個人事業故に厳しいところだ。ヘルプに着くことは出来るが、今からヘルプだなんて余計に営業時間が長引くだけ。「はいはい、終わりですよ〜」と乱入するのはもっと厳しい。
 それは孤爪ももちろん分かっているので、心底面倒そうに顔を顰めてもそれ以上は何も言わない。多分半分以上は本音だろうけれど。

 短くなったタバコの先端を灰皿で潰しながら荒々しくキーボードを叩く孤爪を宥めながらも、私物の入ったロッカーへと足を進めた。ポケットに入った営業用のスマホは先程からひっきりなしに鳴っているけれど、それは後からだ。
 まずはプライベート用を確認しようと、ロッカーを開け鞄に入れておいたスマホを手に取る。そして、ロック画面に表示された通知に目を剥いた。

「っ、孤爪ごめん! 俺帰る!」
「え、あ、うん。分かった。お疲れ様」
「お疲れ!」

 無造作に鞄を掴んで、慌ただしく裏口へと走っていく俺に孤爪が肩を揺らした気がするけれど、それに対するフォローは特にできなかった。明らかに様子がおかしい俺に、特に詮索せずに見送ってくれる孤爪の優しさを拝んだ。例えばこれが黒尾さんだったら、きっと根掘り葉掘り訊かれていたはずだ。

 1階で停まったままの業務用エレベーターを待つ時間さえも惜しく、非常用階段を駆け下りた。たぷん、と胃の中で酒が揺れた気がした。




『こんな時間にごめんなさい。これからお会い出来ませんか?』というメッセージが来ていたのが1時間前、短い着信が30分前、『すみません…さっきのは気にしないでください。申し訳ないです…』というメッセージが来たのはスマホを見る僅か5分前のことだった。
 名前さんからのお誘いだということで舞い上がったのは一瞬で、次に訪れたのは、言いようのない違和感である。
 彼女がこんな時間に連絡してくることも、『ごめんなさい』という言葉から『すみません』に変わり、しかも『申し訳ないです』まで付いてきたことも、筆舌に尽くしがたい違和感が俺の胸をざわつかせた。
 結果的にはお役御免になってしまったみたいだが、それが彼女の中で解決したからではなく、俺に遠慮をしてあの文章だとしたら――、なんて、一縷の希望に賭けてみる。俺としては、想いを寄せる相手に頼られるのはなんとも嬉しい。
 家に帰るにしても、名前さんの元へ行くにしても、この街からは出なければいけないので、階段を駆け下りた足でそのまま駅へと走った。頭と胃の中で酒が回って、さすがに具合が悪くなりそうだけども、今は彼女が最優先だ。それに、アドレナリン的なものも十分でている。

 この街は交通の便には困らない。ギリギリだが終電もまだ大丈夫だし、どちらの方面にだって行ける。短くなった息を整えて、着信を押した。



 耳に響くコール音、3回目。プツッと機械音が切れ、『も、もしもし……? 赤葦さん……?』とどこか窺うような声が耳を温めるが、その声は鼻声で、名前さんに何かあったことは明白である。

「メール気づけなくてすみません……」
『い、いえ! 私の方こそ、遅い時間にごめんなさい』
「気にしないでください。それで名前さんは今どちらに? もし良ければ行きますよ。それとも誰かとお出かけしてますか?」
『今は家に1人ですが……こんな時間に来ていただくのはさすがに申し訳ないですし……』

 言葉選びは慎重に。彼女の性格上俺に申し訳なさを感じているのは何となくわかるが、全くもって迷惑ではないし、どうすれば傷心している彼女の心に入れるかなんて考えているくらいだ。だから遠慮なんてしなくていい。しないでほしい。俺を求めて欲しい。

「名前さん」
『は、はい!』
「俺があなたに会いたいです」

 電話口で彼女の息が止まる音がした。















          **

『お願い、します……私も赤葦さんに、会いたい……です』

 申し訳なさと嗚咽を孕んだ懇願が聞こえた時には、既に俺は名前さんの最寄り駅方面の電車に飛び乗っていた。2人で食事に行った時にはなるべく駅まで送るようにしているので、乗り換えさえ確認すれば辿り着くはず。
 電車内なので名残り惜しくも電話を切り、アプリで乗り換えを確認すれば、遅延がない限り終電に乗ることが出来る。そこからは1本で行ける算段だ。駅からのルートは、名前さんが住所を教えてくれたので、地図アプリを頼ることにする。

 不謹慎だが、俺としては願ってもない幸福だった。どんな理由であれ、何番目であれ、名前さんが俺を頼ってくれたのは紛れもない事実なのだ。
 しかも涙を流して鼻を啜って会いたいと懇願してくれるなんて。

『もう少しで乗り換えします。あとは1本です』
『ありがとうございます。お気をつけて』

 ぺこぺことフクロウが頭を下げるスタンプが随分と愛らしい。スタンプをタップして、同じのをダウンロードする下心を許して欲しい。

















          **

 目的地である名前さんの最寄り駅に着いたのは、電車に飛び乗ってから約30分前後のことだった。既に地図は送られてきており、アナウンスするナビゲーターの声に沿って10分ほど歩けば、送られてきた画像と同じ外見のマンションを見つけた。ここだ、と吐き出した独り言は夜空に消える。

『着きました』
『部屋番号505を押してください』

 エントランスのオートロック前でメッセージを送れば間髪入れずに返ってきた数字を、自動ドア付近に設置されたインターフォン用ボタンで入力すると、機械音じみたクラシックが小さく鳴り、ガシャンとロックが外れる音がした。そして自動的に開くドア。あとは、言われた階へと足を進めるだけ。

『着きました』

 エレベーターを降りて部屋の前に立つ。走った時よりも暴れている心臓を宥めて、もう一度同じ文章を送った。既読はついたが特に返事はない。
 その変わり、バタバタと若干慌てた音が部屋から響く。そして、ドアノブが降りて、そして。

「こんばんは」
「っ、こんばんは……っ、来てくれて、ありが、とうっ、ござい……ます」

 ひょっこりと覗いた顔は既に涙に濡れている。嗚咽のせいで声が細切れになりながらも頭を下げたこの人がやはり愛おしい。笑った顔だけではなく泣いた顔も美しいだなんて、この人は最強なのかもしれない。

「こんな時間に、ごめんなさい……」
「いいんですよ。俺が会いたくて来たんですから」
「あかあしさ……っ、」
「だから泣かないでください。ね?」
「本当に、本当に、嬉しいです」
「っ、」

 腫れている目元を何度も拭いながら何度も何度も謝る名前さんの細い腕を引き寄せて、そのままきつく抱きしめた。もう大丈夫だ、とあなたが好きだ、という気持ちを乗せて、抱きしめながらも子をあやすようにぽんぽんと背中を摩る。

「俺がいますから」

 とうとう俺の肩に頭を預けて、声を上げて泣いてしまった名前さんの、肩越しに見えたヒールの片方は、踵の部分がぽっきりと折れていた。








▽Earthquake(アースクエイク)
カクテル言葉:衝動