あなたが好きです

02. Olympic








 上品な紅いルージュで口許を彩る目の前の彼女は、それはもう綺麗に顔を綻ばせている。天井から伸びたシャンデリアが作り出す穏やかな光が、長い睫毛に反射して煌々と輝いている。そして、大きな双眸を隠すように伏せた一連の流れが、酷く美しかった。
 先が整えられ亜麻色に色付いた細い指で、ナイフとフォークを上手く使い分ける姿に、育ちの良さまで垣間見えた。
 俺はと言えば、こういう店は太客に対するアフターでしか利用しないせいで、分かることなんて、ナイフとフォークの基本的な持ち方や、外側から使うなどと言った、マナー講座初心者が受けるような付け焼き刃程度の知識と感性しかない。しかし、彼女は、そんなこと気にしないとでも言うように楽しそうにしてくれた。
 何より、小ぶりの唇に食事を運ぶ度に、本当に美味しそうに顔を綻ばせるので、こちらまで幸せな気持ちになる。

 そんな彼女が、一旦フォークを置きワインを口許で傾けた。こくりと喉が揺れる。

「まさか、助けてくださった方があの時の方だとは思いませんでした」

 本当にありがとうございます。彼女――もとい名前さんはワインで喉を潤したあと、祈りを込めたような声色で、何度目になるか分からないお礼を紡いだ。

「いえいえ、俺もびっくりしました」

 そして、俺ももう何度目になるのか分からない返事をする。
 先程から同じような会話がなされるのは、決して嫌がらせや記憶喪失なんかではなく、俺達の再会が、あまりにも衝撃的なものだったからだ。実際、俺もあの瞬間、信仰すらもさほどしていない神というものの存在を拝んだ。
 名前さんの、大きな瞳を更に瞠目させたあの顔を、今でも鮮明に覚えている。とは言っても、まだ一週間しか経っていないのだけれど。

「重ね重ね、本当にありがとうございました」
「いえ、その前に俺も助けてもらいましたし。御相子です」

 最初は随分と申し訳なさそうにしていた表情も、『御相子ですね』と言えば、ちょっとだけ恥ずかしそうに、けれどもどこか楽しそうに笑ってくれるので良かった思う。
 言っておいてなんだが、御相子という言葉の使い方が違うような気がしてならないのと、成人をとっくに迎えた人間が使うことに僅かな気恥ずかしさはあるものの、今の俺たちを纏めるのならば、この言葉が一番適任であるはずだ。

 出会ってからまだ3回目。しかもしっかりと話したのは今日が初めてなのに、もうすっかりとハマっているのだから怖い。















          **

 名前さんとの再会は、店から最寄りの駅前だった。繁華街近くの駅ということで、人も多ければ治安も悪い。キャッチや勧誘、窃盗や喧嘩を撲滅させる放送が流れていても、守っている者は少なく警官のパトロールや出動は後を絶たない。その日も相変わらず、この街は喧騒と騒々しさに溢れていた。

 うちの店はそれぞれが個人事業主となり、それぞれが自分の店を持っていて、管理者から土地を借りているという形で成り立っているが、何故かホスト同士の助け合いやヘルプ精神が強かった。多分ランキングや売り上げの競争、ノルマ、それに伴う嫉妬や嫌悪といった懸念すべき概念がないからだと、岩泉さんや澤村さんは言っていたが、たしかに納得である。
 しかし、レンタルスペースの飲食店ということは、要はトイレやキッチンやカウンター、カラオケ、ソファーなどは共有して使用しなければいけない。スペースを提供してくれている烏養商事からは、当たり前だけれど雑費などが提供されるわけもなく、トイレットペーパーなどの備品はホスト達やボーイ達が公平に交代制で買う決まりだった。
 そこには年功序列や歴などは一切ない。交代制とはいえ、ホストの人数もそれなりにいるため、年に2度順番が回ってくるかどうかという頻度だけれど。

 その日は木葉さんの番だったのだが、誕生日イベントのせいでかなりの量を呑み、閉店後はソファーの上で潰れていたので、焼き肉1食分と次の俺の時に代わってもらうことを条件に交代した。正直面倒ではあったものの、おかげで名前さんと再会でき、しかも焼き肉奢りまで手に入れたのですべて良しとする。


 9月終わりの、未だに生温い風を浴びながら、店近くの24時間営業が売りのスーパーに行く途中、(近くとは言っても駅前を通らなくてはいけないが、そこが一番安い。とくに買う店は決められていないので、どうせならば安いほうが良い。多分店のほとんどの人間がここに来るはず)人が疎らに行き来している駅を横切った時。

「や、やめてください……」

 か細くたどたどしく、そして悲し気な声が喧騒の合間を抜けた。
 刹那「いいじゃん、少しくらい」と低劣な声が追い打ちをかける。男たちの真ん中で俯き、肩を震わせている女性の顔はよく見えないが、3人の男たちに囲まれて怯えている様子だった。

(面倒くさ……)

 この街のこの時間帯のナンパ数は言わずもがなだ。ここは助けるべきなのだけれど、ホストということで折角助けたところで、こいつ営業かよという顔をされることだってあったわけで、できることならばスルーしたいところ。直接助けるくらいならば、近くの交番に伝えてくるのが手っ取り早いことは、この街に来てから身に付いたものだった。しかし、

「人を待ってるんです」
「なら俺らも一緒に待っても良い?」
「それは……」
「名前、お待たせ」
「え……?」

 囲まれている女性が顔をあげた時、俺の足はまっすぐそこへと向かっていて、気づけば声をかけていた。
 突然現れた男が名前を呼んだことに驚いたのか、それともほかの理由があるのか、呼ばれた名前さんは瞠目し、割って入ってきた俺を見詰めていた。

「帰ろ」

 別に演技派なわけではないが、表情を隠すのは得意分野である。すかさず彼女の掌を握ると、舌打ちをする男達を横目にそそくさと踵を返した。「へ……、え、あ、う、うん……」心底驚いている名前さんは、長い睫毛をぱちぱちと羽ばたかせながらも、最後は俺に合わせてくれた。



「ここまで来たら大丈夫ですね」

 お互いに一息ついたのは、駅から離れたスーパーの前である。念のため後ろを振り向いてみても、男たちの姿は見えない。そのまま視線を名前さんへと移すと、彼女はぼーっと俺を見ている。

「名前さん?」

 名前を呼ぶと、びくりと肩を震わせた。「っ、は、はい」と、慌てて返事をする姿がなんだか酷く愛らしい。

「勝手に連れ出してすみません。怪我とかはありませんか?」
「え、と……大丈夫です。ありがとうございます。えー、とこの前の方ですよ、ね……?」
「そうです。覚えていてくださったんですね。あの節はありがとうございました」

 彼女が覚えてくれていたことに幸甚を噛み締めながらも、頭を下げることは忘れない。こういうのは最初の印象が肝心なのだ。
 俺が肯定したことが嬉しかったのか、名前さんはぱぁっと破顔させると「良かった!」とぎゅうっと掌に力を込めた。そして、きっと気付いたはずだ。

「あっ、手、すみません」
「いえいえ。お気になさらず」

 手を繋いでいることを忘れていたのだろう。顔を真っ赤にさせてパッと離してしまったのが少々惜しい。けれど、髪の合間から見える耳が赤く色づいていたのを拝めたので結果吉である。
 名前さんは呼吸を整えて、「本当にありがとうございました」と深々と頭を下げた。

「そういえばどうして名前を知っていたんですか?」という疑問には、前に会った時に名前を呼ばれていたので――という言い訳を後にすることとなる。










          **

 そのあと、俺としてはお食事でも行けたらなんて思っていたのだが、名前さんは本当に駅近くで働く兄を待っていたらしく、結局その日はお別れすることになった。
 けれども、名前さんから連絡先の交換の申し出と、お礼と称した食事の約束を提案してもらったのは、願ってもない幸福である。それが今日、俺のオフの日で、最初は名前さんが奢ると言ってくれていたが、最後に俺が払うように仕向けるつもりである。

 こういうのに詳しそうな及川さんとミャーツムに、良い感じの店について教えを乞うた時に余計な詮索をされたが、適当にアフターだと言っておいた。揶揄されるのはごめんだし、名前さんのことを紹介すらもしたくない。何より、俺はホストという職業に就いていることを隠しているので、彼女と職場の人間が会うのは困るのだ。ちなみに、彼女の中で、俺は普通の営業マンということになっている。この街にいたのも接待だと。別にやましい仕事ではないし務めていることに後悔もないが、なんとなく口を噤んでしまった。新橋方面で勤務しているOLだという彼女が、ホストの仕事を受け入れてくれるかがまだ分からなかった。

 会って3回目。メッセージアプリでの会話はあってもきちんと話したのは今日が初めて。それなのに。

「助けてくださったのが赤葦さんで本当に良かったです」

 だなんて爆弾を落としてくる彼女に心臓はハチの巣状態である。もう、戻られない。








▽Olympic(オリンピック)
カクテル言葉:待ち焦がれた再会