収録開始日

「えー、本当に行っちゃうの?」
「はい! 今日も頑張ります!」

 玄関にて意気込む名前に、寝巻き姿の悟は唇を尖らせた。4月1日の朝である。
 良い意味で毎日初心全開の名前は、新年度の開始日ということもありいつも以上に気合いが入っているようだが、悟にとっては4月1日なんてエイプリルフールでしかなく、2人の温度差は計り知れない。これで名前が新マネージャーだったらいくらでも気合い入れるのにと何度思ったことか。
 しかも、今日から名前の受け持ちは家入硝子≠ニ悠仁と葵≠ナあり、悟が危惧していた通り、幾分早く出社して、硝子をロケ地へと送った後に悠仁と葵の収録に着いていくという多忙具合だった。
『ほらやっぱり一緒にいる時間減ってるじゃん!』とは悟の嘆きである。

「五条さんもお仕事の準備してください」
「え〜」

 名前の出勤時間がいつもよりも早いために玄関でこのようなやり取りをしているけれど、悟だって収録がある。30分後には伊地知が運転する車に乗って、テレビ局へと向かわないといけないのだ。

「伊地知さんが困っちゃいます」
「男の困り顔に需要なんてねーのよ」
「五条さんは私が困っていたら助けてくれるじゃないですか」
「それは君が僕の大好きな人だからだね」

 名前の返しに、そもそもこの子はなんで他人と自分を同列に語っているんだと悟は頭を抱える。この可愛い奥さんは、自分が悟にとって何者にも変え難い存在だということの自覚がないのだ。

「とにかく、準備しましょう?」
「んー、だったら名前からキスしてよ。それなら頑張るからさ」
「そ、それは……」

 口元をにんまりと緩めた悟からの要望に、名前は頬を真っ赤に染め上げた。「ほらほら〜」と指で唇を啄けば、更に赤くなる名前である。恥ずかしさから、双眸を伏せてぷるぷると震える姿は可愛いの象徴だった。

「五条さんいじわるです……」
「たしかにいじわるだったね。このままだったら名前届かないもんね。屈んであげる」
「そうじゃないです。やっぱりいじわるだ」

 土間に立つ名前と、一段上に乗ったままの悟である。ただでさえ目立つ身長差が、一段分広がっているせいで、名前がどう頑張っても届かない位置に悟の顔があった。勿論、名前のいじわる≠ェ『届かない』ことを指しているわけではないことは悟も気づいている。しかしこの男、好きな子ほどいじめたいが根元にあるのだ。悟は元々、サディストのきらいがあった。
 許されるのならば、このままベッドに戻って唇以外のところも啄きたい。愛されている自覚が足らない名前に、これだけ愛されているんだということを分からせたい。しかしながら、名前がこれから迎えにいくのはあの硝子だ。
 察しがいい硝子なので、万が一出勤前の名前に悪戯をしたことがバレたのならば、根性焼きだって厭わないだろう。

「五条さん……」
「はーい」

 やっと意を決してくれたのか、柳眉を垂らしながら羞恥と困惑を表情に滲ませた名前が、顔を上げた。

「その……えっと、キ、キスは私にとってもご褒美になってしまいます。なので、仕事が頑張ったら……その……してください。その時私も頑張ります……」
「え?」

 言うや否や、名前は脱兎のごとく玄関を開けて行ってしまった。取り残された悟は唖然とし、開閉音が鳴ったドアを眺める。そして名前の言葉を理解した時、顔を真っ赤にしながら「……だから名前も五条さんだってば……」と的はずれなことを言うしか無かった。

















         ▲▽


 名前が『悠仁と葵』の収録に行くのはこれで3回目である。2回は七海の引率付きだったので、引き継いでから一人で行くのは初めてだった。今まで、ドラマや映画が主な硝子のマネージャーを担っていた名前にとって、芸人が呼ばれるようなバラエティ番組は畑違いである。右も左も分からない状況ではあるが、事前に七海が抜かりないサポートをしてくれたおかげで、なんとか準備に勤しむことができそうだ。
 まずは悠仁と葵と共に、各それぞれのスタッフ、プロデューサーにしっかりと挨拶して回った。途中、七海が心配の連絡をしてくれたので、順調である旨を返した。今は、悠仁と葵を楽屋に送り届け、名前はスタジオ内で担当者との打ち合わせを行う。

「名字さん!」
「あ! おはようございます、今日はよろしくお願いします!」

 担当者は、以前硝子が映画の宣伝で朝の情報番組に出た時にお世話になったスタッフだった。顔見知りの姿に、名前は肩の荷が少しだけ降りた気分だ。

「そういえば名字さん結婚なさっていたんですね」
「え!」
「あ、すみません。指輪が見えて」
「あー! はい、そうなんです。結婚しております」

 しかしながら、突然の指摘に、心臓が飛び出でるかと思った名前である。指輪は『せめて指輪はつけて欲しい。男避けにもなるから』と悟が渡したものであり、一応、夜蛾からは『相手が悟だとバレないこと』を条件に許可してもらった。相手の職種を聞かれる時はサラリーマンと言うようにしている。ちなみに、同年代サラリーマンの月収では到底買えないような額の指輪だということを名前は知らない。

「そうでしたか。では本日の収録についてお話します。おふたりにはホラー大好き芸人≠ノ出ていただきます」
「はい、資料拝見しました」
「ありがとうございます。悠仁さんは映画鑑賞が趣味だと聞いています。葵さんはとあるきっかけでホラー映画を観るようになったと。それをお話いただければ大丈夫です」
「承知しました」

 これらは、事前に渡されていた資料に記載されているので、最終確認である。悠仁は、元々映画鑑賞が趣味のようで、そこからの抜擢。葵は、以前推しアイドルの高田ちゃんがホラー映画の某シリーズに出たことから、今やすっかりとホラー通となったために抜擢。コンビ揃っての雛壇は嬉しいものがある。
 他にも出演者を見ていけば、じゅじゅチューブチャンネルで心霊スポットを回っている芸人だったり、ホラー大好きを公言している芸人が揃っており、呪力舎からは悠仁と葵の他に、俳優の吉野順平がゲスト出演するようだった。

「どうする?」
「今から抑えるのは難しいかと……」
「だよなあ……」

 スタジオで打ち合わせと最終確認をしていると、段々とスタジオ内が慌てふためいていく。途中、スタッフに耳打ちしにくる者もいて、ただ事では無いことが窺えた。

「どうかなさったんですか?」

 名前が尋ねると、スタッフが「実は……」と苦い顔をしながら言った。

「本日収録予定だった芸人さんがコンビ共々体調不良で欠席のようで。今穴埋めしてくれる代わりの芸人を探しているところです」
「なんと……」

 どうやら、出演予定の芸人が流行りの病によって床に臥せっているらしい。そこで急遽代役を用意するか、それともほかの出演芸人のトーク割り当て時間を長くするかで話し合っているという。仮に代役を立てるとしたらその芸人を確保しなければいけないのもなかなか厳しい。
『ホラーが好きな芸人』という縛りがあるゆえに、代役にしろ、トーク時間調整にしろ、難しいものがあった。

「申し訳ないんですが打ち合わせは以上とし、僕は緊急会議に行って参ります。すみません」
「とんでもないです!」

 スタッフが急遽名前との打ち合わせを終わりにし、緊急会議に参加するために席を立った時、背後から喜びに満ちた大きな声。

『代役として祓ったれ本舗さんが決まりましたー!』

 それにはスタジオ内がどっと沸いた。
 祓ったれ本舗といえば、芸人を対象としたあらゆるランキングで上位総ナメ、老若男女――特に女性からの支持が高く、今をときめく若手芸人の中でトップの座に君臨している2人である。賞レース優勝をはじめ、寄席、視聴率、雑誌への貢献はさることながら、自分たちの配信チャンネルでは常に同接1位など、輝かしい栄光を持っている。
 今回の趣旨である『ホラー映画大好き芸人』についても、祓本の2人は祓本チャンネルにて心霊スポットめぐりをしているし、映画鑑賞も趣味のひとつだ。そもそも悠仁に映画を勧めたのは、悟と傑だった。申し分無し。
 何度かじゅじゅトーークに呼ばれている2人であり、その都度視聴率に貢献してきたため、スタッフからの信頼も厚かった。

 代役が決まり、良かったと両手を上げて喜んでいるスタッフ陣の中で、名前だけが別の意味で驚いている。
 実は悟と同じスタジオというのは初めてであったのだ。先述の通り、バラエティ番組とは畑違い、出ても映画やドラマの宣伝が主な硝子に着いていたので、こうして悟と収録が被ることが盲点だった。

 スタッフ達が安堵している中、名前は1人慌てふためくことになる。