収録開始日2

 名前を見送った悟が伊地知の車に乗ると、先に乗車していた傑が「なにかいいことでもあったのかい?」と開口一番に訊いた。さすが十年来の親友である。悟の仔細な表情で今日の調子を汲み取るのが上手い。
「帰ったら名前からキスしてもらうんだよ」「へえ、良かったね」なんて言葉を交わしている後部座席は、爽やかな朝を表すかのように晴れ晴れとしていた。
 一方、運転席では、伊地知が険しい顔をしていた。先程事務所の事務員から届いたメールが原因である。
 ひとまず今は2人をスタジオに届けることが最優先――。伊地知は不安を募らせながらも、安全運転を心がけながらアクセルを踏んだ。
















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 案の定と言うべきか、到着したスタジオ内は混乱が犇めき合っていた。
 本日収録予定のバラエティ番組にて、常任司会者を務めているタレントの薬物所持による緊急逮捕。朝一番にトップを飾った薬物所持のニュースは、スタジオ内を混乱させるには十分だった。
 一旦悟と傑を楽屋へと連れていき、待機令を伝えた伊地知は、プロデューサーからの指示を待った。結果、本日の収録は中止。これから番組スタッフ陣が会議を行い、本日ないし明日にでも収録振り替え日と今後の方針を伝えるという結論に至った。
 そうして、祓本の2人には、予期せぬ空き時間が出来たというわけである。
 楽屋へと戻り、2人に収録中止の旨を伝えると、

「迷惑な奴だな」
「まあ空き時間が出来たというところは喜ぶべきかな」
「だったら家にいる時に言えっつーの」
「でも自宅待機になったところで名前ちゃんはいないんだろう?」
「……」
「寂しんぼめ」
「あ? 表出ろ、傑」

 という会話が繰り広げられた。納得してくれたのは良かったが、一触即発になりかねない雰囲気はいただけない。何より、祓本しかいない空間とはいえ、奥さんの話はやめて欲しい。
 そろそろ2人を止めなければと伊地知が動いたところで、鳴り響いたスマートフォンである。着信の相手は何度かお世話になっているとある番組のスタッフだ。
 通話ボタンを押して耳に入れた内容は、これから収録予定の同局番組じゅじゅトーークへの緊急オファーだった。
 伊地知は思案した。じゅじゅトーークを収録しているスタジオは同じ局内なので、移動時間に関しては問題ない。撮影時間も今回中止になった番組と概ね同じなので、次の予定に支障は無さそうだ。今回のトークテーマ的にも、2人は該当するだろう。
 ただ、せっかく降ってきた偶の休暇、2人は納得してくれるだろうか。特に懸念すべきは悟である。
 しかし、その不安は、電話の先でスタッフが言った出演者によって、払拭された。伊地知の頭で展開されるスケジュール帳、抽出される同期の予定――問題ない、むしろ好都合だ。
 伊地知は承諾し、電話を切った。そして、

「五条さん、夏油さん。申し訳ないんですが、緊急の仕事が入りました」
「はあ?」
「伊地知、内容は?」
「じゅじゅトーークさんのホラー大好き芸人です」
「それって……」
「悟?」

 悟は寄せていた眉根を戻し、勢いよく立ち上がった。一連の言動に訝しげにした傑だが、「名前がいるスタジオ……」と独りごちた悟で全てを察した。










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「祓ったれ本舗さん入りまーす!」

 スタッフの掛け声と同時にスタジオ内へと入ってきた祓本に、室内は賑わいを見せた。スタッフ陣にとって今の祓本は救世主である。皆が浮き足立っていた。
 そんな中で、名前は一人慌てていた。入ってきて早々、悟が名前に向かって小さく笑ったからだ。
 祓本の登壇が決まったと聞き『いやでもここには沢山の人がいるし関わることは無いよね』なんて思っていた名前だが、この旦那、入室早々目敏く名前を見つけてうっすらと笑ったのだ。周りのスタッフからは、愛想良くしているだけと見えているのが幸いなところだが、名前は気が気ではない。

 しかも、祓本とマネージャーの伊地知がこちらに向かってきているではないか。それが、名前と打ち合わせをしていたスタッフ――番組スタッフ内では偉い人だと聞く――に挨拶をするためだと分かっていても、心臓は落ち着かなかった。案の定、目の前に来た祓本御一行である。

「祓ったれ本舗です、本日はよろしくお願いします」
「こちらこそ突然すみません。出演いただきありがとうございます」

 伊地知がスタッフと挨拶を交わしている傍で、悟の視線は名前に注がれていた。
 名前はなるべく目線を合わせないよう心掛けていたが、

「名字さんも本日はよろしくお願いします」

 という悟の声で合わざるを得なかった。普段敬語なんて使わないのに、こういう時に出してくるのはずるい。よく言えば『弁えている』だが、本当は揶揄いたいだけだと名前は気づいている。悟がうっそりと笑っているのも怖い。
 ただ、挨拶をされて返さないわけにもいかないので、名前は「五条さん、夏油さん、伊地知さんよろしくお願いします」と頭を下げた。ただ、ここで2人のやり取りにスタッフが疑問を持ってしまったらしい。

「あれ、お知り合いですか?」

 とスタッフが訊く。さてなんと答えるのが最善かと、名前が慌てている中、悟は名前の隣に移動し、名前の肩に手を乗せた。スタッフの後ろで傑が頭を抱え、伊地知がぎょっと目を剥く。名前は肩をビクつかせながらも、なされるがままだ。

「僕達同じ事務所なんですよ。ね?」
「えっ、は、はい、そうなんです」
「ああ、呪力舎さんですもんね」

 受け答え自体は間違っていないが、肩の手はどうにかして欲しい。名前が伊地知と傑にヘルプを込めた視線を向ければ、気づいた伊地知が慌ててスタッフの名前を呼んだ。次いで、傑が今日の流れについて問う。おかげで、スタッフの目線と意識がそちらに向かったのはありがたい。
 ただ、この旦那、スタッフの意識が逸れたことを逆手に取り、名前の肩を軽く引き寄せた。不幸中の幸いは、目の前のスタッフ含め、誰も名前と悟を見ていないことだった。

「名前、あとでね」

 耳元で囁かれ、体は離れていく。そして、悟がまた傑の隣に並んだ。
 一方名前は、『あとでねとは……』と言葉の真意を探している。家に帰った後のことを言っているのか、それとも――。