手中に収まる


 まだ肌寒さが残る三月二日の朝。
 名前はゆっくりと目を開けた。二度ほど、ぱちぱちと瞬きを繰り返すと、瞼の上に乗っかっていた眠気がスっと消える。珍しいこともあるものだ。
 漸く開けた視界の先、眼前に広がるのは引き締まった胸筋だった。言葉の通り目先にある肌色と、ボディーソープの香りに混ざった僅かな汗の匂いには、未だ慣れそうにない。
 更に、少し顔を上げれば、目鼻立ちの整ったかんばせがある。今は隠れてしまっているけれど、けぶるような白皙のまつ毛の下には、目覚めるような青があることを名前はよく知っていた。
 この光景は朝から強烈すぎるーー。寝顔を覗き見ていた名前の心情である。
 寝起きの心臓には中々刺激が強い光景だけれど、こうして隣にいることを許してくれて、しかも寝顔を見せてくれる主人に、名前の心は、幸せで満ちていた。

 名前は、悟を起こさないようもぞもぞと動いて、枕元に置かれていた自身のスマートフォンを手に取った。時刻は五時半ちょっと過ぎ。目覚ましは六時にセッティングしているので、目覚ましよりも早い起床だった。
 自他に認めるショートスリーパーな悟と、どちらかと言えば朝は得意では無い名前なので、どうしたって悟の方が先に起きがちで、こうして彼の寝顔を堪能する機会は少ない。名前にとってはこれとないチャンスだった。

 名前はセッティングしていた目覚ましをリセットしてからスマートフォンを置き、悟の寝顔を見詰めた。
 改めて、綺麗な人だと思う。神様が丹精込めて作り上げた芸術品のようだ。
 悟をよく知る人達は、口を揃えて彼を傍若無人だと言うけれど、寝てしまった名前にしっかりと服を着せてくれたりーーこのまま寝たら風邪引くよ、まあ僕が脱がしたんだけど……が悟の口癖だーー、料理が得意ではなかった名前に教えたり、ヘトヘトになって帰ってきた時は甘やかしてくれたりと、基本名前には優しい。
 何より、眠っている最中も、こうして大きくて逞しい手を名前の腰や背中に回してくれている。名前にとって、悟の腕の中は、世界一安心できる場所なのだ。
 言動から、悟の方が名前の方を好きだと思われがちだが、名前も大概で、悟のことが大好きである。

 名前は、腰に回っている掌をそっと掬って、自身の指を絡めた。親指でさとるの指の輪郭を撫でてみる。関節から関節へと移動するのも大変で、改めて悟の手の大きさを感じた。すると、

「え? わっ、」
「よいしょっと」

 突如力なく預けられていた指にきゅっと力が入り、名前が視線を繋いだ手から前へと戻した刹那、勢いよく引っ張られた。そして、気づいた時には、寝姿勢だったはずの悟はベッドに座っており、名前は悟の膝の上に着地している。見事な早業である。先程まで長いまつ毛に隠されて鳴りを潜めていた双眸はしっかりと開かれ、名前を見上げていた。

「ご、五条さん……」
「おはよう、五条さん」
「うっ……おはようございます、さ、さとるさん……」
「うん、よく出来ました」

 褒め言葉と共に頭を撫でられれば、名前は嬉しさと恥ずかしさかで胸がいっぱいになった。しかし、いつもならばこのまま僥倖を満喫するけれど、今はそれどころではない。果たして彼はいつから起きていたのだろうか。名前の背中に嫌な汗が流れる。

「ごじょ……悟さんいつから起きて……?」
「うーん、三十分くらい前?」
「私よりも早起きじゃないですか!」

 名前は頭を抱えた。それを見、悟がくつくつと笑う。

「可愛い奥さんからキスのひとつでも貰えるかなと思って眠り姫みたいに待っていたんだけどね。まあ今日は可愛い手繋ぎもらっちゃったし熱い視線も貰ったから我慢してあげる」
「え、と……」
「まあキスは追追、ね」
「おいおい……」
「そう、おいおい」

 どうやら全て見られていたらしい。名前が起きた時から悟の手の上だったということだ。恥ずかしさから逃げてしまいたかったけれど、彼の両手は名前の背中と腰に回されている。離す気は無い。

「僕ってさ、どちらかと言うと見上げられることが多いんだよね。だから僕をこうして見下ろせるのは名前の特権だよ」

 碧眼を細めて「可愛い奥さんの特権ね」と腰をひとなでした悟に、名前の心臓は持ちそうになかった。やはり朝から刺激が強い。

 悟は、基本的に口調を使い分けている。親友兼相方の傑や同い年の硝子、マネージャーの伊地知の前では、一人称を『俺』とし、口調も少々荒い。しかし、後輩や雑草ーー主に祓本五条悟のファンを指すーーの前では『僕』とし、口調は比較的マイルドだった。
 さて、名前に対してだが、どちらの口調も併用しており、名前がどちらも好きなことをいい事に、彼女の反応見たさに変えていた。更に言えば、『僕』の方に大人の余裕を感じ、この口調で詰められれば弱いことにも、悟は気づいている。

 要は、いつなんどきも、名前は悟の手の中ということだ。