赤葦くんと幼馴染ちゃん
 彼女との出会いは小学1年の運動会だった。正確に言えば、本当の出会いは入学式だけど、その時は、彼女は彼女で女の子たちといたし俺は俺で男で固まっていたし、だから彼女のことはあまり意識していなくて、正直言うと運動会前の記憶は然程ない。

 俺にとっての青天の霹靂は、6月に開催された初めての運動会である。1年生の徒競走は一番最初に行われて、まずは男子から走って次に女子が走るというよくある徒競走だった。その時から俺はそこそこ運動神経というものに恵まれていたし、足もそこそこ速かったので1位になった。別に勝敗には然程興味がなかったし、いつも通り走っていたら最初にゴールに着いただけのこと。こんな言い方をしたら嫌味な奴だと思われるかもしれないが、事実なのだから仕方がない。口には出さないけれど。
 走り終わり、1位の人がもらえるという金メダルを貰い席に戻ると、丁度女子が走っていた。クラスの待機場では砂いじりをする子がいたり応援している子がいたりそわそわと落ち着かない子がいる中、俺はなんとなく女子の徒競走を眺めていたはずだ。――そしていよいよ。

 ピストルの音と定番のBGM、そして放送委員のアナウンスが響き、グラウンドは随分と盛り上がっていた。しかしその盛り上がりも、1人の女の子が派手に転んだことによって落胆に変わった。
 転んでしまったのは、トップを走っていた同じクラスの女の子だ。定番のBGMは相変わらず軽快な音を鳴らし、その女の子を次々と無情にも抜かしていく足音ばかりが響く。その子と1位を競っていた子はとっくにゴールをして、続くように着々とゴールテープを切っていく児童たち。
 砂埃が舞うグラウンドに伏せながら中々起き上がらないその女の子を、先程まで砂いじりをしていた子も、そわそわと落ち着かない子も、皆が心配そうに見つめていた。
 これはまずいと、ゴールで控えていた担任の先生が動くのが見えた、その瞬間だった。女の子はゆっくりと起き上がって、ハーフパンツに着いた砂埃をパタパタと掃った。小学1年生の体にしては明らかに大怪我な状態で、膝から流れる血が脛と靴下を染めている。
 女の子は、覚束無い足取りで走り出した。先程までのスピード感は皆無で、いつか倒れてしまいそうで、それでも走っていた。あの時の光景は、今でも鮮明に覚えている。

 皆が生唾を飲み込み見守る中、やっとゴールをした女の子。沸きあがる歓声は、地を揺らすほどのものだった。一先ず安心、とでも言うように、号令とピストルの音が響く。時間が戻ったグラウンドの中を数人が走る。
 女の子のことを気に留めていた人たちもきっと新たな徒競走に視線を移していたはずだ。しかし、実は事件は続いてた。女の子は泣いてしまったのだ。
 気づいたのは、俺みたいに目が離せなかった者たちと、ゴール付近にいた人だけだと思う。多分。それくらい小さな出来事である。
 係の人に6位の紙を受け取った彼女は、蓋をしていたものを零すようにわんわんと泣いていた。今思えば、6番目にゴールをした女の子が6位の紙を貰うのはごく自然のことで事実は覆らない。しかし俺は、不思議で仕方がなかった。だってあの子はとても頑張っていたのだ。ただ走っていた俺よりもずっと頑張っていたのに、どうして最下位なんだろうって。

 気づいたら俺は、彼女の元へと走っていた。それこそ徒競走のときよりも真剣に。タイムにしたら絶対自己記録を更新したと思う。そして――

『君は一番頑張っていたから、一等賞だね』

 ――誰よりも頑張っていた女の子に、貰った金メダルをかけてあげた。君は一番頑張っていたから泣かなくていいんだよ。他の人が6位だと言っても、俺は君が一番だと思っているよ。そんな思いを込めて。
 すると、困ったことに女の子は、もっと泣いてしまったけれど、最後は笑ってくれた。その涙に濡れた笑顔が、雨上がりの太陽に照らされた向日葵みたいで、俺はこの子の笑顔をずっと見ていたいって思ったんだ。

 それが俺と名前の出会い。


 それから名前と俺の距離が近くなった。親同士も仲良くなり、同じ地区に住んでいたこともあって自然と同じ中学に上がった。その時から名前は甘え上手で、なにかがあるとすぐに俺の隣に来る。俺が手を差し出すと、俺の大好きな笑顔を見せてくれる。それが幸せだった。
 俺がバレー部に入部してから疎遠になってしまうかと危惧したが、寂しがり屋の名前のために時間を作って会いに行った。俺の家から名前の家は徒歩15分、自転車ならば5分の距離だから部活終わりに行き来するのは苦ではない。本当に疲れた時は名前から来てくれたし、親同士の関係も良好なおかげで、預けた預けられたの関係が築かれているのも良かった。
 勉強が苦手な名前に教えてあげるためにそこそこ勉強も頑張ったし、料理が苦手な名前のために俺が料理を覚えればいいって思った。
 名前が運動会の日から俺のことを好きでいてくれるのは分かっていたし、俺も名前のことが大好きだったから将来は名前と結婚すると決めていた。

 そろそろ告白をして友達から恋人になろう、だなんて思っていた中学2年のある日。友人の1人が言ったのだ。『名字みたいな幼馴染がいるとか羨ましい』って。なんてことない一言だったんだと思う。なんてことない羨望からの感想だったんだと思う。
 しかし俺は、その幼馴染≠ニいう単語に惹かれたのだ。友達の先にある特別な関係を現すその言葉に。
 正直俺たちの関係が幼馴染の基準を満たしているかは分からない。生まれた時から一緒にいるわけではないし、家も隣同士ではない。同じクラスになった回数も少ない方だし、この中学に通っている人間のほとんどが小学からの関係だ。だけど、この友人の前では、俺と名前は幼馴染に見えたのだ。多数いる名前の友達の中で、俺は幼馴染という深く特別な関係。

 将来、名前は俺の彼女になって、婚約者になって、お嫁さんになって、2人で子育てをするのだ。ならば、その前にこの幼馴染という関係をもう少し体験したい。名前と沢山の関係を築きたい、そう思ってしまった。

『名前は俺にとって大事な幼馴染だから』

 俺達がただの友達をやめた日。恋人になる前に、俺達は幼馴染になった。











▲▽




 告白大会で盛りあがっている会場の中で、人混みをかき分けながら名前を捜す。名前に関しては後ろ姿でも見つけられる自信はあるけれど、人がごった返し常に四方へと移動している状態では、捜すのでさえ一苦労だ。一定の速さで呼吸を整えて走るロードワークや、全速力で走った後に徒歩のインターバルを挟んでまた全速力で走る――をひたすら続けるトレーニングよりも、あの運動会の日よりも、混雑する人混みのせいで息が切れてしまう。また名前が泣いているかもしれないという焦りも体を蝕んだ。

「名前……」

 また1人で泣いていたらどうしよう。お腹が痛くなったと嘘をついてまで泣いていたらどうしよう。あの出会った日に、この子を笑顔にするんだと決めたのに、俺が泣かせてどうする――と、赤葦は走りながら頭を抱える。
 しかし今は、内省している場合じゃない。一刻も早く名前に会って、今までの事を謝って、これからの話をしなければいけないのだ。

 周りは相変わらず学園祭モードで、告白大会もクライマックスを迎えており、会場全体に、生徒会役員のマイク越しの声が響いている。『10番! どうやらこれは本当の告白のようです。どなたを呼びますか?』興奮気味の司会と、続いたクラスと名前に、会場は更に沸きあがった。黄色い声も地を揺らす。そして電気が消えたようにシーンと会場が鎮まった。皆が見守る中、赤葦はひたすら捜し続けた。

「やっぱり携帯持ってきた方が良いか……」

 効率の悪さが仇となっているならば、一旦落ち着いた方がいいのかもしれない。ふっと短く息を吐いて、部室へと踵を返そうとしたときだった。

「名前……?」

 人混みから僅かに離れた木陰で、夕焼けの影に佇む男女が向かい合っている。凝視すると、赤葦の大事な人に向けて、男が掌を差し出しているようだった。まさしく告白シーン。
 僅かに頬を染めている大事な人は、男を見ていて、ゆっくりと掌を重ねようとしていた。目を見開いた赤葦は、地面を蹴りあげるように足を踏み込んだ。

「左東くん、」

『告白成功ー!! なんとっ! カップルの誕生です!』 




幼馴染ちゃんとスタート。

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