赤葦くんと幼馴染ちゃん

 朝から降り続く雨のせいで教室内がなんとなく薄暗い。カーテンを開けているというのに、まるで灰色の世界のよう。窓越しに見上げた空はどっぷりとした曇天に覆われており、時々ごろごろと怪物の腹のような音が聞こえているので、多分雷も鳴っているんだと思う。
 全てを飲み込みそうな雲。その情景が酷く不気味で私は教室を飛び出し隣のクラスへと駆け込んだ。「京治、」幼馴染の体温に触れたくて、大好きな顔を見たくて。自分のクラスでは無いのに、思いっきり扉を開いて足を踏み入れた。足元から大きな音が響く。目の前には、会いたくて堪らなかった大好きな背中が背筋を伸ばして立っている。その姿に安堵して、名前を呼んだ。京治。私の目の前でふたつの影が揺れて、そこでふと気づく。京治の隣に誰かいる。華奢な、女の子。
 呼ばれた京治はゆっくりと振り向き、私を一瞥すると隣に立つ女の子の肩をまるで大事な宝物かのように抱き寄せた。

「そ、その人は?」
「俺の彼女だよ」
「かの、じょ……?」

 彼女できたの? いつ? 訊きたいことが喉元で犇めき合うけれど、次第に呼吸器系が狭まり何一つ言葉にすることが出来ない。京治も、それ以上何も言わない。ただ、私から視線を外しそのまま隣にいる彼女へと慈しむような焦がれるような瞳を向けた。そして、ゆっくりと近づいていく。ゆっくり、ゆっくり。

 油の足りないブリキのように掠れる声は、とうとう音すらも出ず、京治とその女の子の影が重なる瞬間を黙って眺めることしか出来ない。やめて欲しいと藻掻いたところで、私は幼馴染なので止める権利はない。その事を突きつけられたような気がして、双眸を固く閉じようとしたが、まるで接着剤が付いているかのように体も双眸も何もかもが動かなかった。
 そしてその子と京治の鼻先が触れて、そして、そして。







「っ、」

 はぁ、と吐き出した呼吸が重たい。なんだか苦しくて、肩を揺らしながら息を吸う。鼻腔を擽る消毒の匂いがどことなく懐かしく感じた。夢、か……。ぼやけた頭の中でそんなことを思う。

「……名前?」
「京治……」

 だからだろうか。荒く短く肺を揺らす私を見て少しだけ驚いた顔をした京治を見た時、なんだか泣いてしまいそうになったのは。

「怖い夢でも見た?」

 魘されていたけど。そう続けた京治は私が寝転がるベッドに腰をかけ、頭を撫でながら首を傾げている。

「多分、見たんだと思う……」
「曖昧だね」
「うん……」

 夢とは不思議なもので、どんなに衝撃的かつ怖い夢でも虫食い穴のように断片的なものしか記憶に残らない。怖かった、という感情こそあれどいざ内容を思い浮かべてみても不明瞭なものばかりとなる。
 私の夢の中は、雨が降っていたような気がした。

「でも、起きて京治を見た時ね? 京治がいてくれて良かったって思ったから、もしかしたら夢に京治が出てきたのかも」
「それは良かった」

 頭を撫でてくれてる手を捕まえて、そのまま頬へと当ててみる。冷え性の京治の指は相変わらず冷たいけれど、今日もこの温度が好きだ。猫を愛で撫で回すような仕草も、バレーボールのおかげで固くなった指の腹も、全てが大好きだ。

「体育の時からここで休んでたって聞いたけど、体調はどう? 少し良くなった?」
「さっきよりは軽いかな。もしかして今は……」
「うん、お昼」

 どうやら4時間目も丸々寝てしまっていたみたい。

3時間目の体育時に急に下腹がちくちくと痛みだし心做しか視界も揺れているような気がした。教科の中で体育はまだ好きな方だけれど(というか体育を頑張らなければ壊滅的である)、途中で倒れるのはそれこそ迷惑がかかってしまうような気がして、体育の先生に申し出た。予定日に狂いはなかったし朝からそんな気がしていたけれどまさか体育の最中に来るとは。

 教室に行けば常に鞄に入っているストックがあるのだが、階段を上るのすら億劫でそのまま保健室へと直行した。快くそれを貸してくれた初老の保健医は相変わらず優しくて、保健室近くのトイレで有難く使わせてもらった。案の定来ていたけれど、汚れることはなかったので良かった。
そのあとはまた保健室へと戻り体育の時間だけでも、と眠ったつもりがまさか4時間目まで寝てしまったとは。
 不幸中の幸いと言うべきか、4時間目はロングホームルームで、授業内容もきっと来週の球技大会のことか3週間後の学園祭のことか来月の修学旅行のことだと思うので、授業の遅れとかはない。でもどうせならば嫌いな数学や科学あたりに休みたかったと思ってしまうのは仕方の無いことだと思う。
 6組女子と体育が一緒なので、6組の誰かが京治に私のことを教えてくれたのかも。どなたか分からないけれど、京治に伝えてくださりありがとうございます。寝起きに京治の顔を見られるなんて、やっぱり幸せだ。

「戻れそう?」
「うん、大丈夫」

 京治に腰を支えられながら布団から出て、軽くシーツと掛け布団を直しカーテンを開ける。優しい保健室の先生が私たちを微笑まげに見ているのが擽ったくて頭を下げた。







          **

「痛くなったら言って」
「うん、ありがとう」

 腰を摩ってくれる優しさに甘えながら、いつもよりも幾分ゆっくり廊下を歩く。保健室前だからか、お昼休み特有の騒々しさが酷く遠くで鳴っているようで、別世界にいる気分になった。
 京治の長いコンパスが、いつも以上に私の歩幅に合わせてくれる申し訳なさと言ったら……。先ほど謝ったら「気にしない」とデコピンをされてしまったのでもう口を噤むけれど。
 京治はどちらかというと寡黙な方だし聞き上手なので私が口を結ぶと静かな空間が生まれる。その空間さえも心地いい。「名前」しかしその沈黙を壊したのは京治の方だった。その表情が奥歯をかみ締めたような顔に見えたのは何故だろう。

「実は俺さ、」
「い゛っ、」
「大丈夫!?」

 苦々しく息を吐き出した京治が何かを言おうとした瞬間、ちくちくと痛いんでいた下腹部がぎゅうっと圧迫されるような痛さに変わり、思わず座り込んでしまった。痛むお腹を押さえて足の親指を丸めながら痛みが去っていくのを耐えなければいけない。

 やっと深呼吸ができたのは鈍痛が襲ってきてから1分後のこと。私が耐えている間も懸命に腰を撫でてくれて、私の頭が楽になるように「乗せてもいいよ」と肩を貸してくれた京治のこの優しさは昔から変わらない。痛みは落ち着いたけれど、京治の香りが酷く安心できてそのまま鼻先を肩に押し付けた。

「ごめんね……」
「俺が好きでやってるからいいよ」

 いつも以上に、京治のそばにくっついていたいと思うのは何故だろう。京治に離れていかないで欲しいと願うのはどうしてだろう。でもいつか、京治に大事な人ができる時は来る。幼馴染の私よりももっと近くて甘えることが許されるような存在を、私は祝福できるだろうか。涙腺が緩んでいる理由が、腹痛だけではないことを京治に悟られてはいけない。






          **

「名前大丈夫?」
「うん、心配かけてごめんね?」

 お昼休みが終わる少し前に教室に戻ってきた私を心配そうに見つめる親友に頭を下げると、安堵しながらも首を横に振ってくれた。
 4時間目の内容を訊けばやはり球技大会の作戦決めについてだったらしい。私は親友と共にバレーを選んだのだけれど、今のこの体調でできるのかは悩ましいところ。まぁ、来週には終わっていることを願うばかりだ。

「それより6組すごい盛り上がってるね」
「そうなの?」
「そうそう。6組というか最早学年が盛り上がってるって感じ? たしかにあの顔だったらねぇ……というか名前的には良いの?」

 たしかに言われてみれば、何となくだけれどクラスの主に女子たちが黄色い声を上げているような気がした。体育前はそんなことが無かったので、多分この2時間の間で何かがあったんだと思う。芸能人の結婚かな? あ、でも結婚だったら6組とか学年とか関係ないか。私的には良いのかというのも引っかかる。好きな歌手やかっこいいなぁと思う芸能人はいても、結婚報告で嘆くほどの熱狂的な想いを抱く芸能人はいない。

「なにかあったの?」
「え!? 名前、赤葦から聞いてないの!?」
「え、京治?」

 もとより大きな目を見開いた親友は、怪訝に眉を寄せたあとに何かを思案している。京治とはさっきまで共にお昼を過していたけれど特に何も言っていなかったはずだ。

「まじか……。これ言っていいのかな? でも名前も絶対知っちゃうだろうしね……」
「え、なに? なんか怖くなってきた……」

 生唾を飲み込む気持ちで親友の言葉を待つ。最後まで眉間に皺を寄せていた親友は、どこかバツが悪そうにけれどもどこか呆れたように小さく言った。

「6組の学園祭が劇になったらしいんだけど」
「あ、それ聞いた気がする」
「その内容は? 白雪姫ってことは聞いた?」
「いや、この前言ってたのはまだ内容は決まってないとだけ……」
「この前は、ね。今日のホームルームで配役まで決まったらしいんだけど、王子様役に赤葦が選ばれたんだってさ」
「え……」

 京治が王子様役……。たしかにあのルックスならば納得だし、王子様役の京治は見たい。でも京治が王子様ならば、話の展開上お姫様は王子様のキスで眠りから覚めて……。

「名前的には大丈夫?」
「……辛いかも」

幼馴染ちゃんと見せつけ。

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