メルトロジカル

 誰の姿も見えない廊下をただ歩いていると、カツカツと響くヒールの音が否応なしに耳に入る。雑音と言ってしまえばそれまでの、何の面白みもない音。普段は気にかけることもないのに、ふと足を止めてしまった。店先で見たときはこれしかないと思って選んだお気に入りのブランドの新作の靴。靴を買ったと言えば、きっと広島は呆れたような顔をするだろう。どうせまた次の新作が出ればそれに目移りして履かなくなるくせに、とでも言って。正論ではあるけれど、直す気にはなれない。いくつも無駄な買い物をして、一瞬の欲求を満たすためだけにあらゆるものを費やすことも、必要だと思うから。
 自分のことだけだったら、まだ彼も怒らないのかもしれない。でもメンズファッションコーナーを見ていると、こういうのも似合うだろうに、とか、考えてしまうし、財布に余裕があればつい買ってしまう。「大きなお世話じゃ」とうんざりしたように言う広島の姿がすぐに想像できるのは少し切ない。
 押し付けがましくてうるさくて黙ってられない性分なのはわかっているけれど、それはお互い様というもので。文句を言いつつも次に会うときには渡したものをちゃんと身に着けているあたり、彼も甘いし、それで頬が緩んでしまう私も相当ほだされているのかも。恋人なのだからそれくらい当たり前なのに、まだ付き合いたての中学生のようなふわふわした気分でいる自分に時折戸惑う。会議の最中に視線が合えば照れくさくて三秒以上合わせていられない。デートのときに繋いだ手は、家に帰ってからもずっと熱いような気がする。今、少し鼓動が高鳴っているのは、久しぶりに会うことが楽しみだから。
 仕事なのだからそうして期待したところで何もないのはわかっていても、会えるだけで充分な気がしている。欲張りな自分にそう思わせられるのはただ一人だけ。

「えらい早いやん。どうしたん?」

 私にそういう問いを投げかけつつも既に席に着いている大阪にはさすがとしか言いようがない。

「思ったより信号に引っかからんかってん」
「へえ」

 嘘やな、と断定するような笑みを浮かべた彼女にはやはりお見通しらしい。初めから隠す気はないが。彼がわざわざ私と同じような理由で早く来るなんて想像もつかない。遅刻まではしないにせよ、自分がしんどくないように、怒られない範囲でギリギリに来るような気がする。どうせ見知った顔で、事前の挨拶を欠かさないといけない面々でもないから、それを咎める人はいない。いるとすれば彼の隣人くらいか。その隣人も、大阪ほど早く来ることはないようだし、彼の小さなもくろみは成功するに違いない。そういう妙にずぼらなところも許せてしまうのは、惚れた弱味か。
 男を待つことはさほど好きではなかったはずが、自らこうして待つようになっている理由なんて一つしかない。「べた惚れやな」と大阪に言われた時は否定したものの、あながち間違いでもないことは薄々わかっている。二人っきりで過ごせる時間はさほどないだろうけど、会議が終わった後も少しくらいは話せるだろう。強引にキスでもせがんでみようか。前に広島が仏頂面で選んだリップをアピールしながら。苦々しい表情を浮かべるのか、それとも呆れつつも笑ってくれるのか。
 私のそんな考えを見抜いたのか、大阪はやれやれといった表情で「もうちょっと隠した方がええで」と忠告してきた。

「何のこと?」
「わかってるやろ」

 そりゃあ、まあ。毎度毎度からかわれていれば、わからないと嘯くのもバカバカしくなってくる。

「そっちこそ、隠せてると思ったら大間違いやで」
「なっ…」

 いつものお返しとばかりに言えば、大阪は面白いくらいに顔を赤くして動揺していた。からかうのは得意でも、からかわれるのは不得手。大阪に限らず近所の面々に大体共通していることだ。まだお互いの気持ちを確認しただけで、手を繋ぐことさえしていないじれったい関係なことくらいは知っている。本当は京都にそっとしておくように言われていたけれど、そっとしておいたらそれこそ百年経っても進まないように思えてならない。いっそ身内には開き直ってくれたら、と思うのは幼馴染のわがままであり、友人としての気遣いでもある。仕返しであることも否定はしないけど。「な、何言ってるん…うちは別に隠すこととかなんもないし神戸みたいに浮かれてへんし全然デートの約束とかもしてへんし!」などとしどろもどろに言い訳にもなっていない言い訳を叫んで会議室を飛び出してしまった大阪をこれ以上からかうのは諦めるとして、あと会議まで二十分ほどある時間をどう潰すものかと思案する。車に乗らずに景色を見ながらゆっくり歩いていくと言っていたけれど十中八九道に迷っている京都を探しに行くのもいいし、メールでもして広島をせっつくのも悪くはない。さてどうしようか。数分迷った末に、どちらにしようかな神様の言うとおり、と右手を使って幼児のような選び方をしていると、突然机に影がさした。上を向けば「何しとんじゃ」と呆れたような彼の顔。

「選んどってん」
「は?」
「京都を探しに行くか、あんたにメールするか」
「せんでええ」
「なんなん、人がせっかく遅刻せんよう気遣ってあげてんのに」
「大きなお世話じゃ」

 ふと感じる既視感。ああ、さっき想像していた反応と同じ。でも、正直こういったパターンは予測していなかった。彼がこんなに早く来るなんて(それこそ山口より早く)、予想外だったから。

「なんではよ来たん?」
「…なんとなく」

 てっきり「そっちこそ早すぎじゃろ」とでも言われると思ったから、少し意外だった。案外私と同じ理由なのかもしれない、とふと思ったのは、ただの勘と願望。さすがに確かめようとまでは思わないけれど。

「なあ」
「ん」
「これ、覚えてる?」

 鞄に入れていたメイクポーチを引っ張り出してルージュを取り出すと、彼は予想通り苦々しげな顔をした。

「覚えとる」
「あのときまさかほんまに選んでくれると思わんかったからびっくりしたわ」
「……」
「今日ちゃんとつけてきてるん、気づいとった?」

 何も言わずに黙っている広島にもう一度聞こうとした時、不意に彼の右手の親指が私の唇をなぞった。どうしたん、と言葉にする前に重ねられる唇。一瞬触れただけのそれは、私の問いへの答えを満たすのに充分だった。

「こうして欲しかったんじゃろ」

 勝ち誇ったように笑われると癪だけど、外れてはいないから何も言い返せない。私が負け続けるのは要するに、彼が一枚上手だというだけの話。わかっているから、敵わないと思うし、このままでいいと思える。

「今日、終わってから時間ある?」
「まあ、少しだけなら」
「じゃあ、お茶しよお茶」
「はいはい」

 広島は既に荷物を席に置き、用意されていた資料をめくりながら、私の問いに上の空のような気のない返事をした。こういうときは邪魔をしないに越したことはない。話をするのはひとまず諦めて、私も手元の資料に視線を落とす。おそらく誰かの説明で使われるであろうデータの数々、几帳面な字でつづられたそれらについての概要。ぱらぱらと資料をめくりながら流し読みしつつ、彼の様子を横目でこっそりうかがった。資料を読む作業に没頭しているその横顔を見ていると、ついちょっかいをかけたくなってしまう。悪い癖が出そうになる衝動を抑えながら、次は誰が来るのか予想する暇つぶしを始めることにした。山口か、大阪か。岡山は時間にきっちりしているから五分前と見た。島根と鳥取は一緒に三分前に現れるとして、京都は時間ちょうどか少し遅れて来るような気がする。京都がもう歩くのを諦めてタクシーで来たら、一番早い可能性もなくはない。あと十五分。自分なりの結論が出たところで暇つぶしにも飽きてしまい、机に突っ伏して少しだけ仮眠をとる姿勢をとる。昨日あまり寝ていないせいか、すぐ瞼が下りていく。

「おやすみ」

 意識が完全に落ちる直前に聞こえた彼の声は、幻聴かと思うほどにとても穏やかなものだった。




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