夜更かし続きの日 (桐嶋夏也)



私が夜更かしをするのは寝られないからとか考えたいことがあるからとかそういうことではなくて、好きな人と話をしたいからで好きな人の好きなものを知りたいから。

だから私は今日も夜更かしをして、テレビの前から動かない。

◇◇


隣の席の桐嶋くんは水泳部の部長だ。
泳ぐところを観たことはまだないけれど、きっと速くて誰よりもかっこいいのだと思う。そんな彼の泳ぐ姿を昨夜観た水泳選手に重ねながら、彼が席に着いたのを横目で確認してから声を掛ける。

「おはよう。今日も暑いね」
「おー、はよ。本当、蒸し暑いよなぁ」

困ったように笑った彼は汗で張り付いていたのか、カッターシャツの下に着ているシャツをパタパタと動かしては中に風を送り込む。
見えそうで見えない胸元から目を逸らせば、もう少し窓開けようぜと笑った彼の体が目の前にやって来た。思わず体を仰け反らせたけれど湿度をまとった風と一緒に彼の匂いがふわりとした。
汗の匂いでもないそれは柔軟剤の匂いなのだろうか、なんてふと考えてしまって頭をぶんぶんと振れば、彼が不思議そうにこちらを見ていた。

「……やっぱり梅雨だから蒸し暑いね」
「そうだな」

ふっと彼の口角が上がった。話したいのはこんなことじゃなくてもっと違うことなのに彼のその表情を見られただけで満足してしまいそうだ。
だけどどうせならば彼の笑顔をもっと見たくて、もっと色々な話をしたくて、もっと彼のことを知りたくて。今この話題を出すのは突拍子もないということは自分でも分かっているけれど昨夜テレビで観た場面をもう一度頭に思い浮かべる。

「昨日凄かったね! 世界記録……!!」

主語も文法もぐちゃぐちゃで発したこの言葉。だけど彼はすぐに何のことなのかピンと来たようで、こちらを真っ直ぐ見てきた彼の目が大きくなった。

「お前も好きなのか!? 水泳!」

私に負けず劣らず突拍子もない彼の言葉につられて、思わず笑みが零れる。そんな彼の目を見返すと、声がでかくなりすぎたと改めて椅子に座り直していた。
そんな様子を見てクスクスと笑えば、笑いすぎだと小突かれる。そうかな、そうだよ。とか、終わりのないやり取りをすると二人で顔を見合わせて笑い合う。

「好き、なのかはまだ分からないけど毎晩観てしまってるんだよね、世界水泳。桐嶋くんも観てるんだ?」
「おー、まあな。だからちょっと寝不足なんだけどな」

そう言うなり欠伸をするかのように大きく口を開けた彼はそれでも楽しそうで。目を細めるとにっと笑ったけれど、次の瞬間には真剣な表情に戻った。

「俺もいつかあそこで泳ぐ」

遠くを見つめた彼の瞳には、自分があの場で泳いでいる姿が映っているのだろうか。そうだとしたらきっとこれは夢でも目標でもなく、彼の中での将来の決定事項なのだろう。
私はあの場で泳ぐ凄さも彼の泳ぎの実力もよく分からないどころか、彼の泳ぐ姿すらまだ一度も見たことがない。それなのに世界を相手に泳いでいる彼の姿が想像出来る。

「それじゃあ私は応援に行くね!」

身を乗り出したら、彼がにっと笑った。

「じゃあ約束だな」
「うん、約束」

彼と同じ言葉を繰り返すと、大歓声に包まれた彼の姿が再び思い浮かぶ。


名前を呼ばれると画面に笑顔の彼が映し出されて、登場してきた彼は会場中から「なつやー!」と口々に呼ばれる。私はその中の誰にも負けないように大きな声で彼の名前を呼んで。さっきみたいな真剣な表情で自分が泳ぐレーンに真っ直ぐ向かう姿も、会場の人たちに手を振って余裕ありげな姿もきっとどっちもかっこいい。その時に私に気が付いてウインクしてくれたら嬉しいなとか思ってしまうのは世界を代表する水泳選手に失礼か。

とか、あの場に行ったことさえないのに好き勝手に思いを馳せる。


すると不意に肩を叩かれた。

「なぁ、みょうじ。聞いてたか?」

驚いて叩かれた方を見ると、首を傾げた彼が顔を覗き込む。

「……ごめん、何も」
「まあ昨日は凄かったからな」

ふっと笑った彼は楽しそうに笑うと、机に頬杖をつきながらこちらに顔を向けると目を細める。

「その前に今度の大会を観に来ないか? って言ったんだ」
「行く!」

頭で考えるよりも先に返事をしたら、ありがとなと珍しくもごもごと言った彼が前を向いた。
そんな彼の横顔は心做しか赤い気がした。それに気が付いたからなのか私の顔が熱くなったけれど、それは昨夜の水泳選手の泳ぎが凄かったからなのか、はたまた想像した彼が凄かったからなのか。少なくとも、梅雨で蒸し暑いからではないことだけはよく分かる。


地元のプールで泳ぐ彼の姿を想像したらやっぱりかっこよくて、これは今夜も夜更かししてしまうなと、そう思った。


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