短い季節 (島崎慎吾)
今日、先輩が卒業する。
──慎吾先輩が。
◇◇
先輩との出会いは春。私が入学して間もない頃だった。
やっと迷うことなく学校へ辿り着けるようになると様々な部活からの勧誘が始まった。運動部から文化部まで。中高一貫校とは言えど、中学にはなかった部活もたくさんあって、強制加入ではないとしても何の部活に入ろうかと頭を悩ませる生徒は多いだろう。かく言う私もそのうちの一人で、部活に入るか入らないか、入るとしたら何の部活にするかと頭を悩ませていた。
そんな時友達が、私、野球部見に行くんだけど一緒に行かない? と誘ってくれた。それが転機だった。
桐青高校の野球部は名門だ。甲子園に出場したとか、そういう噂は中学まで届いていた。だからそこが強豪であることは知っていた。そんな野球部だ。きっと厳しいのだろう。そんなことを考えながら友達の後をついていったグラウンドでは、ボールを打って取って投げて大声を出して、今までに感じたことがないような迫力で、体に衝撃が走ったような気さえした。
「……すごいね」
「本当に。迫力あるよね」
圧巻されてしまい語彙力をどこかにやったのかというような感想を呟けば、後ろから笑い声が聞こえてきた。振り向けばそこには野球のバットを持ってユニフォームを着ている人がいた。きっと先輩、野球部だろう。
「こんにちは」
恐る恐る頭を下げればその人も、ちわっと帽子を取って頭を下げてくれた。そして上がってこちらを見てくるのは笑顔で、何故だかピシッと背筋を伸ばしてしまう。
「もしかしてマネジ志望?」
「……えっと、まだ考え中で」
「そうなんだ。もし入るならよろしくな」
「でも私、野球あんまり知らなくて……」
「おー、それは教えがいあるじゃん」
にっと笑ったその人は、しんご〜、こっち! とグラウンド内にいた人に手招きをされたらしく、おー!今行く! と手を上げて答える。するとそのまま、じゃあまたとその手で私の頭を撫でた。
……しんごっていうんだ、あの人。
駆けていく背中を見つめれば、その人がバットを構えた。上げられたボールをリズム良く、カーン、カーンと打つ音が耳にこだまする。
「……入るの? 野球部」
「……え、わ、私!?」
友達に名前を呼ばれてハッとする。慌てる私を横目に、かっこいいね、野球部と友達は笑った。
「そうだね。本当にみんなかっこいいね」
「マネジ、するの?」
「う〜ん、どうしよう……。私素人だよ?」
「先輩も言ってくれたじゃん。教えがいあるって」
「……だよね! やってみる!」
そうして入った野球部では覚えることがたくさんあった。それは選手の顔と名前を覚えるよりも先にマネジの仕事を覚えるだけでいっぱいいっぱいというほどで。それでもあの時に声を掛けてくれた先輩、慎吾先輩の顔と名前だけは何よりも真っ先に覚えた。
「慎吾先輩!」
練習終わりの放課後、先輩の姿を見掛けて思わず声をかける。
「あ、やっぱりキミってこの間話した子? マネジなったんだなって思ってた」
「覚えててくれてたんですか?」
「そりゃ覚えてるも何も数日前だろ。オレ、そこまで記憶力悪くないっつーの」
はぁーっと溜息をついた先輩に、ごめんなさい! と頭を下げて謝れば、先輩がぷっと吹き出した。
「別に怒ってないって、オレ。ごめん、ビビらせて」
困ったように笑った先輩の手が頭に触れて、ぽんぽんと撫でられる。あの時は考える余裕なんてなかった大きな手は、マメがあるのかゴツゴツとしていた。
それからの日々はあっという間に過ぎていった。
練習、練習、練習試合、それからまた練習。そうやって慌ただしくも充実した毎日が過ぎていくと共に少しずつマネジの仕事にも慣れた。あっという間に夏の大会の抽選会があって、開会式があって。気が付いたらもう、初戦当日だった。
降りしきる雨の中、アルプススタンドから応援をした。みんな、頑張っていた。かっこよかった。やっぱりうちの野球部は強かった。
──だけど、それでも、みんなは負けてしまった。
試合が終わり、選手たちに、ありがとうございました! と大きな声で頭を下げられると堪えていたものが込み上げてくる。雨なのか涙なのか分からないものはいつまで経っても頬を流れ続けて中々止まってはくれなかった。
試合終わりのミーティング。三年生たちの目が赤いのはきっと、先輩たちも泣いていたからだろう。
だけどそんなのは当たり前で。野球のことをあまり知らずに野球部に入って、まだ数ヶ月の私でさえこれだけ涙が込み上げてくるのだから、きっともっと先輩たちには思うことがあるはずだ。
帰り支度をしていても流れる涙はやっぱり止まってくれそうになくて時折、鼻をすする。
「……帰る準備、出来た?」
隣からした、聞き覚えのある声に驚いて声のした方を向く。そこには慎吾先輩がいて、エナメルバッグを肩から掛けて壁にもたれかかっていた。
「もうすぐ、です」
「そっか」
それ以上何も言わない先輩は優しく目を細めた。私はというと、いつの間にか止まっていた涙に気が付くこともなく、ようやく帰り支度を終えたと先輩に告げる。
「終わりました」
「……良かったら一緒に帰らねぇ?」
「……わかりました」
お互いに無言だから足取りが重いのか、それとも先輩が私に合わせてゆっくり歩いてくれているのか、隣に並ぶといつもよりも遅いペースで歩みを進める。そして歩道に立つ街灯が点き始めた頃、先輩が口を開いた。
「ありがとうな、今まで」
その言葉にまた堪えていたものが溢れ出てきて、それは涙となって頬を伝う。
「……私、全然役に立てなくて。まだ野球のことをちゃんと分かったとも言えないし……」
拭っても拭っても止まらない涙と共に言葉も零れる。
もっと私に出来ることがあったはずだ。もっと先輩たちがいる間に覚えられることも、もっと応援することも。……そして、もっと先輩の役に立ちたかった。もっと先輩が野球をする姿を近くで見ていたかった。
「もっともっとって、今更思うんだよなぁ」
屈んだ先輩は私の顔を覗き込み、お前もそうだったりする? と眉を下げて笑った。
「私も、たくさん思いました。ちょうど今も」
「……今も、か」
ふっと笑った先輩は、泣かしてごめんなと呟くと私の頭を抱きかかえた。先輩の腕に包まれて、どうすることも出来ない私の頭を優しく撫でながら。
あの日のことはいったいなんだったのかとでも思うくらいに、あれからは先輩も、私も、いつも通りで。
たまに先輩が部活に顔を覗かせてくれたり、廊下で会ったりする時に話をする程度で、あの時ほど近づいたことはあれっきり一度もなかった。
それでも学年が違うと中々会えないもので。またも慌ただしくも充実した毎日を送っているうちに先輩と会う回数はどんどんと減っていって、季節は夏から秋へ、秋から冬へ、そして冬から春のような陽気の暖かさへと目まぐるしく変わっていく。
そしていつの間にか今日が、先輩の卒業式の日となった。
体育館から退場していく先輩を目で追えば、あのいつかの夏の日とは違って笑っていた。そのことに安堵しながらも、もう先輩とは会えなくなるという事実だけが重くのしかかる。
卒業式が終わって野球部で集まっての記念撮影。どの三年生もどこかやり切った、清々しい顔をしている。その輪の中には先輩もいて、みんなと一緒に笑っている。
「……先輩! 今って時間いいですか?」
先輩が端っこの方に来たのを見て声をかければ、おう、大丈夫だけどどうした? とやって来てくれる。そのことが嬉しくて、だけど今日が最後だと思うと寂しくて。
「これからも良かったら連絡してもいいですか?」
「……え、」
目を丸くして固まる先輩に、たまにしかしないので! と付け足して言えば、先輩は少し視線を逸らして頭を掻いた。
「たまに、じゃなくていいよ。オレも連絡するから」
「え? 先輩が? なんで」
思わず口からついて出た疑問に、先輩は息を整えると真っ直ぐこちらを見る。
「……なんでってそんなの、お前と話したいからに決まってるだろ」
「今までそんなふうに見えなかったのに」
「それは……、オレが先に卒業していなくなるのにお前にこっちを見てほしいだなんてワガママ言えるわけないだろ」
赤く染まった頬とこちらを見つめる熱い視線。それらから逃れられずに先輩を見つめ返せば顔全体が熱くなる。
「……私、勘違いしてしまうかもしれませんよ」
「勘違いじゃないからいいよ」
ふっと笑った先輩の手が頭に触れる。ぽんぽんと撫でられていることを感じながら、先輩の腕の中に飛び込めば、つーかまだ野球、ちゃんと教えてられないしなと先輩が笑った。
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