「氷川さん」
「……? はい、なんでしょうか」
「ごめん。今日このテキスト必要って知らなかったからさ、ちょっと見せてくれない?」
「そういえば名字さんは昨日休んでましたよね。では机を近づけましょうか」
「ありがとね」
「いえ、私の配慮が足りなかったですよね。休んだ貴方へ授業の連絡をちゃんと伝えておけば……」
「あー、うん。氷川さんもこの状況やりにくいよね、ごめんね?」
 そんなことはない──そう言おうとして口をつぐんだ。今日の名字さんがやけに元気が無い気がして、それは病み上がりだからと考えれば当然のことなのだが、それだけでは済ませられない理由がある気がしたのだ。これ以上言葉を続けても、名字さんに「気を遣わせてごめんね?」とまた謝罪させてしまうだけなように思えた。
 名字さんはとっくにテキストを見て問題を解き始めており、自分もそれに倣ってテキストの方へ目を向ける。簡単な問題のはずなのに、いつもより時間がかかるのはやはり隣の名字さんの存在だろう。
 目線だけ彼女の方に向けてみると、昨日休んでいたというのにすらすらと問題を解いていくではないか。今まで一緒に過ごしてきて、彼女が予習をしてくるような性格ではないと思っていた。名字さんの為にと授業の内容を写していたノートの存在を思い出して「このノートは名字さんに必要なのだろうか」と自問自答しても、答えは出なかった。

 名字さんから感じる決して気のせいではない違和感。名字さんはついこの間まで私のことを、紗夜と呼んでいた。
 名字さんが私を呼ぶ、鈴が鳴るような心地よい声は今はなく、私と彼女の間には見えない壁があった。こんなにも近い場所にいるのに、彼女が遠くにいると否が応にも感じてしまう。名字さんから突き付けられたそれを私は受け入れ難い事実だと認識しているのに、どうしようもないという感情に囚われてしまっているのだ。
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