「…幸せ一杯な顔をして」
火薬の匂いに満ちた部屋の中、散らばるメイプルドロップのパッケージを男は踏みつけた。
耳に押し当てていたヘッドホンを放り、零れる笑みをそのままに、彼は飴玉へ手を伸ばす。
「甘い甘い贈り物を食べないなんて勿体ない。こんなに甘いのに、ねぇ」
かりかりと、噛み砕かれる音が響いた。
「ねぇ、不平等だと思いませんか?」
火薬の匂い。
倒れた男達が微かに呻いている。
その地獄の中央、毒入りドロップを咀嚼し飲み込んだ男の蒼い眼差しが、甘く蕩ける。
「自分の身さえ満足に守れない脆い子供の尻拭いをさせられて、愛しい人との大切な時間を妨げられるだなんて。こんなに幸せそうな顔で恋人と電話して、さぞ楽しいでしょうねぇ。私はこんなに不幸なのに。私はこんなに寂しいのに。私はこんなに胸が苦しいのに。こんな事は、あってはならない事です」
既に息をしていない者も見られた。
けれど悪魔は笑って、辛うじて息のある男らの口の中へ、メイプルドロップを一つずつ放り込んだ。無邪気な程の、微笑みを湛えて。
「ディ、アブ、ロ…!」
「ねぇ、貴方々が余計な事を企むからですよ?降り掛かる火の粉は火が点く前に消せ、それが我らステルシリーソーシャルプラネットの社訓。陛下の命令であれば逆らったものを、お優しい猊下の命令であれば断れません。
何故ならば猊下の狛犬は私ではなく、彼なのですから。」
ころころ、鈴を転がす声音で彼は笑う。
一つずつ、一つずつ、邪魔者を全て屠るまで、躊躇いなく。
「愛しい妻にこんな事をさせられないでしょう?ああ、違います。私達夫婦は命令される事が何より嫌いなので、悪い子を懲らしめろと言う命令を、悪い子は『殺せ』と解釈してしまう。そして私もあの人も、それを躊躇わない。何故ならば私は悪魔で、」
「見〜ぃつけた。」
ころりと。
転がったメイプルドロップが、唯一立っている爪先を弾いた。
「おやおや。…迎えに来てくれたんですか?」
「そう、急にいなくなるから探したよ。どこの男と浮気したんだい?あはは、もしかして、ここの男達?」
つかつかと、その爪先は崩れた男達を踏みつけながら近づいてくる。
「ね、誰の命令?」
「誰の命令でもありません」
「じゃあ、誰の為に?」
「強いて言えば、松原猊下の為でしょうかねぇ」
「松原君?」
想定外だったらしく、凍える笑顔を崩した男は広い額を掻いた。
「大河の内部で独立と反乱を企てた者が居ました。真っ先に気づいたナイト猊下たっての希望で、一掃したまでの事」
「そっか。で、殺しちゃったの?悪い子だね」
「裏切った者は二度と従いません。私の様に」
「余計な事をしてくれるよねー、ほんと」
ああ。
バキリと、踏まれた飴玉が砕かれる音が聞こえる。
「新しいゲームをしようと思って、コツコツ俺が育ててきたプレイヤーだったのに」
「…まさ、か」
「小悪魔ふーちゃん、俺の為に手を汚そうとしたんだ。ただ、俺の為に。かわいい。かわいい。かわいい。食べちゃいたいくらい、かわいい」
世界は歌う声に包まれて。
「ほんと、俺のお嫁さんはできてるね。だけど俺は怒ってるよ」
網膜一杯に『それ』は嗤い、鼓膜は『それ』で満たされた。
「さ、こんなにかわいいふーちゃんが毒殺犯なんて、俺が許さない。お前さん達、死んでるなら生き返ってごらん。まだゲームは始まったばかりだからねー?さ、起きた起きた。いつまで死んでるつもりだい?」
地獄の入口で、閻魔が逃げていく幻影が見える。
呼吸を止めた筈の男達が次々に、動いた様な気配さえ、した。
「これは命令だよ」
彼は『悪夢』が産んだ最高傑作。
彼は『宇宙』が産んだ最高傑作。
神々しいまでに光に満ちた彼は、無垢な笑顔で唆してきた。
「どうせ人間いつか死ぬんだからゲームオーバーまで付き合ってよ。いいこにしてたら、人形から人間に戻してあげるからねー」
まるでネクロマンサー。
その声に逆らえる者など、この世界には存在しなかったのだ。
同情しない事もないと、叶二葉は考えた。
まさか山田太陽が首謀者などとは、流石の遠野俊も考えていないに違いない。
いや、気づいていたとしても目を逸らしたのだろう。逆に気づかない筈がないのだ。
だからこそ大事になる前に未然で防げと言う事なのだろうが、手遅れ過ぎて打つ手はない。
「ふーちゃん、俺に内緒で俊の手伝いするなんて。やきもち妬かせたかったのかい?」
にこにこと、笑顔の新妻が鞭を振り回している。
くるくる回り続ける『くるくる中華』は一皿80元のリーズナブルさが観光客に受けているのか、鞭を振り回している客には見向きもしなかった。
「妬いてくれたんですか?」
「全然?」
「酷い人」
「ただ、悲しかっただけだよ。いきなり居なくなるから、悲しい歌を歌いたくなってしまっただけ」
「ごめんなさい」
「うん、いいよ。謝ってくれたらそれで」
へにゃりと、柔らかく笑んだ顔に微笑み掛ける。
幸せだと叫んで回りたいものだが、紳士はそんな事はしない。
「かれこれ3ヶ月で15ヶ国回ったねー」
「スイス、オーストリア、ロシア、イタリア、フランス、オランダ、ベルギー、ドイツ、イギリス、アルゼンチン、カナダ、ニュージーランド、オーストラリア、南極と北極は国と呼べるのか」
「そんで、中国。なのにふーちゃんは、旦那様に内緒で余所の男に尻尾振ったんだね?悲しいなー。悲しいなー」
「ダーリン、はい、あーん」
「あーん」
決して『嫁』の立場を認めようとしない太陽の台詞に、二葉は笑顔で北京ダックを差し出す。リーズナブル故に二切れと葱が飾られているだけの皿は、仲良く半分こだ。
「誤解ですよハニー、」
「ダーリン」
「誤解ですよダーリン」
ダーリンだろうがハニーだろうが構う事はない。
山田太陽と言う人間の全ての若葉マークを躊躇わず奪った二葉は、太陽が望むのであればいつでも大股を開く。望んでくれないなら襲うだけだ。躊躇う必要などない。一切。
「猊下がアキにあんな事をさせるなんて、私は耐えられなかったのです。アキの手は私と違って汚れのない、綺麗な手なのですから」
「コントローラータコができてますー」
「指のタコさんも愛しいです」
「あっ。このお茶、出涸らしじゃん!くっそー、俺はお茶を舐めてる奴は許せないタチなんだぜ!」
ちゅどーん!
笑顔の旦那様が手榴弾を投げ、くるくる中華は全壊だ。
やはり中国の建物は日本に比べて地震に弱い。
「全く、馬鹿にしてら。ふーちゃん、俺に抹茶を点ててくれないかい」
「けほっ。はい、喜んで」
辛うじて人は死なないが建物は吹っ飛ぶメイドイン太陽の手榴弾によって、煤だらけの二葉は煙を吐いた。ばちばちとダークマターを飛び散らせた無傷の男と言えば、駆けつけてきた警察官を鞭で追い払い、英語とは違って流暢な中国語で叱っている。
直訳すると、『薄い烏龍茶は不味い』だ。
然し中国の烏龍茶は色がそもそも薄いものである。日本に輸入されるものは安い茶葉なのだと、わざわざ教えてやる必要はないだろう。口に合わなかった、それだけだ。死者はない。
「北京で北京ダックを食べるミッションは達成したし、そろそろ大河君のトコ遊びに行こっかなー」
「ダーリン、イギリスから定時連絡が入りました。お祖母様が代わって欲しいと」
携帯を耳に当てていた二葉は太陽を振り返り、何やら騒いでいる警察官達の元へ近寄り、身分証明証を開示した。ドン引きした警察官達が涙目で逃げていくのを見送り、眼鏡を押し上げる。
「はいはい、俺は忙しいんですよー、たまに俊を苛めとかないと煩いんですからー。え?手伝いたい?んー、だったら手伝ってもいいよー。今、大河をぶっ潰そうと思っててー」
笑顔の嫁はつかつかとメインストリートを闊歩し、バイクと車の波を止めていた。彼の周りに浮かぶダークマターに、止まらない中国人は居ないらしい。賢い選択だ。
「いやー、死人の一人や二人出るのは仕方ないですよー、戦争シミュレーションRPGなんてそんなもんですって。バイオハザード上等ですって。あはは、一人や二人死んだって何とかしてくれるんでしょ?何とも出来ないなら俺が自慢の喉を振る舞っちゃうのでー」
「ハニー、のど飴をどうぞ」
「はーい、じゃーまた。新婚旅行が終わったら遊びに行きますねー、来年の春くらい。え?子供?二葉はまだスリムなんで妊娠してません。大丈夫大丈夫、その内、その内」
「ハニー、のど飴は美味しいですか?」
「ふー。甘いけど、スースーするよねー」
グレアム印の受け妊娠薬を毎日飲まされている事に気づかない嫁を横目に、魔王は笑顔でメイプルドロップを齧った。
「俺がカナダで作った手作りメイプルドロップ、まだあったんだ?」
「ええ、先日は朱雀に空輸してお裾分けしました。高カロリーなので、一日に二粒が限界ですかねぇ」
「青酸カリ入れすぎたかなー」
世界は未だ気づいていない様だが、二葉は気づいていても眼鏡フィルターで目を逸らし続けている。その辺の暗殺者が裸足で逃げ出すか、二葉の様に忠誠を従うだろう本物の魔王は、彼の事だ。
「大河に会えなくて悲しんでる松原君の為にも大河家には消えて貰おう。その所為で大河や松原君が死んでしまっても、仕方ないのさ。だってリアルRPGには、リセットがないんだもの。ね、二葉」
「愛していますハニー」
「俺も愛してるよハニー、だからいいこにしてようね?俺が間違えてお前さんを殺してしまわないように」
イギリスでは既にこの男を『魔帝』と謳っている。
「ああ、国家首席から連絡が入りました。ヘリオス=ヴィーゼンバーグ公爵閣下にお目通り願いたいと。どうなさいますか?」
「却下、めんど」
「判りました、子作りが忙しいと伝えておきます」
「そうしてー。今から大河に会いに行くのに、首席なんかお呼びじゃないよー」
さて。
現在地北京、徒歩で朱雀に会いに行く様子らしい配偶者に、香港の場所をどう説明するべきか。
「あと何分くらい歩けば着くかなー?大河、びっくりするよねー」
「そうですねぇ、びっくりするでしょうねぇ」
「そんな事より大河の目って不思議な目なんだって?俺、最近知ったんだけどさー。俺に内緒にするなんて、酷いよねー」
「酷いですねぇ。ハニーは綺麗なものに目がないのに」
「片目だけならくれないかなー。新居にさー、飾りたいよねー」
方向音痴の二葉には、少々難しかった。