可視恋線。

惚れた方が所詮負けている

<俺の嫁は豆類最強の刺客>




恋だの愛だの。
両親揃って柄でもなくそんな不確かなものを信じていた事を、近頃良く思い出す。



料理が下手な女だった。
結婚するまで包丁を握った事がない癖に、トカレフの握り方は知っていたのだから、その素性が知れるだろう。見た目だけは派手な、美人と言うに相応しい女だったが、中身はゴジラだ。
自分の価値観で可笑しいと感じれば、それが例え間違っていても、誰彼構わず所構わず殴るわ蹴るわ、気が晴れるまで止めやしない。

反して、享楽的に見せて至極現実的な男は、寝ても覚めても頭の中は勘定ばかり。損か得か、その判断に人間味の介入など邪魔でしかなかった。

そんな男が何故あの女を選んだのか。
女が死んでからもずっと解明しなかった疑問が解けたのは、17度目の誕生日を迎えた、後だった。



「おお、相も変わらず機嫌が悪い様だな、馬鹿息子。皆が怯えておるぞ」

煩わしい男の声に振り向くのも鬱陶しく、散乱した書類の海に埋もれたマウスを鷲掴む。何度クリックしてもディスプレイに動きはなく、上機嫌で何かを頬張る顔が映るばかり。

「おぉ、それはサンドイッチではないか?」

十人に問えば十人が『クローン』と言うほど似ていると言う顔が、笑いを堪えた声音で宣った。何も彼も把握している癖にそれを会話に出さない性根が、とことん苛立つのだ。

「ライブ映像か。妻の行動を逐一知りたいと願うのは男の性だ。良い、良い、実に良い行いぞ」

亡き母も常々嘆いていた。
腐れ野郎、口では敵わない母が、夫に対して怒鳴る時のお決まりの台詞だ。残念ながら、自分の性格は母親に似たのだろう。
  
「用があるなら言え。そして即失せろ腐れ野郎」
「可愛い我が子の様子を見に来てやった我に、何と言う罰当たりな事を言うのだ朱雀。やれやれ、これではマーナオが愛想を尽かすのも無理はない」
「…殺すぞ糞が!」
「浮気を疑われるなど愚にも付かぬ失態だわ、馬鹿が」

ぐうの音もない。
パチンと愛用の鉄扇を閉じた父親は、癖である片目に填めたモノクルのブリッジを押さえ、豪快に鼻で笑った。

「愛しい朱雀よ。永らく汝は朱花(ジュファ)に似ているものと思っておったが、どうも汝の母親に似ておるのは、マーナオの方らしい」
「…あ?似てるわけ、」

否定の言葉は、最後まで喉を越える事はない。
苦笑いに似た奇妙な笑みを零した男は、肌身離さず身に付けている懐中時計を取り出し、ぱちんと開いた。
我が親ながら、中国広しと言えども多忙な男だ。高々息子の様子を見るだけで、本社から遠く離れた北京になど来る筈がない。

「マーナオの機嫌取りも重要だが、仕事を疎かにする様ではマーナオを娶らせる訳にはいかんな。石さんにも真弓さんにも、我は申し訳がないぞ」
「………判ってら。うっぜ、とっとと失せろ」
「肝に据えておるのならば良い。今はただ目先の義務に励めよ、若人」

珍しく正論だけで去っていった背中に舌打ち一つ、名残惜しいディスプレイを横目にマウスを放り、再び書類を手に取る。



「動いてもねぇ時計なんざ後生大事に持ち歩くくらいなら、写真一枚くらい残しとけ、…馬鹿親父」

殺しても死にそうにない女だった。
ヨーロッパではローズと名乗るのだと、鼻息荒く宣っていた事もあっただろうか。

生まれたのはアメリカ、育ったのは香港。腹違いの姉妹は日本育ちで、会えたのは成人してから、数えるほど。
30年程度の短い人生で、あの女…母親が泣いた所など、見たのは一度だけだと。いつか、祖母から聞いた。


この眼は災いを招く。
母が死んだ直後、父親から両目を抉られそうになった時に、無表情で言われた言葉を忘れる事はない。

四家の一人、父の従弟に当たる王蒼龍が仲裁していなければ今頃どうなっていたのか。生きていたとしても盲目だ。最悪、死んでいた。

その直後、アメリカへ追いやられた。
母方の祖母と一年ほど暮らしたが、娘を殺した男に似た顔が、どうしても受け入れられなかったらしい。枕元にナイフを持った祖母が能面じみた顔で立っていた事は、一度や二度ではなかったからだ。

普段は優しい人だっただけに、お陰で、人の気配がある所では眠れなくなった。誰かと二人きりの密室が、トラウマになった。

今になれば笑い話だ。と、言えるだろうか。


「…ち。要らん事まで思い出した。おい、次の外回りはいつだ」
『本日17時より北部総会、20時30分より取引先との会食に同行して頂く手筈になっています』
「判った。あー…会食は、22時までに抜けられるか?」
『朱雀様は初顔合わせですので、お見送りまで予定が組まれています』
「………判った。」

内線を切って、深く息を吐く。
覚えなければならない書類は何千枚もある、覚えなければならない名前も取引先も、今は果てが見えない。中国とは言え、行った事のない土地を巡るストレス、名乗る前から大河と知られている為に、こんな新米に支店長が頭を下げるのだ。苛々する。

大阪で知り合った叩き上げのおっちゃんと言えば、中卒で弟子入りして30歳で店を持っただの、小学校も満足に通わず働いて、今では企業の会長だの。
男とはこうあるべきだと、朱雀が描いていたプランなど、帰国初日で崩れ去った。

「演歌フルリピで片付けるしかねぇ。…くそ、然し今日は何時に帰れるんだ」

離れたくない寂しいと、空港で時間ぎりぎりまで離れなかった可愛らしい恋人は、電話の向こうで『もぎ取る』だの『墜落する』だの盛大に脅迫しておいて、丸一日経過した今でもまだ、日本から離れてはいない。

それどころか大口を開けてもりもりランチを採っている姿を見れば、昨日の事など忘れている様にも思えた。
いや、間違いなく忘れている。愛があろうが言わせて貰おう、瑪瑙の頭は鳥以下だ。

「来るっつーから待ってたのに…!小悪魔まめこめ、今度のSkypeセックスは二時間延長してやるぁあ!」

拳が効いた独り言は、幸い誰にも聞こえなかった様だ。












祭美月が通っていた、全寮制である日本の学園に進学したのは、苦肉の策だろうか。あの時の自分は六歳だ。取り決めたのは何を隠そう実の息子を殺しかけた男だったが、真意は定かではない。

当時、母親の命を奪った組織との内戦が熾烈化していた事は、朱雀ですら幼いながらに理解していた。
あの頃、腹違いの弟だけが生き甲斐だった美月は、未来の上司であろうが虫けらを見る眼で、朱雀に対し『お荷物が』と、吐き捨てたのだ。

成程、正論だと思い知るまでに時間は懸からなかった。
母親の死因は自分の眼であるのだと父親が思い知らせ、中国に居れば争いの邪魔で、アメリカに居れば祖母を苦しめる。

その点、海外の人間に友好的な様で興味のない日本は良い。
同族の繋がりは深いが、だからこそ近い存在ほど気になる傾向はあるが、他人には無関心だ。大抵が程々の距離感で、拒絶すればそれ以上踏み込んでくる者は少ない。


気楽に、何を考える事もなく、つまりは考えない様にして。
年を重ね、父親からの連絡を待つ事もなく、勿論、損得勘定ばかりで人らしい感情など持ち合わせていないと思っていた男から連絡が来る事もなく、数年が過ぎた。

我ながら情けない生活を送っていたと、思わなくもない。
あの時は間違っているなどと考えた事もないのだから、幾らかマシではないだろうか、と。


「…空しい」

何個目か、丸めたティッシュをごみ箱へ放り投げた時に、漸く迎えた賢者タイムは異様に長かった。
テクを増してきた右手を恨めしく睨んだ所で今更だ。自慰など精通以来、最近まで経験に乏しかったと言うのに。今や連日とは泣くに泣けない。

使い慣れた、と言うよりは面倒で何年も使っているスマホのフォルダはSDを含めてパンパンに、99%は写真と動画が収められている。
残りの1%は大して多くはない番号録と、何度も何度もせびって手に入れた、恋人からの無変換メール数通なのだから、我ながら益々情けない。

「畜生まめこ、一年のお前も二年のお前も左席のお前も可愛いじゃねぇか。厭らしい尻しやがって…!」

実際、回りくどいにも程がある曰く「試練」を乗り越えて、松原瑪瑙…愛しい恋人と結ばれてから半年後は、瀕死だった。
慎ましかった恋人はあっという間にセックスに慣れ、可愛くおねだりしてくる始末。

一戦一戦に全力投球だった若かりし17歳の自分は、馬鹿だったのかも知れない。
上には上が居た。瑪瑙の好奇心と体力は、ある意味人類最強ではないだろうか。いや、豆類最強と言った方が良いのか。

「見当違いなやきもち焼きやがって…。ハイジャックしてまで俺に会いたいなら早く来い…!サンドイッチなんか幾らでもこっちで喰わせてやる」

何故か朱雀らの性的内情を逐一全て知っている腐れ眼鏡(又の名を遠野俊、叶二葉は糞眼鏡だ)からそっと『まむしドリンク』を差し入れられ、殺意と共に感謝した自分が憎い。
ライザップ顔負けに鍛え、鍛え、鍛え、好奇心の塊である瑪瑙を満足させまくる第二の試練で去年一年は過ぎていった。
大河朱雀18歳のメモリアル、そのお陰で右手のレベルが上がったとも言えるだろう。

「…あー。真弓さんに大学出るまで結婚は待てって言われてんだった…」

お陰様で友好的な関係を築いている松原家の両親は、あれこそ一般的を絵に描いた様な家族だ。最も瑪瑙に顔立ちが似ている次男は兄弟一の冷静な性格で、話してみると中々に大人びた事を言う。
普段はミーハーな松原家の母親が、ああ見えて家業の取締役である所を鑑みても、次男が一番母親に似ているのだろう。

『朱雀兄ちゃん、男同士なのは今更どうにもなんないと思ってる。でも学生結婚は後から後悔するって』
『そうなのか?詳しいな、オメー』
『バツ一の担任がちょろっとぼやいてたからさ、相談に乗ってやったんだよ俺。お嫁に行く兄ちゃんはともかく、朱雀兄ちゃんは立派な社会人になってから結婚してくんないかな』
『…そう言われてもな…男の恋の炎はいっぺん火が付くと行き着く所まで行くしかねぇもんだ。黒曜、オメーにもいつか判る時が来る』
『兄ちゃんは俺にとっても自慢の兄ちゃんだけど、ぶっちゃけ朱雀兄ちゃんがそこまで言ってくれる様なもんじゃないよ?5問中一つは教えて貰った宿題間違ってるし、いっぺん運動会のPTAリレー出てくれたけど足遅いし。あの時は俺、頼む相手を間違えたって本気で思ったし』

朱雀が呆れて別れたくなる確率が高いから、早まるな。松原次男は年下とは思えない冷静な発言で締め括り、朱雀は沈黙を余儀なくさせられたのだ。
何はともあれ義理の弟の言葉を無下にする訳にはいかず、受験頑張れと顔を合わせる度に合唱してくる下の弟達に『任せとけ』と親指を立てて。義父のカラオケに度々付き合って、去年の夏休みは楽しく終了した。

丸一ヶ月岡山の松原宅で生活したが、同居も悪くないと思った程だ。然し一ヶ月の半分程は実の父がフットワーク軽々来日して、図々しくも松原宅に居座った為に、実家エッチは不発に終わった。
悲しきかな、日本の建て売り住宅は対外に対しては防音力を発揮しても、内側にプライベートなど無いに等しかった。完全防音のカラオケルームは連日大盛況、近場のラブホは近所のマダムがバイトしている悲劇。

声を抑えての、こすりっこ。瑪瑙はイヤイヤ首を振りながらも満更ではなく、夜中に突入してくる幼い弟達と判ってて突入してくる父親にほぼ毎晩邪魔されてさえいなければ、良かったものを。

『朱雀先輩の受験が終わるまで、俺、我慢するね』

おくゆかしい瑪瑙に頷きながら、朱雀はだらしなく鼻の下を伸ばした。因みに『だらしない』とは、父が扇子で口元を押さえながら吐き捨てた言葉である。

然し朱雀に受験はなく、事実、推薦入試だった。
中国の学校は日本とは授業日程が異なる為に、今はまだ大学へは入学してさえいない。長めの春休みとして、今は仕事三昧だ。試用期間、みたいなもの。

ともあれ朱雀は、去年の夏にはあっさり中国への進学を決めていた為に、瑪瑙は全く遠慮などしなかったのである。受験勉強がなかったからだ。そもそも瑪瑙に我慢など出来ない。

付き合い始めの頃は朱雀が度々泊まりに来いと言っても、何かと理由をつけて逃げていた癖に、『奴』の仕業で理性を放棄してからは、毎晩毎晩誘ってきた。

げっそりする程に。幸せが辛いと思わせる程に。



「いつまで粗末なものを出している。撮るぞ」

居る筈のない男の声に飛び起き、戸口を睨む。
恐ろしい程の存在感が目に見える様だ。現実味のない銀髪、顔半分を覆う仮面は珍しく黒で、薄い唇だけが覗いている。

「何しに来やがった」
「何、そなたが自殺しては寝覚めが悪い」

少し前までならば、何の冗談だと怒鳴っていただろうが。本気だと返されれば言葉に詰まるのは他でもない、自分。

この男だけは、最初からずっと意味が判らない。
あの欲まみれの『カルマ』もそうだが、この男はそれ以上に、だ。
中身が何もない。何も、考えていない。違う。何がどうなろうと全てに『興味がない』のだ。恐らく。

「…そりゃ悪かったな、ご覧の通りアイムソーファインだ。生きてるっつー訳で、どうぞお引き受け…じゃねぇ、お引き取りを」
「いつ墜落してくるか怯えながら股間を隠しているだろうと思えば、逆に剥き出しにしておるとは面映ゆい事をする。良かろう、望み通りそなたの丸出し写真を引き受けた」
「撮るな」

容赦ないデジカメのフラッシュを睨み、スラックスのファスナーを引き上げた。
とんでもない男の出現で、戸口に顔を出した秘書は『予定は全て破棄しました』と告げて逃げる様に姿を消す。ああ、それはそうだろう。例え予定に大統領相手の会食や宇宙人との会談が組まれていようが、この男の前では意味がない。
何の価値もない、と言う事だ。

「うぜ」
「そう誉めるな」
「お宅と話してると頭痛くなんぜ」
「ふ、オタクではない。可及的辛辣に腐男子と呼べ」

舌打ちを堂々と五回放ちながらウェットティッシュで手を拭いた朱雀と言えば、無意識で引き出しの中の葉巻を掴み沈黙し、ゴミ箱へ投げ捨てる。
愛する嫁(仮)の持病(完治済)の喘息には、煙草は禁物なのだ。なので朱雀はこの二年間一本も吸っていない。

「どうも会話が通じてねぇ気がする」
「そなたが噛まずに『お引き取り下さい』と言えておれば、話は違ったろうに。無念だ」
「っ、ちっ!…ちっ!今度は何を企んでやがる、エックスロック野郎」
「高坂以上に舌打ちの頻度が高いか」

残念過ぎる瑪瑙の英語力がもたらしたエラーネームで呼べば、そんな事は一切気にならないらしい男は胸元からシガレットケースを取り出し、堂々と火を付けた。
イラッとした朱雀が顔に出してしまったのも致し方ないだろう。

「そう睨むでない。来月漸く19のそなたとは違い、私は月始めに21歳になり、日本国運転免許証を更新したばかりだ。見ろ、この晴れ渡る青を」
「テメェの免許に興味はねぇ」
「そうか、悔しいのだな、尻が青い…否、尻に緑の葉を貼り付けた若々しいそなたは」
「若葉で悪かったな!つーかマジで失せろ帰れハウス!」
「ふむ。…松原瑪瑙の写真とクリーニングに出されたばかりのベッドシーツとシャツを土産に携えてきたのだが、残念だ」
「………ゆっくりして行って下さい、マジェスティ…」
「そうか。かたじけない」

負けた。
どうせ勝てる見込みはなかった。判っているが、悔しくてならない。

「時に、近頃のメニョたんはとみにヒロアーキに感化されてきた。惜しむらくは、私の予想を覆すまでには至らぬ所か」
「そりゃあ、良かった。アンタの興味を引けばまた痛い目を見る」

面倒臭い。
遠野俊よりもずっと、歪んだ男。高坂日向が常々吐き捨てたものだ。

そう、


「興味は他所に向けとけ、人格崩壊者。」

遠野俊の興味を引いた所為で目をつけられたのだ。忘れてなるものか。
全ての現況はこの男。帝王院神威、全ての脚本を誰にも告げず描いた、この男だ。

「そう嫌うでない。箸にも棒にも掛からぬつれないそなたに、幾つか忠告をしてやろう」
「俺はお前を許しちゃいねぇ。考え違いすんな」
「何、いつの世も若輩は年配の言葉を聞いておくものだ。現時点でそなたに起こり得る森羅万象は、そなただけに留まらず、松原瑪瑙にも振り掛かる」

ぐうの音もない。
わざとらしく書類へ向けていた目を上げ、心の中で落ち着けと、まるで呪文の様に唱えた。

「私が『あれ』を選定した理由を話してはいなかったろう。あの日、私が作り上げた『偶然』によって対面したそなたらは、今では仲睦まじい恋人になりつつある」

血に濡れたが如く紅い、人とは思えない瞳を細めた目の前の美貌は無表情のまま。紫外線の下では黄金に色を変える特異な双眸を持ってして尚、この星にはこの男の命を狙う者など存在しない。

少なからず死ねば良いのに、とは、思っていても、だ。

「…オメーに乗せられた訳じゃねぇ。俺は、俺の思うまま行動してきた。マーナオも、」
「果たして、真にそれが事実だと証明出来るか?」
「っ、」
「確かに私はそなたには何もしていない。…否、少々語弊があろうか。あの日、松原瑪瑙のカツサンドが急逝した日」

覚えているか、と。
囁く様な声音が鼓膜を震わせる。何と恐ろしい男だ。これに罠を仕掛けようなどと考えるカルマ総長、遠野俊が背負うカルマとは、何と愚かで強かで浅はかなのか。

「あの日、残念ながら松原瑪瑙は俊の興味を引いてしまった。あれが、誰のものであるか知らぬ筈がなかろう」
「…何、が、言いてぇのか、はっきりしろ」
「そう、それこそが私の唯一の短所と言えようか」

毎日、山程の手紙や贈り物が届く。
大河の跡取りへのご機嫌取りは勿論、先日中国国内に発表した婚約も、追随していると思われた。毎日毎日、山程の。読んでいる暇はなく、届いた端から放置したままだ。

至る所に。
帝王院神威が遠慮なく手を伸ばした、ソファーセットのローテーブルにも、例外なく。

「飴だ。差出人はカナダ人の様だが、私が記憶する限り、このメーカーはメイプルドロップを製造していない」

丁寧に開けられた包装紙、琥珀色の、それこそ「瑪瑙」の様な飴玉を摘まんだ男は、美しい唇の中へ躊躇なくそれを放り込む。

「ほう、これはそなたには毒だ。食べてはならんぞ」
「舐めてんのか」

かりかりと、噛み砕く音が響いた。

「舐めた後に、噛んだ。惜しかったな」

ふざけやがって、と。無言で立ち上がれば、ほぼ同時に立ち上がった男は片手に飴が入った包みを手にしたまま、誰が世話をしているのか、部屋の片隅に置かれた観賞用熱帯魚の水槽へと近寄っていく。
何をしているのか意図を計り兼ねた朱雀が眉を寄せた瞬間、何を考えているのか判らない男は、全く理解不能にも、手にした包みごと飴玉を水槽へと投げ入れたのだ。


「な、」

怒るよりは呆れた朱雀が然し、目を見開いたのは、水槽の中の変化に気付いたからに他ならない。
悠々と回遊していた魚達が、次に次に、水面へと浮いていく。軈て、水槽の側面からは一匹も、艶やかな姿を見る事はなくなった。

「言ったろう、若輩は年配の忠告を軽視するなと。これは、そなたにもこの魚達にも、文字通り『毒』だ」

何故、生きている。
最早声もなく目を見開いたままの朱雀が考えているのは、その毒を噛み砕き飲み込んだ、文字通り『神』の表情に変化がない事だけ。

「私は候補の一人でしかなかった松原瑪瑙を、個人的な嫉妬からそなたに与える餌にしたが、それは既に過去の話だ」
「…」
「俊が求める不良攻めにそなたは該当した。故に、組み合わせ易いと思われる平凡受けの候補を幾ら見繕ったまで。単純に言わば見合いだ。ペアリングに近いか」
「今度は俺に、何をさせたいんだ」

真っ直ぐ。
決して目は反らすまいと、巨大隕石を見上げ為す術なく立ち尽くす絶滅種の様な気分に陥りながら、それでも足を踏ん張った。

「酷い言い様だ。『記憶を失う薬』を望んだのは、そなただろうに」
「!」
「自己嫌悪に陥り睡眠薬に手を出した哀れな子供を見ていられないと、私に頭を下げたのは、さて、誰だったか」

今なら何でも出来る。
だから、何でもしたのだ。初めて惚れた相手に『毒』を食べさせてまで辿り着いた幸福・を。

「そう構えずとも良い。先置いた通り、私は老婆心から忠告に来たまでだ。受けるも聞かぬも、須くそなたの一存に委ねられている」
「今度も変な仕掛けやったら、お前の一番大切なもんをぶっ壊してやるからな」

恋だの愛だの。
両親揃って柄でもなくそんな不確かなものを信じていた事を、近頃良く思い出す。

「随分、面映ゆい事を言う。そなたも知っての通り、私に大切なものなど一つしか存在していない」

弱味など一つとして存在していないと思われた『神』でさえ、それは唯一の弱点になりえるのだ。
幸福とは、禁忌と共に人類が覚えた、最悪の毒である。その為なら何でも出来る。倫理も常識も、幸福を前にしては余りにも無力だった。


だからこそ、



「…然しそれは、そなた如きが易々触れられると思うか」
「あんまテメェを過信すんなよ、死神が」


決して、手放してなるものか。


*←まめこ | 可視恋線。ずちぇ→#



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