童貞は成人を前に奴隷と化す
(この世の地獄とは何ぞや)
自分以外の人間、つまり他人が何を考えているか、それほど深く考えた事はない。
それを自覚したのは聡い妹からいつか指摘されたからだった。

だからと言って、何も変わらなかったけれど。



「…あれ?お兄、帰ってたのー?」
「ただいまー、あっちゃん。久し振りだねー」
「もー、いい加減その呼び方やめてよね」
「おや、どうして?」
「ダサいから」
「そうかなー?あっちゃん、可愛いよー?」

頬を膨らませた妹に首を傾げながら、余りにも膨らんでいる頬を躊躇わず指で突いた。
プス、と空気が抜ける音に微笑めば、母親に似た下がり気味の眉をキリッと吊り上げた妹は笑顔で、爪先を踏んだのだ。

何処で買ったか知れない、派手な柄のパンプスで。基本的にこの家の人間はファッションセンスがないらしい。
それは父の友人…と言うより従兄の妻、ムキムキロッカーファッションの嵯峨崎佑壱が真顔で吐き捨てた台詞だ。

「…あっちゃん、何で家の中で靴なんか履いてるのー?少し見ない内に何か背が高いなーと思ったら」
「ふん、今日届いたばっかの新品だからいいの!どう?可愛いでしょ!」

可愛い?どう見ても真っ赤なパンプスに目玉が幾つも描かれたスリル抜群のデザインだ。カラーストッキングにも、血飛沫じみた柄が施されている。
これが最近の小学生のファッションなのだろうか。最早ハロウィン。

「うーん、奇抜だねー。目立つよねー、目だけに」
「でしょ!パパに一週間おねだりして買わせちゃった!何処の父親も娘の可愛さにメロメロなのよねー」

祖母はふくよかなバストを誇る魔女だったが、どうやら彼女には遺伝しなかったらしい。乙女のマジックでそこそこ膨らんだ胸を強調し、腰をクネらせた妹のポーズは大層愉快だったが、見定めるところパットは5枚ずつだろう。

「お父さん、お母さんがおねだりしたら快諾するのにねー」
「…ちょいと、それどう言う意味?」
「どんなに娘が可愛いかろうと、何だかんだで妻の方が大切なんだよ男は」

彼氏出来た?と尋ねた瞬間、恐ろしい早さの右ストレートが飛んできた。確実に息の根を止める勢いだったが、妹から殺されては世間体が悪い。

「こんのKY野郎…!」
「KYじゃないよー、僕のイニシャルはSKだよー」
「…お兄、大好きだから死んで。兄妹は結婚出来ないのは判ってるから、せめて顔だけ私に頂戴」
「んー。僕の顔はお父さんと同じなんだけどねー」

さらりと躱せば、じゃらじゃら腰に巻いていたチェーンベルトをぶちっと引きちぎった彼女は、鞭の様に投げつけてくる。

「ふ、判り切った事を…!同じ顔なら若い方がいいやないかーい!!!」
「あはは。あっちゃん、欲望に忠実なあっちゃんは情熱的だねー」
「死ねーーーーー!!!!!」

にょろりにょろりと避けていると、ベランダで洗濯物を取り込んでいたらしい母が大きな籠を抱えて現れた。

「ん…?お帰り燦、帰ってたのかい」
「あ、お母さん危ない」
「へ?何、」
「いやー!ママー!避けてー!」

驚いた妹は慣れない高さのパンプスの所為でクキッと転げ、今日もげっそり疲れ果てた表情の母へ真っ直ぐ、妹のチェーンソー…ならぬチェーンベルトが飛んでいく。攻撃から避けた瞬間だった為に、庇おうにも間に合わなかった。


ああ、娘が母を撲殺、なんて。

それも理由が『父の顔が欲しかった』となれば、ご近所の井戸端会議は暫くこれをネタに満員御礼だろう。
別に気にはならないけれど。芸能人でもあるまいに、高々ご当地ネタなど75日だ。



「おや」


何処のホストか。
奇抜な深紅のシャツと白のジャケット、何故か黒いレザーのグローブに、オーダーメイドの赤デニム。
ちょい悪親父ブームに便乗したらしい父親が、確実に方向性を間違えている真っ赤なテンガロンハットを優雅に外している。その手には黒いグローブと、スーパーの袋。

食パンが入っていた。成程、お遣いか。


「ひ!」
「これはこれは秋葉、誰の奥さんに手を出してやがりますか、貴方は」
「パ、パパ…」

レジ袋もテンガロンハットも持っていない左手には、妹の手からぶっ飛んだ狂気のチェーンソー。
驚いて籠ごとすっ転んだらしい母は、近年目が悪くなったらしくいつもは眇めているアーモンドアイをぱっちり開いたまま、廊下に転がっていた。絶えずオンラインゲームとスマホアプリとテレビゲームで酷使していれば、近眼にもなろう。

「少々、おいたが過ぎましたねぇ。…粛清だ、阿呆娘」
「ま、待って、違、誤解なの…いやー!」

奇抜な柄のパンプスの底を笑顔で叩き折った父は妹のスカートを捲し上げ、やはり笑顔でペペペペペン!と尻を叩いた。
泣き喚いた妹のつけまつげが廊下を濡らす涙の水溜まりに浮く頃、叩き疲れたと言うより叩き飽きたらしい父は妹を放り捨て、洗濯物を各部屋の箪笥に仕舞っている背中に張り付いたのだ。

「ハニー、ダーリンがお遣いに行っている間、ジェラシーで胸が張り裂けそうになりましたね?」
「10分で帰ってこなかったら張り裂けてたかもねー、嬉しくて…」
「所でハニー、今夜のご飯は何ですか?」
「鍋」
「良いですねぇ、お鍋ですか」

父は素晴らしい人間だと思う。
何を調理しようがコゲた物体にしかならない妻に毎回毎回律儀にメニューを窺い、毎回毎回どうせ炭になるだけの食材が並んだテーブルに嬉々として座ろうとするのだ。
ガリガリ食して笑顔を崩さないのだから、父の胃袋はどうなっているのか。

妹の秋葉が昔、皆の家はお母さんがご飯を作ってるのに!と喚いてから、お抱えの三ツ星シェフは解雇され、それから数年我が家の食卓にはカーボンが並んでいる。違いは原材料くらいか。見た目はどれも一緒のミラクル。

「痛いぃ…ぐすっ、うぅ…あたしの新しい靴がーっ、うわーん!パパの馬鹿ー!」
「あっちゃん、お父さんのIQは200を超えてるよ?あっちゃんは110くらいだよねー」
「うっさい!お兄は黙ってて!空気読んで!」
「空気なんかどうやって読むの?んー、どっかに見えない文字が書いてあるのかなー?」

ヒールの取れたパンプスから再び足を踏まれ、パンツ丸出しの妹は泣きながら走り去った。つけまつげは放置されている。

「ハニー、結婚記念日パート9は何処に行きましょうか」
「…結婚記念日は俺の誕生日だっつーの」

現在、季節は夏。
鍋の季節でもなく、母の誕生日である両親の結婚記念日は真冬の一月末だ。結婚記念日から毎月30日に結婚記念日パートなんちゃらを繰り返す父は、結婚以来20年弱、毎月結婚記念日を祝い続けている。

「ねー、お母さん。夏だしどうせ焦げて美味しくないし無駄に時間懸かるだけだし、今夜はお寿司でも取ろうよ」
「だよねー、秋葉も二葉も味覚音痴だから引くに引けなかったけど、ここらが潮時だねー。俺も毎日毎日ゴミ袋に石炭捨てたくない」
「…燦、貴様は誰の奥さんの料理が不味いとほざきやがりました」
「不味いなんて言ってないよー」

本心では父も妹も母の料理は美味しくないと思っているのだ。たまに焦げてなくても生焼け、たまーにまともな料理が出てくるとそれだけで皆、感動で涙が止まらない。そんな食卓、もう嫌だ。と、思っているのだろう。

「黙れ二葉、大人も子供も大好き、牛丼を取ろう。お肉大盛りの牛丼とシャリ抜きの寿司を取ろう、豪勢に」
「成程、肉と魚ですね?畏まりましたハニー」
「それってすき焼きとお刺身だよねー」

別に、自分はどうでも良いのだ。
小学生の頃から寮生で、一日三食、好きなものを好きな時に食べられる。
高等部へ進級した今、中等部在学中から務めている生徒会長で日々は充実していると思わなくもない。ただ、とんと趣味が見つからないだけで。

「あ、そーだ。こないだ母さんや松原君達と行ったんだけど、最近のネカフェはちょっとしたレストランも付いてて、そこのパスタ美味しかったんだよねー」
「おや、ちょい悪ママ。ママ友との集まりにはパパも連れてって下さい」
「何で旦那連れて旦那の悪口言わなきゃなんないんだ」

最近のゲームは金が懸かる割りに大した暇潰しにならない。ボードゲームは相手が弱すぎると途端に面白くなくなる。芸術など特に無意味だ、生きるには必要がないものだ。
ストレスの捌け口にカラオケやカフェで長話をする人間も居る様だが、誘われても話すネタもなければ歌のレパートリーもなく、興味もないので行く気もなかった。

「秋葉ー、カラオケ行くよー。いつまでも不貞腐れてないで、出ておいでー」
「えっ?カラオケ?!ほんと?!」
「五区のネカフェのパスタ目当てに、歌いに行こう。家族で行くのにネットやってもつまんないしねー」
「ハニー、ですが松阪牛の牛丼と築地の魚を注文しましたよ?」

どうやら茅の外、叶家では我を貫いた者だけが生き残れるのだ。ファミリーバトルロワイヤル、母以外は基本的に長男の意見など聞きもしない。

「良し、ネカフェに届けさせろ。お前さんなら出来るだろ?」
「勿論ですハニー、一時間で運ばせます」
「30分」
「もしもし私です、10分以内に持ってきなさい。無理?ご冗談を…出来なければ殺しますよ」

つまり、誰もが他人が何を考えているかなどどうでも良いのだ。

「ねー、燦。久し振りに帰ってきたんだから皆で美味しいもの食べに行こう」
「ネカフェは漫画が読めるよねー。漫画は面白いけど買うと溜まるから困るんだよねー」
「うーむ、お前さんはちょいと合理的過ぎて困ったもんだねー。若さが足りない、若さが」

父より二つも年下なのにこの家で最も老けている母の言葉に首を傾げながら、お母さんにも若さがないよねー、などと呟けば、





「あはは、…誰がジジイだと?」


他人の顔色はともかく、母親の顔色は窺うべきだと学んだ。




あれこそ、この世の地獄だった。



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