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最終更新2021/10/15(詳細はUPDATE)

輝ける季節に、願いを。

忘れられない誓いがある。
それは密かな、自分との約束だった。

「生後半年でCMデビュー、八歳まで子役として人気を博し、学業に専念すると休業宣言。然し突如メディアに復活し、瞬く間にお茶の間の人気を独占した実力派俳優、高遠良紀さん。たった三年で電撃引退なさった理由は、何だったんですか?」

良く喋るな、と。
他人事の様に苦笑いを零した。同年代か幾つか上か、滑舌の良いアナウンサーの声は聞き易いものだったが、胸元が広く開いたシャツとタイトなスカートから伸びる足には、閉口する。

「目的がなくなったから、かな」
「では、その目的とは何だったんですか?」
「好きな人の一番になりたかった」

煽る様な物言いと目付き、男なら悪くない誘いには気づいていた。小一時間のインタビューに答えた後で密かに渡された名刺は、去っていく客人らを見送ったついでに外に置いたゴミ箱へ放り込む。

幼かったいつかの自分が、期待に胸を膨らませて購入した新築の木造一軒家は、築十年にもなると、真新しかった木材の色合いが幾らか飴色に変化していた。


「ごめん、煩かった?」

間取りの大半を占める寝室兼自室の、一際存在感を放つキングサイズのベッド。二つ並んだ枕を眺めながら呟いて、ベッドサイドのチェストに飾った写真立てへ足を向かわせる。

「辞めて十年になるのに、物好きだと思うだろ。プロデューサーが何度も頼んでくるから、鬱陶しかったんだ。…ごめん、俺達の家に、初めて他人を入れた」

自業自得だと知っている。
あれほど愛していたのに、あれほどの時を過ごしたのに。たった一枚しかない、解像度の粗い写真は、当時の携帯電話に保存していた画像を焼き付けた写真だからだ。
同じ高校だったにも関わらず、卒業式には出られなかった恋人の写真は、これしか手元にはない。

彼の両親が暮らす家に図々しく上がり込み、写真をくれと言う勇気などなかった。全ては、自分の責任だからだ。



「…そろそろ出るか。待ち兼ねた、金曜日だ」

過去に戻れたら何をしたいですか、と。
最後に尋ねてきたアナウンサーに、返した言葉は何だったか。


時間はあの日からずっと。
十年前のホワイトクリスマスで、止まったままだ。













物心ついた頃には既に、分厚い台本を読むのが日課だった。
いわゆるステージママだった母親は女優志望だったが芽が出ず、若い頃は売れない劇団に所属していた父親もまた、業界への憧れは強かった。

そんな両親が言うまま続けていた仕事は、当の両親が離婚話で揉めた頃、いやになって投げ捨てたものだった。

浮気していた父親はすぐに愛人との再婚を進め、離婚調停では髪を振り乱し叫び続けていた母親は、子供が休業宣言した途端、熱が冷めた様に育児放棄した。
大人に揉まれて暮らしていた所為で変に擦れていた自分は、そこで両親に見切りをつけた。どちらが親権を取るかで揉めていた二人の目的が、子供が可愛いのではなく、子供の稼ぐ金や名声だと気づいたからだ。

結局、再婚に邪魔だと言う理由で父親は親権放棄し、母親の籍に残された自分は、母親の兄夫婦に育てられた。子供と言う生き甲斐をなくした母はアルバイトの傍ら、小さな劇団で演技を続けていると言う。
子供が居なかった伯父夫婦はとても良くしてくれていたが、彼らの元に娘が出来た途端、穏やかな時間は終わりを告げたのだ。


出ていけと言われた訳ではない。
ただ、本当の家族にはなれないと思い知らされただけだ。
中学へ上がる頃には夜遊びと女遊びを覚え、帰宅する回数も減っていった。顔を合わせても最低限の会話しかない。本当の両親であれば叱ってくれたのだろうが、伯父夫婦はどこまでも、優しかった。

本当の母親は「自分の人生は好きにしろ」と言った。
シビアな女だと知ったのは、その時だ。子役として成功した息子の為に己を削っていただけで、本来、母親には向かない女だ。

伯父夫婦の勧めもあり高校進学する代わりに、一人暮らしを申し出た。実の母親が伯父に預けていた貯金通帳を渡され、それかま幼い頃に稼いだものだと知った。
母は、金には手をつけなかった様だ。伯父夫婦に預ける時に、成人までの養育費として渡したものだったらしい。

けれど伯父は、それには手をつけなかった。
本当の息子の様に思っていたと言われたが、最後には、本当の親になれなくてすまないと謝られた。



義理の妹は可愛かったし、夫婦が嫌いだった訳ではない。
それでも一人暮らしは楽だった。過去の自分が稼いだ金を湯水の様に散財し、今になれば何と下らない人間だったのか。



敢えて知り合いのいない県外の高校に進み、昔の自分を知らない奴らに囲まれて。預金を半分ほど使い果たし、夜遊びに飽きた頃、クラスでも地味な生徒に話し掛けた。
共立とは名ばかりで男が多かった学校はお世辞でも品行が良いとは言えなかったが、彼だけは、毎日真面目にノートを取り、身なりもきちんとしていたから、物珍しかったのだと思う。理由など殆ど覚えていない。


「こんにちは」
「あら、こんにちは。今日はいつもより遅かったですね」
「来客がありまして」
「そうですか。ごゆっくり」
「有難うございます」

ハンドルを握る間、過去を振り返って思う事は、己の浅ましさと愚かさだけだ。
道中、行きつけの花屋で季節の花束をいつもの様に頼み、それを抱えて白い廊下を進む。


此処はいつも、消毒薬の匂いがする。
ぽこぽこと気泡の音が近づいてくるのが判った。

いつも此処で一度、緊張する。
毎週金曜、近頃では自分以外の来客を見る事もない、寂しい部屋。


「………遅くなってごめん、芳樹」

部屋の主は栄養剤を痩せ細った腕に繋がれ、枕元でぽこぽこと音を発てる過酸化水素水の気泡をBGMに、眠り続けている人。
居眠り運転のトラックに轢かれ、一度は心臓が止まったものの、奇跡的に一命を取り留めた恋人は、それから十年経た今も尚、目を覚まさない。

「先月は蕾だった桜が、少し、咲いてきた。判るか?お前が好きだった、春だ」

愚かだった若い自分が、田舎の静かな山あいの、別荘物件だったログハウスを新築で購入し、それと同時に買った揃いの指輪は、自分と彼のそれぞれの左薬指にはめていた。
けれど寝たきりの彼は見るごとに痩せ細っていき、遂にはサイズが合わなくなったのだ。

だから今では、彼の指輪は中指にはめてある。

「中指も細くなったな。…新しい指輪を、作ろうか」

彼の両親には全てを話した。
息子が事故で死にかけたと聞いて駆けつけてきた二人に、何て残酷な事を話せたのか。今になっては謝る言葉が見当たらない。
ただ、あの時、あの瞬間に話しておかないと、二人の関係がなかった事になりそうな気がしたのだ。

半ば無理矢理、襲う様に体を重ねて。
それを繰り返す度にいつしか、恋人の様な甘さを感じる様になった。けれど互いに好きだとは言っていない。
基本的に大人しかった恋人は物分かりが良く、我儘など一つも言わなかった。夢中なのは自分だけなのではないかと焦って、どうすれば彼の一番になれるか、そればかり考えた。

そして、思い付いたのだ。
いつか皆から誉められた、幼い頃の自分の、仕事。映画が好きだった恋人に、テレビの中の自分を観て貰えれば。

遠回しな言い回しでデートに誘っても、『男同士だから外は嫌だ、家で良い』としか言わない恋人に。
女と腕を組んでいる所を目撃しても、約束を破られても。わざとらしいキスマークを見ても、女物の香水を纏っていても。


一度も狼狽えなかった冷たい恋人の、最初で最後の我儘を覚えている。
空から降りしきる雪、唇から絶えず血を吐く愛しい男が、泣きながら初めて口にしたその台詞に込められた悲しみ、絶望、それを吐き出す為の勇気、それらを強く感じた。

願ったのは一つだけ。
神がこの世に存在するのであれば、どうか。彼を連れていかないでくれと。


「あら、二人して寝てる。本当に、仲良しねぇ」

誰かの声を聞いた。
細い五本の指に絡めた己の手に感じる体温だけが、全てだ。












高校を卒業すれば、自立出来ると思っていた。
下らない道楽で幼い自分の稼いだ金の大半を使い果たしていた為、目標の金額に届くまで、かなりの時間を要した。

小学校に上がる頃まで児童施設で育ったと、恋人から聞かされたのは、キスを嫌がらなくなった頃だ。
今の両親は里親なんだと、何ともない様な表情で呟いた彼は膝を抱えて、好きだったココアを舐めた。それまで家にココアなどストックしようと思った事はない。体の相性が良いと言う馬鹿な理由で家に上げる様になり、他の女も抱いたベッドに何度も連れ込み、貪る様に体を重ね続けて。
いつしか、ココアの香りが染み付いた部屋に安心する自分に気づいた。

「親だと思ってるし、向こうは俺を息子だと思ってくれてる…んだと、思う。だけど何か、何処かできっと俺は、線引きしてるんだ。母さんは俺を叱るし、父さんはあんまり喋る人じゃないけど、俺が何か話し掛けたらちゃんと返してくれる。なのに…」
「馴染めてない気がする、って?」
「…俺が悪いんだ」
「何が悪いの?所詮他人だろ。何も変な事じゃない」

その時からきっと、いつか彼を連れていこうと、思ったのだろう。
同じ様な辛さを知っているから、自立して、過去の自分の恩恵など受けずとも自分の足で立てる様になったら、家を買い、まるで家族の様に。暮らせば良いのだと、誓った。

仕事が増えるにつれて、会える回数が減っていった。
ギリギリの出席日数に何度退学しようと思ったものか。けれど最後までしがみついたのは、少しでも長く、恋人の側に居たかったからだ。

テレビ出演が増えた頃、復帰して初めて出演したドラマを二人で見た。その時ぽつりと、彼は言ったのだ。

「…何だか、遠い人になっちゃったなぁ」
「は?」
「かっこよかったよ、凄く」
「…ふん、台詞たった五行の脇役が?」
「うん。でも、かっこよかった」

誉められたのはそれが初めてだった。愛されているのではないかと感じた。ならばどうして彼を裏切ったのかと言われれば、裏切ったつもりがなかったからだ。
仕事が増え、多忙になると毎日会いたいと泣きついてしまいそうだった。かっこいいと誉められたのに、泣き言など言えやしない。

復帰して暫く経ってから、母親と連絡を取る様にはなった。好きな人がいる。相手は男だと吐露して、初めて、怒られた。
芸能界の人間なら気を付けねばならないと。何処から噂が出るか判らない。そうなれば、彼にも迷惑を掛けてしまう。

母の言葉は重く伸し掛かった。彼女の言う通りだ。
折角売り出してくれた事務所に所属俳優のゲイスキャンダルで迷惑を掛ける訳にはいかず、勿論、恋人を悲しまたくはない。
だからわざとらしい程の浮き名を流させた。若手モデルや女優、アナウンサーに裏方、何人もの女に手を出した。誘われたら断らなかった。

恋人に会えない間、溜め続けた欲求解消にうってつけだったのだ。遊び人と言う有り難い二つ名を得て、誹謗中傷も増えたが、オファーも増えた。
何にせよ話題に上れば、仕事が増える。好かれようが嫌われようが知った事ではなかった。ただ、もしかしたら恋人が観ているかも知れない。また、かっこいいと思ってくれているかも知れない。

そんな事を思いながら演じた役が二桁を越えた頃、目標の金額に届いた。
18の誕生日を控えた、高校三年の終わり頃だ。



不動産関係の仕事をしていた母親の手を借り、過疎化した別荘地の土地つき新築物件を、相場よりずっと安く購入する事が出来た。
ログハウス風の別荘物件だった為に、生活拠点とする為の改装を必要とした為、購入してすぐにリフォームが始まった。

リフォーム完了予定は、遅くても年末だと言う。
12月は自分の誕生日であるクリスマスがある。リフォームが間に合おうが間に合わなかろうが、その日には、告白するつもりでいた。

告白と言うより、プロポーズだ。


恥ずかしげもなく、モデル時代に撮影で利用した小さなチャペルを、クリスマスに借りきる事にした。万一断られたらどうしようなどとは、出来るだけ考えない様に努めた。
両親の希望もあり大学進学を選択した恋人を手離さないで済む方法が、他に見当たらなかったのだ。

オーダーメイドのペアリング、完成したそれを受け取った時は体が震えたのを覚えている。今すぐにも手渡したかったが堪え、クリスマスを待った。
毎年、誕生日には必ず祝ってくれる恋人を。冬休み開始と共に独占できる。その日をずっと待っていた。この日の為に仕事を片付け、オフをもぎ取ったのだ。

ゆっくりクリスマスイブを過ごし、誕生日に、二人で教会へ向かう。今までの全ての行いを詫び、受け入れて貰えるまで口説いて、神の前で永久の愛を誓う。
男臭い工業高校の優等生は建築士になるのが目標の様だと気づいてから、土地の広い家を買う事に決めたのだと教えてやろう。

いつか一人前の建築士になった時に、建て直して欲しい。
そんなプロポーズの言葉は遂に、本人へ伝える事は出来なかった。




とっくに撮り終えたものと思っていた撮影が、やり直しになったと連絡を受けたのは誕生日間近だった。これから修了式に出るつもりで久し振りに纏った制服を脱ぎ、苛立ち紛れに向かった現場の空気は重い。
脚本家の我儘と脇役俳優のスキャンダルで、台詞は変更になるわ、脇役俳優と重なったシーンを全て撮り直す事になってしまうわ、最悪な気分だ。

主役の責務だと己に言い聞かせたが、苛立ちは伝染したのだろう。スキャンダル俳優の代役で急遽やってきた新人が、酷かった。
簡単な台詞すら満足に言えずミステイクを繰り返し、監督も他のキャストも裏方までもが苛立っていく。フォローしてやる余裕はなかった。
一秒でも早く、部屋で待っているだろう恋人の元へ飛んでいきたかった。今すぐ抱き締めて貪らねば、気が狂いそうだった。

けれど最悪な事に、誕生日であるクリスマスを迎えても尚、仕事は終わる気配がない。
とうとう怒鳴り散らし、気を張っていた若手俳優が泣いてしまった為に、撮影は延期を余儀なくされた。

主役が怒鳴り散らす光景を目の当たりにした脚本家は、それまでの我儘放題が嘘の様に大人しくなり、あれほど押していた台詞の変更を撤回した様だ。
これにより、スキャンダルで消えた俳優との絡み部分の取り替えは撮影が終わっていた事もあり、自分の仕事は終了した。マネージャーの小言を聞いている暇などない。夜が更けて雪がちらつく中、少ないタクシーを呼び止める為に死に物狂いで駆け出した。



焦りすぎて覚束ない手で、恋人のナンバーをコールする。
一度マンションに戻らないと折角この日の為に用意した指輪がないと気づいて、益々焦った。

彼にはチャペルに先に向かわせている。
自分と同じ韻の名を持つ、愛しい人。自分の名を呼ぶようで中々呼べなかった彼の名を、何度も心の中で繰り返した。
マンションのエレベーター待つのももどかしく、階段を掛け上がり、飛び込んだ部屋の中、テーブルに並んだ料理を見たのだ。彼はずっと、此処で待っていたのだろう。毎年の様に、誕生日を祝う為に。
クリスマスではなく、こんな男の誕生日の為に。

罪悪感に陥っている余裕はなく、恋人に見つからないように敢えてコートのポケットに隠しておいたリングケースを掴み、再びタクシーへ戻った。
雪の所為か、単にクリスマスだからか、混み合う国道の車の流れは悪い。

やっと、目的地が近づいてきた。
やはり焦りながら恋人のナンバーをコールし、まずは誠心誠意謝ろうと口を開いた矢先、絶望的な台詞を浴びせられたのだ。


それから何度掛け直しても、彼の声は聞こえてこなかった。
もうすぐ目前まで辿り着いているにも関わらず、タクシーの足取りは悪い。一秒が一時間の様にも思えた。
タクシーが乗り付けた駐車場、国道沿いの小さなチャペルは艶やかなイルミネーションで彩られており、それを背景に、彼は佇んでいたのだ。


雪が彼を覆ってしまいそうだった。
別れるつもりはないと焦る心のまま飛び出して、振り返った彼へと伸ばした手は、然し。


残酷にも、国道から飛び込んできたトラックによって、妨げられたのだ。








「…ん」

寝てしまったらしい。
目を開けば、明るかった窓の向こうが夜に染まっていた。
時計を見やれば面会時間ぎりぎりで、そろそろ夕食の時間帯だ。

「芳樹、そろそろ俺は帰らないといけない」

繋いでいた手を名残惜しい気持ちで離し、眠る顔に別れを告げた。
事故の後、中々目覚めない彼の前で、彼の育ての両親に全てを打ち明けた時の事を思い出した。母親は泣き崩れ、父親は怒鳴った。
それから半年は顔も見たくないと突っ撥ねられ、勿論、面会は許して貰えなかった。

働く意欲がなくなってしまった為に、世話になった事務所を裏切る様に、引退した。

毎日病院へ足を運び、何度も頭を下げ続け、漸く、週に一度。
面会を許されたのは、目覚める見込みがないと診断されて、転院する事になった頃だ。
所謂ケア病棟に押し込まれ、眠ったまま生き続けている彼は、十年の月日をこのベッドの上で過ごしている。

養子を迎えた時に50代だった両親は、仕事を引退してた義父が一昨年病に倒れてから、奥さんは看病に追われている。
去年は殆ど会っていない。週に一度、金曜日のみの面会を許されたケア病棟のこの部屋に、毎週足を運んでいるのは自分だけだ。

「もし、自宅介護が出来るなら…」

二十歳の頃、母が再婚した。
殆ど家から出る事もなく、預金を切り崩して生活していた自分に、仕事を斡旋したのは母の再婚相手だ。
輸入販売会社の一応社長と言う肩書きを持つ義父は、男臭い工業高校の情報処理を専攻していたと言うだけの理由で、目を輝かせた。
パソコン、ネット、全てが苦手だった彼は、細々と一人でアナログ経営していたが、無理がある事には気づいていたらしい。

母の勧めもあり、経営の手伝いを始め、今では従業員を雇えるまでに実績を上げている。
月に数度本社の事務所に顔を出す以外は、ほぼ在宅で済ませられる受注や発注、ショッピングサイトの運営を主に担当している。

再婚と同時に女優への夢をきっぱり諦めた母も事務所に毎日出勤し、バリバリ働いていた。二人共、寝たきりの恋人が居る事は知っている。

「そうだ、な。一度、先生に相談してみる。覚えなきゃならない事だらけだろうけど、お前と一緒に暮らせるなら、何でも耐えられると思うんだ」

消毒薬の匂いに包まれた、この寂しい部屋にいつまでも、置いておく訳にはいかない。昔そう言った事があった。まだ成人したばかりの頃だ。
その時は彼の両親が首を振った。当然だろう、世間知らずの若輩者に、そんな責任を背負える筈がないと思ったのだ。誰でもそう思う。今になってやっと、それに気づいた。

「だからもう少し、待ってて。…また来週、必ず会いに来る」

約束の証に、眠る唇へキスを落とした。
もう二度と、約束を破ったりしない。もう二度と、つまらない嫉妬を煽ったりなどしない。
一人きりの寂しい家に帰って、一人きりの寂しい病室で眠る恋人を想いながら、金曜日を待つばかり。



「あら、お帰りですか?」
「遅くまですみません。…あの、担当医の方か、他に責任者の方はいらっしゃいませんでしょうか?」

病室を出てすぐに携帯から掛けた相手からの了承を得て、話し掛けてきた顔馴染みの看護婦へ目を向けた。
看病疲れからか元気のなかった恋人の母親は、涙ながらに有難うと囁いて、お願いしますと言った。
年金生活の二人に、いつ目覚めるか判らない息子の高額な入院費は、負担でしかない。いや、理由など何でも良かった。

「可能であれば、退院についてご相談が」

やっと、愚かだったいつかの自分が、けれど自分に誓った約束を果たせる時が、来たのだ。



















「はいはーい、お待ちかねの夕飯ですよー」
「あら、やだ。貴方、そこの患者さんは良いのよ!」
「え?あっ、そうでした。すみません婦長、私まだここに配属になったばかりで…!」

賑やかな声と、味噌の匂い。
何だか酷く腹が減った気がして、嫌に重い腕を持ち上げた。重い。鉛でも仕込んでいるかの様だ。


「あー…はい、待ちました。何か凄い腹減ってんですけど、起こして貰っても良いですか…?」

やはり重たい瞼を開いて、真っ先に飛び込んできたのは白い天井の、白い蛍光灯だ。
眩しさに目を閉じ、持ち上げた左手で目元を覆う。固い感触が瞼に当たり、何だと微かに目を開けば、きらりと光る銀色の指輪が見えた。

「………え?これ、って?」
「だ、誰かぁあああ!!!先生、先生ぇえええ!!!」
「大変です先生、成田さんが目覚めました!誰か、誰か来て下さい!!!」

すっ転ぶ勢いで出ていった誰かが、トレーをひっくり返している。
散らばった食事を勿体ないとばかりに目で追って、散らばった味噌汁の香りを嗅いだ。



ああ、もう、どうしてこんなに腹が減っているのか。
どうしてこの指輪が、中指にはめてあるのか。



「…薬指だった気がするんだけど、な。って言うか、ほんと、此所何処だよ。何か病院の匂いがするんだよな…」

そして、空腹を訴える腹を撫でながら我が身に降り掛かった不幸を思い出した瞬間、凄まじい足音と共に飛び込んできた白衣数人に紛れた長身を見つけて、ただ、笑った。

ああ、馬鹿男だ。
髪の長さが違っても、似合わない眼鏡など掛けていても、すぐに判った。
自分の左中指の指輪と同じものが、彼の左薬指で光っている。

馬鹿男。
浮気者で、エロくて、最低最悪の大馬鹿野郎。
お前の所業は一つ残らず覚えている。だからそんな今にも泣きそうな顔をしても、許してやるつもりはない。


「何か老けたな、良紀。腹減ったんだけど、何か喰わせてくれる?」

馬鹿男は所構わず泣き崩れ、突進する様に抱きついてきた。
医者らしき人達から引き剥がされていく無様な姿に笑いながら、月が浮かんでいる窓の向こうを見れば、桜が踊る様に散っていた。

どうやら春まで寝てしまったらしいなどと呑気に頭を掻いた俺が、18歳ではなく28歳だと知らされるまで、残り数分。

「芳樹…ぐすっ、ぐすっ」
「おい、男の癖に泣くな。大人しく正座してろ、お医者さんの話が頭に入って来ないだろ」
「ごめん…ぐすっ、ぐすっ」

煩いので正座させた馬鹿男の家に連れて帰られる、それは一週間前の話だった。
とりあえず初めて飯が食えたのは三日後だった。


当面は、早く肉が食いたいと誓った俺だった。

- 輝ける季節に、願いを。 -
*めいん#
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