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最終更新2021/10/15(詳細はUPDATE)

ワンダリング×ライフ

平成も終わろうと言うこのご時世、うちの両親は何を考えてるのか。流石は2歳になる息子が寝てる布団の隣で毎晩、まるで獣の様に営んでいた愛情深い親だけはある。

お陰様で不肖の息子は、3歳を迎える前に産まれた弟が「獣の営み」で誕生したのだと、保健体育の授業で習う前に河川敷に落ちていたエロ本のお陰で9歳の時に気づいた。

「…気持ち悪い」

フラッシュバックだとよ、くそったれ。
8歳の時に若い男を家に入れ込んでは、あんあんあんあん喘いでた女の息子にしては繊細だと思わないか。偶々その日、早く帰ってきた草臥れ気味のサラリーマンは、間男をビール瓶で殴り、浮気した妻から包丁で刺された。

無様なもんだ。
怪我人は二人、死人はなし。旦那を裏切っておいて、警察での事情聴取後に堂々と『アンタじゃ物足りないのよ』と旦那を謗った女は、ビール瓶で殴られた頭を7針も縫った男とはまた別の男と駆け落ちし、以降の消息は不明だ。

幸いな事に殺人未遂ではなく暴行の前科で済んだ哀れな被害者と言えば、件の騒ぎで職場で奇異の目で見られ、間もなく自主退社を促された。事件が事件だっただけに同情もあったのか、クビではなかっただけマシなのかも知れない。執行猶予がついただけとは言え、ニュースを幾らか騒がせた事件の犯人だ。

尤も、真犯人はとっくに被害者面で蒸発しているのだから、笑えるだろう?



「兄ちゃん…」

下駄箱はニュースを騒がせた次の日からゴミ箱に変わった。
8歳の哀れな少年に同情するのは近所の大人だけ、子供には無関係な話だ。寧ろ母親が浮気して父親が浮気相手を殺そうとした、と言う格好のネタを逃がす馬鹿はいない。

「幼稚園行きたくない」
「…そっか。お前も苛められたのか」

2歳半下の弟だけが味方だった。同情してくれる大人もいたが、その内心は好奇心が渦巻いている。少なくとも8歳数ヶ月の俺はそう思った。弟が苛められていると知った親父はすぐに転校手続きを取り、俺達兄弟だけ実家に預ける事になったと言った。
仕事を辞めたばかりだった親父は保護観察が終わるまでは残らないといけないと、涙ながらに弟の手を握ったが、俺の手は握らなかった。

「あんな女だと知ってたら籍を入れたりしなかった」

それが、弟が寝た後の親父の口癖。
近所の誰もが親父と俺が全く似ていない事を噂している。それはそうだろう、芽が出ないまま引退したとは言え、元グラビアアイドルだった母親は憧れの俳優のセフレだったが、妊娠したと言うなり縁を切られた。

「既に中絶出来ない時期に入って路頭に迷う所を、俺が救ってやったんだ。戸籍上はお前も俺の息子になるが、DNA検査をすれば親子じゃない事は証明される。本当なら今すぐ俺の籍から消えて貰いたいくらいだが、義務教育の間は仕方ない。お前も被害者の様なもんだ。だが勘違いするなよ、俺の遺産はお前には一円も入らないんだからな。判ったか」
「…はい」
「椎名がお前になついてるから、今だけだ。いずれあの子にも事情を伝える。その時こそ、俺の前から消えてくれ」
「判りました、旦那様」

人前では「お父さん」、二人の時は「旦那様」、心の中では「親父」、血なんか全く繋がっていないのは、平凡な容姿の親父と俺を並べれば判る。母親似なのか弟も似ていなかったが、弟と親父の血液型は同じだ。俺の血液型は母親と同じ。

「悪かったな。一緒に暮らしていればその内愛せるかもしれないと思ったが、勘違いだった」

そうだろう。
8年一緒に暮らしていた俺もまた、両親を愛してなどいなかった。



9歳の誕生日に転校し、新しい環境にはすぐに慣れた。
世間を幾らか騒がせたニュースは無論親父の故郷でも広まっていて、俺に対する苛めは元暮らしていた所よりずっと酷かったからだ。加えて祖父母も俺に対するよそよそしい態度を隠さなかったから、言ってしまえば昔よりずっと酷い状況だったのかも知れない。

但しそれも、12歳になる頃までの話だ。
顔も知らない俳優だと言う父親の血なのか、外見に恵まれていた俺は間もなく担任の女教師を味方にした。簡単な話だ、弟が産まれる前に枕元で延々と聞かされた獣の様な喘ぎ声を聞いているだけで良い。

弟はまったりと成長していく。
中学に上がり近隣で抱いていない女はいない所まで来ると、何処の誰がSNSとやらに俺の写真を載せたのか、わざわざ東京からテレビカメラがやって来た。あれよあれよとデビューが決まると、これまたあれよあれよと東京に連れていかれてしまう。それはそうだろう、俺への対応を持て余していた祖父母が反対しなかったからだ。

この世は案外チョロいらしい。
気づいた時には日本で俺を知らない人間は居ないのではないかと言う所まで辿り着くと、そう言えば俺の親権はどうなっているのかと思い立った。


「あ?親権?」
「15歳までは面倒を見てやる、的な事をほざいてたんで。さっき気づいたけど、期限が3年も越えてる」
「ああ、例の旦那様?」
「人の不幸を笑ってんじゃねぇよ、ハルマさん」
「違ぇ、カスミさんだろうが」

ケタケタと人の不幸を笑っているとんでもない男前は、それこそ日本中が知らない者はないだろうと言うくらい有名な歌手だ。老若男女問わず愛を捧げられていそうな妖しいフェロモンを垂れ流している癖に、聴いた誰もが赤面する様なラブソングばかり大量生産している。

「つーか、お前の家族話は久々じゃねぇか。何だ、まさか良くある『子供を捨てた両親が売れた頃に姿を現して金をせびってきた』とかか?」
「いーや、母親はともかく親父はないんで。意外と良い大学出てて、辞めたとは言っても上場企業で営業やってただけに、プライドの高さは富士山を越えてますから」
「ああ、実家も大地主でそこそこ金持ってるんだっけ?そんな一人息子が痴情の縺れで前科負ったっつったら、そりゃ戸惑うだろうな」
「根っから悪い人達じゃないんですよ。俺の母親の頭がパー過ぎただけで。親父は温室育ちで世間知らずな所があるし」
「明らかに学生時代はお勉強ばっかやってました系の冴えないオッサンが、ド三流のグラビアアイドルに迫られた時点で、普通可笑しいと思うだろうに」

そこらの俳優が霞むほど美しい男は粗野な笑みを浮かべ、口汚く鼻で笑った。この見た目で中身はドS俺様野郎だと言うのだから、騒がない女性はいない。と言っても、抱かれたい芸能人で十年連続一位だったのは、数年前までの事だ。とっくに殿堂入りを果たし、今では一位は別の誰か。因みに俺は、去年6位に入った。

「そりゃそうでしょうけど…実際、俺が実の子じゃないって気づいたのは、産まれた後に親戚中から『時期が合わない』って言われたかららしいんで」
「馬鹿だろ、ただの。何が『仕方なく救ってやった』だ、笑わせる。ま、いきなり現れて脅されたら俺に言え、動画に収めて晒してやる」
「うわ、燃えそう…」
「お前は悲劇のヒロイン面してりゃ良い。使えるもんは何でも使え、俺みたいにな」
「実の母親が痴情の縺れで刺し殺されても痛まない心の持ち主になれ、って事ですか?」
「実の父親が死んだ時もな?」
「怖っえぇ…」
「つまり、大人になれっつー先輩からの有り難い教えだって事だ。18歳は大人だぞ」
「未成年かどうかって意味なら、高3は含まれないんじゃ?高校通ってない俺が含まれるかどうかは知りませんけど」

作詞作曲、加えて編曲まで自身で手掛けている男こそ超がつくほどの七光りだったが、兄が経営している大手プロダクションから何故か電撃移籍すると、以前の様な刺々しさがなくなり、ラブソングを垂れ流す様になったのだ。それはそれは恥ずかしいほどに。

「通えば良かっただろうが」
「忙し過ぎて無理だったんですよ。手っ取り早く稼ぎたかったし…どっかの大先輩みたいに遊んでても食える様な金はなかったんで」
「お前の場合デビューが特殊だったからな。何でうちを選んだんだ?」
「売れるまでの家賃と食費を賄ってくれるって保証してくれたの、うちだけだったんで」
「マジか。つまり売れない間はテメェ俺の稼ぎで喰ってた訳だな」
「ははー。その節は有難うございましたお代官様」
「出世払いで許してやろう。精々身を粉にして働け若造」

然し、弱小プロダクションの我が社が急速に所属タレントを増やしてきたのは、明らかに目の前の大先輩のお陰だった。一人で何億も稼いでいる超売れっ子は、最早何をしても揺るがない足場の上に立っている。男として憧れるなと言う方が無理な話だ。

「身を粉にして、か」
「金になんねぇ女を食い散らかすより、楽だろ」
「…やめて下さいよ、黒歴史なんスから。それハルマさんにしか話してないんですからね」
「カスミさんと呼べ」
「慣れないんですよ、餓鬼の頃からテレビで観てた側としては」
「慣れろ。苛められない為に少年は体を差し出した、か。まるで今回のコレみてぇな話だな」

豪華な楽屋は、俺の為ではなく目の前の大先輩の為のもの。
同じプロダクションだからと言う理由で放り込まれた俺は、主演とは形ばかりだ。出す曲出す曲オリコン一位を叩き出す歌手にプレッシャーはない様だが、当時現役の中学生が書いたと言うだけで話題になった超有名小説の主演をやれと言われてから早数ヶ月、役作りと言う名の下準備に追われ、本番の撮影はまだ始まったばかりだった。

「はぁ」
「やっと主演の話が来たってのに、何だその溜息は」
「何で俺を指名したんですかね、この脚本家…」
「脚本家?お前を指名したのって、原作者じゃなかったか?」
「そうでしたっけ?最初はハルマさ…カスミさんのおまけ扱いだと思ってたんですもん」
「相変わらず自信がねぇ奴だ。この小説はユキが珍しく最後まで読めた本だって言うから、脚本家にゴリ押しして参加させて貰ったんだよ」
「俺とハル…カスミさんの撮影シーン全く被らないとは思いませんでした」
「俺が演るのは最初と最後のシーンだけだからな。スケジュールに無理矢理ぶっ込んだ所為で、お先に撮らして貰ったんだよ。その所為で暫く休みがねぇ、最悪だぜ…」
「だったら何であれほど嫌がってた演技なんかしたんですか、しかも凄ぇ上手かったらしいし。主演の俺を潰す気っスか」
「悪く思うな、俺はユキと映画館デートをする為なら悪魔に魂を売る男だ」
「なんのこっちゃ。…あー、成程。自分の曲が流れる映画に自分が出演して、奥さんにキャーキャー言われたいって感じ?」
「当たらずも遠からずだな」
「…図星かよ」

潔い人だ。究極のマイペース、世界は自分を中心に回っていると思っているんだろう。確かに、そう錯覚しても仕方ない程の人ではある。
棚からぼたもち級の仕事が入ってきて連日憂鬱な俺とは、比べ物にならない。エゴサーチなどする趣味もないが、少しネットをすれば前評判は最悪だ。某超有名シンガーの引き立て役呼ばわりされているのが、今の俺の立場である。俺の人生は、産まれた瞬間から苛められっ子ロードで塗り潰されているのではないだろうか。

ああ、また溜息。

「ジトジトしてんじゃねぇ。今度は何だ」
「あ、いや。来週弟の誕生日だったなって、いきなり思い出して」
「種違いの弟だろ?連絡取ってんのか?」
「こっちに引っ越したばっかの時は、毎週掛けてましたよ」

2歳年下の弟は、俺が中2で芸能界デビューした頃はまだ小6だった。
祖父母の勧めで、引っ越した頃から色々と習い事をやらされていて、初めの頃は毎晩泣きついてきた事を覚えている。それがなくなったのはいつだったか、思い出せもしない。
恐らく、俺が初めて女性の体を知った辺りからだ。あれほど忌み嫌っていた獣の様な両親の行為と同じ事を、知ってしまった瞬間。俺は汚いものを知らない弟の顔を見る事が出来なくなってしまった。

「何となく、俺が電話する度に祖父母が迷惑そうな感じだったんで…」
「は、自然消滅か」
「ワードのチョイスが可笑しいっス、地元じゃそこそこ有名な私立中学に合格したって連絡はくれましたよ!」
「入学式にも卒業式にも行ってねぇだろうが。つーかお前が里帰りしたなんて話は聞いた事もねぇ、弟が何処の高校に通ってんのか知ってんのか?」
「た、多分、内部進学…」
「完全に自然消滅じゃねぇか。弟の近況も知らねぇで兄貴と言えるのか」
「俺の所は普通じゃないんで」
「逆に普通って何だっつーの。俺なんざ初めて勃起した11歳の時に偶々目の前にいた女とヤってから22年、今じゃ極々平凡な幸せ家族計画を日夜計画しまくってる高額納税者だ。俺のお陰で日本には日が昇ってるレベルだぞ」
「何言ってんのか全く判らないんですけど、本当にシンガーソングライターですかアンタ」
「オリコンが一位の座を丁重に用意して待ってる内は?」
「男と結婚して、しかもそれを全く隠してねぇのに何でファン増えてんだ…」
「良いねぇカミングアウト、面倒臭い女が寄ってこなくなって楽だ。今じゃ一週間で20人くらいからしか口説かれない」
「…波乱万丈過ぎますよ先輩。それ絶対普通じゃないから」

我が道を行きまくる最強男は、左薬指に恐ろしく煌めいた指輪を嵌めている。某有名ブランドの完全カスタムメイドと言うのだから、金額は知りたくもない。

「腐女子を味方につけたら最強だぞお前、こないだなんかとうとう同人誌が送られてきた」
「同人誌?何ですか、それ」
「相手がなよなよした気色悪い少女漫画の主人公みてぇな奴だったけどなぁ、脳内変換したら…まぁ…悪くなかったかも知れん」
「はぁ?」
「お前も俺程は無理だとしても、オリコン5位以内を目指して頑張りなさい」
「いやハルマさん、俺は歌手じゃないんですが…」
「だからカスミだっつってんだろうが!カスミソウが霞むほど可憐なカスミ様と呼べカスミ様と」

呼んで堪るか、とは言えない縦社会だ。

「見てろナトリ、会見場は今頃カスミソウで埋め尽くされてる筈だ。こないだプロモーション撮影から帰った時は、成田空港がカスミソウで犇めいた。あの時は目の前が真っ白になったかと思ったぞ」
「カスミソウだからでしょ。それより、大手辞めて後悔しなかったんですか?レーベルだって超有名所だったのに、何でわざわざインディーズ落ちしたりしたんスか」
「うちの糞弱小事務所に傘下レーベルがなかったからだ。お陰様で前より広告露出は減ったが、稼ぎは昔の数倍だぞ。大手であればあるほど、余計なマージンを取られるだけだ」
「…えげつな」
「大人の社会は闇に犯されてるもんなんだよ、学べ若造」
「はいはい、オッサン臭いですよ。あ、スマホ鳴ってますよ先輩、奥さんからじゃないんスか?」
「それ間違ってんぞ。俺はオッサンじゃないし、奥さんは俺だバーカ」

180cmを易々越えた長身に、明らかに日本離れした顔立ち、キラキラの金髪を近頃伸ばしているのか後ろで括った男が嫁さんには、とてもではないが思えない。
だが然し、14歳でデビューした俺が16歳で初めてドラマのそこそこ良い役を貰った時に、そのドラマの主題歌を歌っていた事で付き合いが始まり、現在に至るまでなんやかんや面倒を見て貰っているので、一応は尊敬する大先輩だ。気安い仲になったからと言って「アンタが嫁なら旦那は熊か」とは、とても言えない。

「あ?!柔道部のOB会だと?!」

始まった。日本一イケてる男が恐ろしく格好悪くなる瞬間だ、もう何回見た事か。

「聞いてねぇぞテメェ、は?忘れてただと?!待てユキ!絶対に許さんぞ!どうしても行くなら俺のスケジュールが空いてる日に…って、ああ?!あの野郎、切りやがった…!」
「ハル…カスミさん、スマホ投げたらまた壊れますよ」
「知るかそんなもん!クソっ、俺の目がない時に何処の馬の骨とも知らねぇ男共に、あの死ぬほどエロい格好で稽古つけてやるなんて冗談じゃない!」
「死ぬほどエロいって、柔道着の事ですか?ちょっと待って、カスミさんの奥さん…じゃなくて旦那さんって、あの『新婚さんいらっしゃいまし』に一緒に出た長身で顔は流石にモザイク入ってて判らなかったけど、筋肉がえらい事になってた人でしょ?!何で方向違いな嫉妬してんですか?!」
「何が方向違いだ!テメェはユキのエロさを知らねぇからほざけんだよナトリ、こうなったら今から帰るしかねぇ!」
「ちょ、ちょちょちょ駄目っスよ!あと十分で製作発表が始まるって忘れたんですか!」
「んなもん勝手にやってろ!何で俺までそんなもんに出なきゃなんねぇんだ!」
「アンタと俺がWキャストの映画だからだろ!」
「どどどどうしたんですか二人共っ」

涙目で楽屋に入ってきたマネージャーが、逃げようとしている大先輩のシャツの襟を必死で掴んでいる俺を見るなり青褪め、目眩を覚えたのかフラリとたたらを踏むと、素早く携帯を取り出した。

「…あ、もしもし柊さんのお宅でしょうか?幸之丞さんはいらっしゃいますか?はい、そうですお世話になっておりますマネージャーの伊飼です、ええ、胃潰瘍ではなく伊飼です。胃潰瘍はそろそろ出来そうですが、ええ、はい」

動きを止めている俺らの前で、血を吐きそうな表情で受話口から顔を離した気弱なマネージャーは、プッとスピーカーボタンを押した。

『仕事をサボる様な犬に育ては覚えはないぞ、カスミ』

犬。
大層クールな声がスピーカー越しに響き、うっかり吹き出したマネージャーは慌てて口元を押さえた。急成長したとは言え弱小プロダクションの人材不足は深刻で、たまに俳優の仕事も入る程度のタレント崩れでしかない俺のマネージャーは他に数人抱えている為に、今日は稼ぎ頭のマネージャーが俺の世話も見てくれている。いつも胃が痛そうにしているが、これでもうちでは一番の敏腕マネージャーだ。

他の人間は俺様シンガーソングライターのマネージメントなど出来ない。死ぬ前に逃げる。

「ちょ、ちょっと待て、だったらお前こそOB会には行くなよ!俺にだけ命令するのは可笑しいだろうが!」
『いいや、俺は行く。一度行くと言った約束を破る事は出来ない』
「はぁ?!ふざけ、」
『だったら別れるか?』

ああ、相変わらず男らしい奥さん…いや旦那様だ。売れっ子シンガーソングライター33歳の息の根を止める呪文をからっからに乾いた声で囁いて、顔色の悪いマネージャーを恐ろしい目で睨んだフェロモン男と言えば、

「テ、テメ…」
『パートナー破棄だ。ただの兄弟に戻ろう、家族には俺から話しておく。安心しろ、今更パートナー破棄した所でお前が父さんの養子である事に変わりはない』
「わ…別れません」
『で?』
「………五時までに帰ってこいよ!二次会には行くな!」
『二時から三時間稽古をつけてそれから飲み会に繰り出すから、早くても七時だ』
「な」
『何か文句があるのか?』
「……………ありません…」

燃え盛る炎を冷ややかに吹き消されたかの如く、血を吐く様に呟いた。

「…敷かれてるな」
「敷かれてますね…」
「煩ぇぞテメェら!覚えてろよ伊飼、全身胃潰瘍まみれにして殺してやるからな…!」
「全身胃潰瘍って何スか、アンタ本当にシンガーソングライターですか?」
「カスミさんはほら、お母様がアメリカ人ですから」
「カスミさん、ナトリさん、出番です」

不機嫌な稼ぎ頭をなんやかんや宥めて、呼びに来たADに促されるまま製作発表会見会場へ向かう。観客のボルテージは主演二人とは裏腹に最高潮で、皆が抱えている大量のカスミソウの花束にライトが反射し、笑えるほど眩しかった。

そこで、初めて原作者の現高校生作家が素顔を露出し挨拶をしたらしいが、俺は引き立て役の主演として観客からの『何でお前だよ』と言う目を笑顔で躱す事に必死で、主演挨拶で何を話したかすら覚えていない。
辛うじて覚えているのは、ほんの数分しか出ていないのにWキャスト扱いされている売れっ子歌手が終始不貞腐れて、とうとう一言も喋らなかった事くらいだ。

「ちょっとぉ、さっきの無愛想な態度は何なの?カスミちゃん、僕だってたまにはお説教する時もあるんだからねっ?」

頭頂部が神々しい事で自社のタレントに有名な我がプロダクションの社長は、ぷりぷりとお怒りモードだったが、

「何か抜かしたかハゲ、ライブ減らすぞ」
「またユキティーを怒らせたんだね?仕方ない子、来月のアメリカレコーディングに同行して貰える様に取り計らってあげるから、機嫌直してお仕事しておくれ?」
「糞ハゲ、たまには役に立ちやがる」

大人の社会は闇に染まっている。確かにそうらしい。




苛めかと言う程のリテイクを喰らいまくった日。
とうとう呆れ果てた監督から怒鳴られた新人アイドルが号泣しているのを横目に、脇役でしかないアイドルがNGを出しまくる所為で俺のモチベーションも下がりまくり、予定されていたシーンは次回に持ち越しになった。

撮影予定時間を大幅に越えていた所為で、借りていた市民体育館の延長料金が発生しただの、名バイスタンダーで有名な大御所俳優が不機嫌になっただの、スタッフの噂話は尽きない。

「…こんなんで本当にクランクアップを迎えられるのか」
「お疲れ様です、名鳥さん」

撮影場所は結構な田舎で、暮らしているのは殆どがお年寄りだと言う長閑な場所だった。お陰様でホテルや民宿の様なものはなく、キャンプ場ですらない馬鹿広い空き地の使用許可を得て、制作スタッフが半月で作ったと言う町のセットで寝泊まりする生活も、既に一週間が経過していた。
最初こそ順調で、世間では引き立て役扱いの俺だが監督からリテイクを望まれた事は殆どなく、やっと力が抜けてこれからだと言う矢先、エキストラに毛が生えた様な役のアイドルに出鼻を挫かれて、寝泊まりに指定されているセットに帰ってからも暫く悶々としていた。

「あ、えっと、シイ先生、お疲れ様です」
「やだなぁ、僕の方が名鳥さんより年下なんですから、先生はやめて下さい」

そんな俺を、撮影初日から気遣ってくれてるのが、何とか賞を受賞したと言う若手作家、現在高校一年生にはとても思えないイケメンだった。何がイケメンかと言えば、小説家っぽい眼鏡だろう。少なくとも俺よりは頭が良さそうだ。
製作発表で素顔を出した事で俄ファンが急増したらしく、今回の映画化は空前の大ヒットになると噂されている。お陰様で演じる方は命懸けだ。

「冷たいお茶があるんです。スポットクーラーがあるとは言え、セットの中って結構暑いですよね」
「あ、いつも有難う」

178cm、そこそこ大きい筈の俺と目線が変わらない作家は、夏休みだからと言う理由で俺の撮影日と同じ日から、地方ロケに同行している。製作発表の会場では全く記憶に残っていなかったが、どうやらあの日俺は魂が抜けた様な状態でありながら、それなりに挨拶をしていたらしい。

「昨日ネットで見たんだけど、大先生って呼ばれてるんだって?今年発表したばっかの新作の小説もドラマ化の話が出てるって、マネージャーから聞いたよ」
「いやいや、運が良かっただけです。僕なんかまだまだひよっこですよ」

何故か初めから親しげに話し掛けてきた大先生は、度々こうしてなんやかんや差し入れてくれる。俺をわざわざ指名してくれたと言う話が本当なのかは、流石に尋ねる勇気もないが、こうして気遣ってくれると言う事は『やっぱ役に合わないからチェンジ』の恐れはないだろう。きっと。

「えっと、高校生の夏休みっていつまでなの?」
「8月一杯です。結構面倒な学校に通ってるんで、たまに…と言うか、実は明日明後日は戻らないと駄目なんですが」
「そっか。俺は中学もまともに通ってないから判らないけど、大変なんだな。それなのに仕事と両立してるのって凄いと思う」
「凄くないですよ。…早く面倒事から解放されたかっただけで」

大人びた横顔がブラックコーヒーを飲むのを横目に、俺は甘いレモンティーを舐めた。子供の頃から好きな飲み物と言えばレモンティーだったから、初めて差し入れされた時に少々大袈裟に喜んでしまい、気を使ってくれたのかも知れない。以降、毎日レモンティーを差し入れてくれる。こんなド田舎ではコンビニに行くにもタクシーを呼ばないといけないのに、何だか申し訳ない気持ちだ。

「凄いのは名鳥さんですよ。中2で自立して生活してるじゃないですか」
「そんな事は…」
「本当、ムカつく」
「へ?」

カラン、と。缶コーヒーが足元に転がる音、俺の手からレモンティーのペットボトルが滑り落ちたのはその数秒後で、

「明日から撮影が見られなくて残念ですが、僕の目がないからと言って訳の判らない女を抱いたりしないで下さいね?」
「…は?あ…や、はぁ?!な、何でキス…っ」
「さぁ、何でかは頑張って考えて下さい。そろそろタクシーに乗らないと始発に間に合わないので、さようなら」

にっこり笑って濡れた唇を指で撫でた大先生は、そのまま混乱の底に叩き落とされた俺を残して去っていった。



「な…な…何なんだ?!」

獣の遠吠えじみた俺の悲鳴に返事をしたのは、野犬だか飼い犬だかの遠吠えだけだったと記しておこう。

「何なんだよ何なんだよ訳判んねぇ!ハルマさんに聞こう、そうしよう」

混乱の余りLINEでヘルプを求めた大先輩は、まさかの未読スルーをカマしてくれた。俺の携帯のメモリーの友達リストには他に誰もいないので、落ちた缶とペットボトルを拾って寝る事にする。

全く眠れなかった所為で翌日の撮影は散々だった。
悩む暇なく監督の怒鳴り声に攻め立てられて、深夜まで及ぶ撮影から命からがら解放された俺のLINE履歴には、依然として既読マークがつかないまま。

「最悪だ…!」

俺は獣の様に叫んで忘れる事にした。苛められる事は産まれてこの方18年、慣れている。

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