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最終更新2021/10/15(詳細はUPDATE)

ワンダフルライフ

彼はその日、犬を拾った。






犬は落ちていた割りには小綺麗で、中々に立派な体格だった。家族が余りの大きさに悲鳴を上げたが、犬は酷く大人しく、鳴き声どころか唸る事さえなかった為、すぐに家族からジャーキーやらミルクやら与えられる様になった。

犬は痩せ細っていた。
けれど犬は家族が与える全ての食糧に目も向けず、ひたすら必死に拾ってくれた彼だけを見ていた。
自分を見ても怯まず、酷い風体で倒れていたのに顔色一つ変えず抱え上げてくれた人間ばかり、毎日。


彼は柔道部に行く。
今は夏休みの筈だが、いつも朝早くから家を出ていき、犬を放って遅くまで帰らない。

いつも犬は玄関先のお世辞でも広いとは言えない土間で丸く待っている。
家族が声を掛けようが家族が抱き上げようと手を伸ばそうが、首を振り凄まじく冷ややかな眼差しで睨め付け拒絶する。



犬は酷く寡黙だった。
代わりに茶の瞳だけが酷く雄弁だった。白の毛並みには所々銀掛かった灰色が交じり、見るからに手触りが良さそうだった。


犬の飼い主とも言うべき彼も寡黙な人間だったが、時折眼差しだけで微笑みながら犬の毛を撫でる事がある。
犬はその時だけ口元に明確な笑みを浮かべるのだ。



毎週日曜日、犬は体格に相応しく傲慢な態度で近所を散歩した。傍らには必ず飼い主である彼の姿があり、彼が足を止める度に傲慢な犬はピタリと足を止める。
彼との散歩コースは然程長くはなく、通常人の足では30分にも満たない道程をゆったりゆったり歩いていた。


彼は家族から頼まれた買い物メモを片手に、通い付けの惣菜屋でコロッケを2つ買う。惣菜屋の店主は白髪混じりの気さくな親父さんで、無愛想な犬にも無表情な彼にも気兼ねせず話し掛けてきた。
彼はこの惣菜屋でコロッケを買う事が日課で、この惣菜屋のコロッケしか食べないのだと言う。道理で夕食に出されたコロッケを毎回犬に寄越すのだと、犬にも判ったのだろうか。



『霞草が好きだな』

彼は図体に似合わずそう言って散歩コースの途中にある花屋の軒先を眺めた。
唇に付着したパン粉を舐め取りながら、


『お前の髪の色、霞草みたいだ』

そう笑う眼差しに、犬は叫び出したかったのかも知れない。




大好きだ、と。
気付いた時に、犬は初めて泣きたくなった。大好きだと言いたくて喉が灼け付きそうだと言うのに、肝心の声は音になる前に喉で掻き消されてしまう。


『いい加減、名前が無かったら不便だな。今日からお前はカスミだ』

カスミ、と柔らかい声が呼ぶ度に胸が締め付けられる様だった。
後どのくらいこの人の傍に居られるのだろうとネガティブな事ばかり考える様になり、拾われて3週間が過ぎようとした夏休み残り僅かの朝、





「見つけたぞ」


大好きな人が部活動に出掛けるのと引き替えに、見たくない人間が現われたのだ。


「こんな所でいつまで遊んでいるつもりだ。マスコミが嗅ぎ付けるのも時間の問題だと言うのに、事務所に何の連絡も寄越さないで…」

大嫌い。
人間は皆、大嫌い。
寄ってくる男も女も自分の名声や容姿、体にしか興味が無いのだから。

「…失せろ、色気違い」
「酷い言われ様だな。…まぁ、仕方無いが」

腹違いの兄でマネージャーの男でさえ、実の弟に薬を飲ませ跨って腰を振ったのだ。
獣の様な声で喘ぎながら何度も何度も偽りの名前を呼んで、何度も何度も醜い白濁を吐き出して。



「僕はお前を愛してるんだ」
「笑わせるな」

大好きな人の前では一言も喋らなかった犬は、酷く冷たい声音で敵を排他した。
人間の声は全てが雑音で、あの日以来人間に触られる事さえ嫌になった。

「吐き気がするんだよ」

寄ってくる男も女も一度は抱いたけれど、それは煩わしかったからだ。一度抱けば二度と話す事もない。愛していると言われる度に犬は吐き気を覚えた。

「相変わらず、人間嫌いだな」

けれど、信頼していた唯一の肉親から家族愛以外の感情を向けられて気付いたのだ。
人間である自分にすら、吐き気がすると。



「カスミ」


大好きな人の声がした。
無意識に押さえていた口元から手を外し弾かれた様に振り返れば、柔道着が入ったショルダーバッグを携えた大好きな人が見える。

「…君は?」
「この家の息子、です。お宅こそどちら様ですか?」
「彼の保護者だ」
「カスミの?」

巫山戯るな、と。義兄と呼ぶのもおぞましい男へ叫びたかった。
然し、人間全てが汚らわしいものだと認識してしまった犬の喉が音を放つ事はない。

大好きなご主人様に、汚らわしい雑音など聞かせたくなかったからだ。

「随分若い保護者だな。何の用だか知らないが、カスミは子供じゃない。わざわざお迎えもないだろ」
「世間知らずかな、君は」
「…何ですか?」
「彼は有名なミュージシャンだ。余り表舞台には姿を現さないが、元はパリコレクション経験者でもあるモデル」
「え…」
「何でこんな貧乏家に居るのか理解に苦しむけれど、」


右手が、兄だった人間を殴った。
珍しく唖然と目を開いた大好きな人の腕を掴み、いつの間に降り出したのか叩き付ける様なスコールの中を走る。




「カスミ、カスミ!」

何処まで走っただろう。
気付けば惣菜屋の前を通り過ぎ、花屋の道ではなく見知らぬ公園の前だった。

「落ち着け、追っ手は居ない」

びしょ濡れの顔を拭いながら至極真面目な顔で言う人に、笑い掛けようとして失敗した。


「あっちに屋根がある休憩所があったと思う。バッグの中にタオル入ってるから、行こうか」

こくりと頷けば、自分のものより少しだけ小さい、けれど立派な男の手に導かれる。
他の人間なら吐き気がするのに、やはり彼だけは平気だった。初めて出会った日から、彼だけは違った。


「びしょ濡れになっちまったな。カスミ、下は仕方ないとして、上は脱いだ方が良い。風邪引く」

年下の、それもまだ高校生。
でも彼なら本当に飼い主でも良いのに。彼のペットになれるなら他に何も望まないのに。



叫びたくて叫びたくて、喉が悲鳴を上げている。けれど実の母親にすら性的な目で見られていた自分は、どうしようもなく『人間』なのだ。



大好きがいつからか愛してるに変化した。だから夜な夜なベッドから抜け出して、眠っている人に気付かれないよう細心の注意を払いながら処理しなくてはならない。
抱き締められて眠る幸せが、いつからか蛇の生殺しに変わって、欲ばかり増えていく。



「カスミ、さっきのは本当か?」

濡れた頭をタオルで拭ってくれる人がぽつりと呟いた。それはまるでただの事後確認とばかりに何の感情も宿さない声で、今すぐ消えてなくなりたくなってしまう。

「帰るのか、カスミ」

帰って欲しいの、と。
気紛れで拾っただけで飽きたから要らなくなったの、と。

沢山の言葉を飲み込めば、ぱちん、と頬が痛みを受けた。



「喋らなければ伝わらない時もあるぞ、お前は犬じゃないんだから」


なら、言っても良いの?
なら、言っても怒らないの?
ねぇ、俺のものになってよ。
ねぇ、全身にキスさせてよ。
俺のものだって証を刻み込んで、体の深い所まで繋がってずっと一緒に居てよ。

俺以外に誰も見ないで。俺と二人っきりで、ずっと一緒に居よう。
大好きなコロッケも柔道のDVDも皆、買ってあげるから。欲しがるもの全部買ってあげるから。




「カスミ」


ほんものの、犬になりたい。


「…ふぅ。待ってろ、ジュース買ってきてやる」

呆れた様な息を吐いた人が立ち上がり、雨の中駆け出していく。
置いていかないでと伸ばした腕は力無く落ちて、ああ、もう、







「……………犬になりてぇ。」
「何だ、そんな声してんのか」
「は?」

駆け出していった筈の人が目の前で座り込み、覗き込んできた。

「何、で」
「財布、忘れて取りに来た」
「………抜けてるな」
「まぁな」

そう言えば今日は日曜日なのに、校門の閉まっている学校へ向かった飼い主は制服姿だ。
毎日が幸せ過ぎて、散歩に誘われる日が日曜日だと言う以外知らなかったから。



「なぁ、…何で俺を拾ったんだ」
「俺は、道に人が倒れてたら一応助けてみる人間だ」
「お人好し…」
「まぁな」
「餌喰わせて散歩に連れてって、…満足したか?もう俺は用無しじゃねぇか」

伸びてきた節張った手が、まだ乾かない髪をわしわし撫でる。
目元だけで笑う大好きな顔が、



「だけど、知らない男と同じ布団で寝る様な趣味はないぞ。然も俺よりデカイ男なんて論外だ」

期待させる様な台詞を囁いて、惑わせた。

「初めは声を聞いてみたかった。
  お前、体温低いから抱いて寝たら気持ちが良かった。
  名前、付けたら情が湧くに決まってる」

くしゃり、と。
崩れた無表情な顔が、愛しくて。



「好きだ」

抱き締めたら拒絶されるかも知れない、なんて。考える余裕もなかった。












「あいしてる」

















「おう、今帰りかい?」
「はい、今日は卒業式だったから」
「そうだったなぁ。よしっ、コロッケ奢りだ!大学生になる坊やに餞別だぁな、たんと食ってくれや!」
「有難うございます」

柔道部の後輩から大量に貰った花束と紙袋一杯のコロッケを抱え、彼は高校最後の通学路をいつもよりゆったり歩いた。



「この道、カスミと良く歩いたな」

図体ばかり大きい綺麗な顔をした犬を、彼は夏休みの始めに拾った。
今にも噛み付きそうな目をした犬には、もう半年近く会っていない。





『今週のヒットチャート、シングル第一位は…』


電気屋の店先に飾られた最新式液晶テレビから近頃聞き慣れた歌声が響いてきた。
映し出された秀麗な男の顔に女子高生が黄色い悲鳴を上げ、商店街の人々が息子を見る様な目をする。




最後の曲がり角を曲がれば、桜がひらひら舞っていた。
けれど彼には決して立派とは言えない家の門前を埋め尽くす白しか見えてはいない。

桜吹雪も百万本の薔薇も適わない白い草の絨毯の中にそれは佇んでいた。




「よう」
「うちの前で花屋を開くつもりか」
「遅ぇし然も第二ボタンねぇし、開口一番それか」
「待て、まだ動くな。今写メ撮るから」
「はぁ?」
「今日のワンコに投稿する。うちの愛犬カスミ、IN霞草」

何だそれ、と男らしく笑う恋人の腕が伸びてくるのを、彼は珍しく満面の笑みを浮かべながら待った。








彼には可愛い愛犬がいる。
種族はニンゲン、芸能人で大分俺様な性格をした美しい犬だ。


「第二ボタンどころかボタン一つも残ってねぇ。ネクタイすら盗まれやがって」
「そんなに価値があるのか?」
「このお子様ランチが。…さて、じゃあ昼飯ならぬセカンドヴァージンと行くか」
「待て、借りたアパートに荷物を運び込むんだ。今日は1日引っ越しが、」
「ああ、それなら俺のマンションに運ばせた。気にすんな」
「はい?」
「お前が借りたアパートは解約したし、大学の近くに引っ越したし。俺も新居に行くのは初めてだ。
  事務所移籍してからこっち、休む暇がなかったからな」
「カスミ、…じゃなくて」
「カスミで良い。だから芸名もカスミにしたろ。近い内にマジで本名も変えてやる…」
「考え直せ、お前にカスミじゃ可愛過ぎる」
「良いじゃねぇか、ネームプレートに俺ら二人の名前書いても夫婦だと思うだろ」
「嫁なら嫁らしく俺に抱かれてくれ」
「冗談だろ、ご主人様。」


彼はある夏の日、犬を拾った。
そしてずっと、彼はひんやりした犬から情熱的に愛されながら、まぁ良いかとお気楽な同棲生活を満喫する事になる。








ああ、イヌと二人、何て素敵な毎日。

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*めいん#
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