貧弱な黒猫




 30分なんて時間は今の俺にとっては一瞬より短く感じる。未だソファーに座りながら固まる俺に三水はスーツケースからバーテンダーの制服を出し俺に投げつけてきた。

「さっさとそれに着替えろ、そしてその鬱陶しい前髪をどうにかしろ」

 そう言い終わると表に出ていく三水。俺は辿々しく制服を手に取りそれを着るためスーツを脱ぎ始める。着替えながらも頭の中は残りの時間の事と彼女の事を考えるだけで精一杯。一通り着替え終わり三水のいるカウンターへ足を運んだ。
 彼女に会えることが嬉しい筈なのにどうも足が重い。
 きっとあの車の中から見た一瞬の光景でそれだけ彼女に惹かれたのだと改めて思う。そして今までの人生経験で一度も異性(母親はある)と話した記憶がない事が一番大きなプレッシャーになっている。
 深呼吸をひとつしてからカウンターへの扉を開けた。


「…なんやぼんやないの。夜遅ぉにはばかりさんどす」


 凛とした透き通る声に俺の思考は固まった。
 カウンター席に一人、そして今その隣の席に着こうとしている人物と目がばっちりと合ってしまった。
 初めて見た切れ長の目は綺麗な真紅の瞳で、ゆっくりと瞼を綴じてまたゆっくりと開く様は何物にも言い表せないほど美しい。
 扉を開けたままの体制で暫く惚けているとカウンター内で色々と準備をしている三水に又もや足を蹴られはっとした。
 三水の顔を見ると満面の営業スマイルで「その鬱陶しい前髪をどうにかしろと言ったよな?」と暗に語っていた。
 その無言の怒りに此方も小さく首を横に降り「髪留め持ってないから無理」と訴えた。
 すると三水は蟀谷を僅かに引き攣らせると軽く溜め息を吐き作業を続行し始める。
 俺は何をすれば良いかと三水に小声で聞いているとカウンター席からやたらと明るい女性の声が自分に発せられそちらに向いた。

「あんたかいらし顔やのに…その前髪上げよしな、うちのカチューシャ貸したるさかい。あ、うちさちゑ言うねん。あんじょうよろしゅうに」
「…あ、ありがとう、ござい…ます」

 そう言って差し出されたカチューシャをおずおずと手にとり、渡してくれたさちゑさんを見る。
 その人は垂れ目の優しそうな顔をしていて藤色の着物がよく似合っていた。
 カチューシャなど使ったことなんてない俺は、なんとか着けてみるも前髪が垂れてきたり逆に位置が安定せずにカチューシャがずれてきたりして当たり前のように着けるのに手間取っていた。

「さ、三水」

 助けてくれと隣を見ると、三水は容器に氷を入れて長いスプーンの様なもの(バースプーン)で氷を混ぜているところだった。

「お客様のカクテルを台無しにする度胸があるなら…」

 暗に邪魔をするなと。わかりました。

「…すみません、これ…!!?」

 溜め息を一つ吐き出し、持っていても仕方がないカチューシャをさちゑさんに返そうとすると持ち主ではない人がソレを取り上げてしまった。


「…そない不器用な男はんやったら、慕われやしまへんえ?」


 カチューシャの外側を中指で撫でると、微かに笑みを作る紅の瞳と唇に目眩がしたのは気のせいではないと思う。

「ああ!!桜ちゃんやったら手ぇ器用やさかいうまいこと着けてくれはるわ、ちょっとカウンターから出て来ぃ」

 さちゑさんに手招きされ三水の方に視線を向けると顎で行けと指示された、俺はかなり三水に嫌われていると熟思う。
 何気にCHU-RINに謝りたい気分だ。





 さちゑさんの隣に彼女がいてその隣、彼女と向かい合わせに俺がいる。さちゑさんはカウンター内の三水と楽しそうに雑談を交わしていた。
 はっきり言って三水の話術が羨ましいと感じている、三水はいつからバーテンダーをしているかは分からないがこれも営業のうちだからこそあれだけ言葉巧みにさちゑさんを楽しませているのだろう。

「…………」
「…………」

 逆にこちらは空気が重たい。彼女の後ろでは楽しそうな光景が広がっているためか尚更そう感じた。
 未だに彼女の手の内で弄ばれているカチューシャ。
 俺はというと、健気に足を確りと閉じ両膝の上に軽く握られた拳を乗せ肩を縮めて彼女の優雅に組まれた足元を見ているだけ。

「あんさん、口あらへんのどすか?」
「……」

 彼女が俺に向けて何度か声を掛けてくれるも、俺はその声に答えられずただ虚しく首を縦か横に振るだけ。
 なんだろう、まるで悪さをして飼い主に怒られている犬の気分だ。犬、俺は犬か。

 暫くすると彼女の方から溜め息が聞こえ、肩を震わした。

「ほんに…。ほら、ねき寄っとくりやす。そないなとこおっても手ぇ届かへん」

 彼女の手が俺の腕を掴んで軽く引き寄せると、自然に椅子から尻が浮き中腰の姿勢で彼女に近づく俺。
 彼女から見たらさぞかし貧弱な男なんだろうな俺は。
 甘酸っぱい香水が鼻腔を擽って何とも言えない感覚が頭を支配し始めた。


 彼女の指が俺の髪に触れたその瞬間俺の頭の中は真っ白になった。




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