=第一の寵姫(1)= この世に生まれ落ちた時に名づけられた名前など、とうに忘れてしまった。 いいえ、わたくしの世界など―…王、貴方様のお傍以外にはじめから無かったのです。 "**" それが此処、ハレムでのわたくしの呼び名。 現王ロー様が名づけて下さった、大切な大切なわたくしの宝物。その名に相応しい、気高く優美な姫になれるように。 ただそれだけを思い、わたくしは今日もまたこの毒々しくも美しい花々が咲き誇る匣庭で、貴方様に恋い焦がれるのです。 この堅い蕾を押し開いて濃艶に花開かせた、たった一人の御方。 これまでもこれからも、この命果てる時まで…いいえ、来世もきっと。わたくしの身も心もすべて差し出すのは―、 「ロー様、貴方様御一人だけ…」 そっと閉じた瞼の裏。色鮮やかに浮かぶのは、幼き頃の王とはじめて宮殿で出逢った日のこと。 国内有数の貴族たちが招かれた宴…そんな中、大人たちの間で物怖じせずに凛と立つ、気品ある佇まい。選ばれた者だけが纏うことを許される、至高の輝き。 そう、一目見た瞬間わたくしの小さな躰に雷が走ったのでございます。 天蓋付きのベッドでいつもばあやがお話してくれた凛々しく勇敢な王子さまの物語。王子は姫を愛し、姫の為に戦う。 憧れだった…そんな風にわたくしを守って下さる王子さまが現れることを、子供ながらに夢見ていた。 あの日からわたくしのすべては、ただただ王の為に。礼儀作法をはじめとして歌や踊り、詩…ありとあらゆる知識と教養を身につけるべく、努力を惜しまなかった。もちろん王に見初めてもらえるよう、頭の先から爪の先まで日々磨くことも忘れずに。 そして念願叶い、即位した王のハレムへ入れたのが、今から約五年前のこと。あの日のことは今でも忘れない。 "**"として此処で生き、王のお傍を決して離れないと誓ったあの日を―… ***** 部屋を満たすのはムスクの香り。そんな中、侍女からの丹念なオイルマッサージを受けて艶々と輝く肢体を投げ出しているのは、現王ローの寵姫**だ。 互いの顔や名が一致せぬほど数多くの女たちが暮らすこのハレムで、王からの寵愛を得る者は決して多くない。 凛々しくも美しい王は大層気紛れで、多少容姿が他人よりも優れているだとか、教養や芸事に他の者より秀でているからといって、寵を得られるとは限らないのだ。すべては王の御心次第、王のみぞ知る判断基準があるのだろう。 そんな選ばれし"寵姫"たちの中でも、**はこのハレムが出来た当初より王に仕えている言わば古株であり、王のお気に入りだ。しかしながら喜ばしいはずのその事実も、本当の意味で彼女の心を満たすことはない。 王と視線が交わるたび、言葉をかけられるたび、そして深く躰を繋げるたび、感じる喜びのすぐ後で**を襲うのは――絶対的な虚しさだった。 足りないものはわかっている。だがそれを埋める為の術を、彼女は未だ掴みあぐねていた。ただ出来ることといえば、こうして今日もまたじっくりと時間を費やし、己の躰に磨きをかけることだけ。 ――コンコン、 静かな時の流れる空間に扉を叩く音が響き、衝立の向こうへ姿を消した侍女ベロニカ。次に**の前へと戻ってきた彼女が携えていたのは、待ち望んでいた報せだった。 今夜は満月。期待通り王から声がかかったことへ満足の笑みを深めるとともに、**は人知れず安堵の溜息を零す。 まだ王は飽きることなくわたくしをお傍に置いて下さるのだわ、と。 王の興味が途絶えてしまえば、それまで。寵姫といえど何百といる女たちの中、いつその座を追われないとも限らない。この絢爛豪華な匣庭は、芳しい香りが漂うだけの美しい花園ではないのだから。 大広間で顔をあわすたび、にこやかに微笑みながらも互いに値踏みするように、絡み合う冷ややかな視線。王からの寵愛を得るためなら、女たちは鬼にも蛇にもなる。 だからこそ**は頭から呑み込まれぬよう、美しき毛並に隠した爪を研ぐことを怠りはしなかった。 |