黒く棚引く雲の切れ間から、星々と満月が時折顔を覗かせる。海はこんなに凪いでいるのに空の上は風が強いようで、雲はすぐに千切れて解け、消えていく。私は目を閉じ、大きく息を吸い込んだ。鼻を擽るのは慣れた潮の匂い。そこに葉巻の無粋な煙が混じらなくなってどれくらい経つだろう。瞼の裏に蘇る顰めっ面が懐かしくて、思わず微笑んでしまった。

「眠れないのか」

振り返ると、そこにはこの船の長がいる。思い浮かべていた人間とはマスクの甘さも声の甘さも格段に違う。薄着の私を見て、彼は顔をしかめる。

「いくら君が丈夫でも、流石に朝夕の海風は身体に堪えるぞ」
「その言葉、そっくりそのままお返しするわ、ドレーク」

ドレークは自分のマントを私の肩へ掛け、隣に立った。仕方が無いので、私はマントを胸元で手繰り寄せて顔を上げた。何かを言おうとして言いあぐねているような、言うまいと我慢しているような、なんとも言えない顔をしている。夜空を見上げるのもドレークを見上げるのも、同じくらい首が疲れる。

「何もお小言を言いに来たわけではないんでしょう」
「ああ……それはまあ、そうなんだが」
「なら、はっきりとどうぞ」
「……はっきりと、言っていいものなのだろうか?」

ドレークが私の手を握った。

「name、君を苦しめているものが何のか、見当のつかないおれではない」
「ええ、そうね」
「此処のところ碌に眠れていないのは知っている。……いや。此処のところどころか、此処に来てから君は……」
「……」
「後悔してるのか、name」

否応なしに向き合った私たちの間を月明かりと潮風が抜けていく。

ドレークは背が高い。馬鹿と煙は高いところが好きだと言うが、私の知っている馬鹿な煙はさほど高いところに興味がなかったように思う。高さは彼にとって、美しさへ到達するただの手段だった。ドレークは、どうなのだろう。高さを捨て、愚直であることを選び、美しいものを探している。二人は同じようで、とても似ているようで、けれど明らかに違う。私の目にはそのどちらも正しいように見えて、そのどちらも愚かであるように見えた。

「選択に対して後悔があるわけではないわ」

私はどちらの道でなら生き残れるだろう。

「けれど」

そう考えて、こちらを選んだ。高さを、彼と同じ岸辺に立つ夢を捨てた。それは間違った選択ではなかったろうと思う。どちらを選んだって間違ってなどいなかったのだろうと思う。けれど。

「今頃気づいてしまったから」

それが正しいかどうかはわからない。愚かであることには違いない。もっと前に気づいておくべきだった。もしくは永遠に気づかないべきだった。ドレークが強く手を握った。かわいそうなくらい深く奥歯を噛み締めている。私は微笑みかけて、涙を押し殺して、ぼんやり雲のかかった満月を見上げた。

「彼のこと好きだったんだ、って」

高みへ上り詰めてく彼に、私はついていけなくて、彼は私に「来るな」と言って、私は彼と道を違えた。彼の煙はいつだって名残惜しそうに、私にまとわりついていたと言うのに。ずっと私の身を案じていたのだと、傍に寄り添っていたのだと、私は気付こうとせず、優しい手を延べられて階段を下りた。彼は傷ついているだろうか。怒っているだろうか。知る術はもうない。次に知るのはきっと、私が死ぬ時になるのだろう。

ドレークが深く息を吐いた。彼が離そうとした手を私は離さなかった。少し驚いたような顔をしてから彼は、何時もの甘さで微笑んだ。

「おれでは駄目だということがよく分かったよ。完敗だ」
「ドレークは良い人ね」
「やれやれ。聞き飽きたよ、その文句は」

優しく振りほどかれた指。ドレークはマントを私に貸したまま背を向けた。

「食糧にまだ余裕があるから、キッチンでホットミルクでも作るといい。今度眠れなくても、風邪を引くからもう甲板には出るな。おれを起こせばいい。話し相手くらいにはなる。それと……おやすみ、name」
「ドレーク」

去っていく背中を呼び止める。

「完敗でもないのよ」
「……?」
「ただ、もう少し屈んでくれないと不意打ちのキスもできないでしょう?」
「な……!」

ふたたび指を絡ませてグイと彼の身体を引けば、巨体は簡単にバランスを崩す。頬を掠める程度に口づけると、するりと隣をすり抜けて船室へ足を向けた。

「ありがとう。おやすみなさい、ドレーク」

後ろで船長はどんな顔をしているのだろう。

手を離した。背を向けた。私は裏切り者だ。怒りを向けられたって、同じくらい傷つけられたって、文句は言えない。言うつもりもない。けれど同じものを目指すのであれば、そこへ到る道は幾つあってもおかしくはない。私と彼が違う道を選んだというだけで、到達するそこは同じなのだろう。いつかどこかで彼と出会うことがあれば、その時は胸を張って彼に誇れる自分でありたいと思う。彼は認めてくれるだろう。たとえ許しはしなくても。

「……ありがと、スモーカー」

その時がくるまで、私はもう少し、無粋な煙の混じらない、広い世界を見ていたいのだ。


 

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