カレンダーを見ては溜息をつく。大きく丸を付けたその日が今日であることを認めたくなくて、何度も何度もそれを見返している。こんな状態で仕事が手につくはずもなく、それなのにどんどん運ばれてくる書類のせいでデスクは埋まっていく。なんという体たらく。怠惰。もう一度溜息をついて、このままではいけないとペンを手に取るが、紙へ滑らせても文字を紡がないそれを確認すれば、なんと逆さまに持っていた。

「どうしたんですか?nameさんらしくないですね」

通りすがりに部下が声を掛けてくれる。力なく笑みを返せば本当に心配されて、風邪?熱は?腹痛は?と的外れな問診をされる始末。取り敢えず此処は自分がなんとかしますから休んでください、と言って、彼は私の代わりにペンを執った。優しい部下を持って私は幸せだと思う。

しかし、そうされることでいよいよ私は居た堪れなくなる。

執務室を追い出された私は、取り敢えず形だけでも医務室へ向かっておこうかと思い直して長い廊下を歩く。海軍本部は何処も彼処も、一ヶ月前のそれには及ばないまでも、やはり色めき立っている。その空気が今の私には重くてつらくて、本当に眩暈を感じるような気がしてきた。一応額に手を当てて熱を測ってはみるが、それはやはり気のせいだった。

「……ホワイトデーですって」

ホワイトデー。バレンタインデーに女子から贈られた気持ちが、今度は男子から返ってくる日である。いや、そちらは正直なところ私にとってはどうでもいい。ここ一ヶ月ほど私を悩ませている問題は、この日に冠されたその色の名の、最も似合う私の先輩のことなのだ。

「また、ややこしい日に生まれてくださったわね」

呟いて、コートのポケットの小さな膨らみを指先でなぞってみる。ヒナ先輩にせっつかれてバレンタインデーに戯れ半分にチョコレートを渡してしまったせいで、この日を祝いづらくなってしまった。まあ、あのスモーカーさんのことだ、少し仲が良いだけの後輩の私の伝えてもいない気持ちを察知して見合うような何かしらを返してくることを期待しているわけではないのだが、彼とて、ホワイトデーと呼ばれるこの日のちょっとしたお祭り騒ぎがどういったものかを、知らないほど色気のないわけでもない。何だかんだで人に気を遣うことのできる人間でもあるので、バレンタインとこの日との両方に同じ人間から物を渡されることに、その他意には気付かなかったとしても、もしかしたら遠慮するかもしれない。

それも、渡そうとする物が物だ。彼の愛用していたシガーケースが海に落ちて今は安物で間に合わせているのを知ったのが一週間前。普段は見ない高級店の前を、ちょうど、偶然通った際に、彼が持っていれば様になるであろうシガーケースを見つけてしまったのが三日前。本当は例年通りに飲みにでも、と軽い気持ちでいたのだが、今まで全く触れても来なかったバレンタインデーの戯れが、私の心を揺さぶった。

一ヶ月前、私が無造作に渡したチョコレートを、他の女性からは受け取らなかったそれを、彼は私の顔をまじまじと眺めて、顔を顰めながらも、開けて、食べて、甘さに顔をまたしかめていた。

その時何も言われなかったし、私も何も言わなかった。ただ、その歪んだ顔を見た時に、私はずっと封印していた、士官学校時代から抱いていた気持ちが、まだ私の中で叫び続けているのを自覚して、泣きたくなった。もしかしたら、もしかするかも。なんて、らしくないことを思ってしまったのだ。


私は廊下をずんずん歩きながら、密かに唇を結んだ。今朝まで悩み続けた。これを本当に渡すべきか。渡せば、伝えずにはいられない。好きだと。そうすれば、どちらに転んだって、もう“少し仲の良い後輩”ではいられない。それでも、決めなければいけなかった。だから、決めた。今日、彼に自分から会いに行くことはない。彼は今日海に出ているはずだ。帰港は、もしかしたら日付を跨ぐかもしれない。だがもし、万が一偶然会うことがあったなら、その時は潔く、私はこれを渡さなければならない。



今日、今日彼に、偶然会いさえしなければ。
私たちはまだ、先輩と後輩で居られ続ける。



そう唱えながら医務室の扉を開けた時、あまりに悪戯の過ぎる運命のせいで、私はしばし立ち尽くしてしまった。容赦無く覚えのある匂いが私を取り囲んで、遅れて彼そのもののような真白い靄がするりと包んでくる。煙が晴れた先にあったのは、焦るような医師の目と、まるで私の葛藤を知っているかのように、そこからこちらをじっと見つめている先輩の姿だった。

「おい、何突っ立ってやがる」

低い、心地の良い声が私を導くので、ぎこちなく一歩を踏み出した。

「困ったな……しかし、では、本当に准将に任せて良いんですね?」
「あァ」
「じゃ、頼みますよ。……ああname中佐、悪いんですが急患が入ったので、少し此処で待っていてもらえますか?准将がおられるらしいのでもしもの時はご安心を」

わんわんと鳴り出した耳鳴りの奥で何かとんでもないことを軍医が口にした気がしたが、私は先輩の鋭い瞳に抗うことができないままに頷くことしかできなかった。軍医が私の後ろを通って出て行くと、部屋には私と彼だけになる。

沈黙。

「お、おかえりなさい、先輩……あはは」
「体調」
「えっ!」
「悪いんだって?」
「あっ、ええ、はい、いや、悪くないんですけど、ちょっとぼーっとしちゃって、部下が心配するので、取り敢えず……というか、なんで知って」
「テメエの部屋に電話したら、そう言われた」

心なし、先輩の表情が険しくなった気がする。彼の表情の変化はとても分かりにくい。

促され、仕方なく私はベッドへ腰掛ける。その横の丸椅子へ腰を下ろした先輩との距離が存外近くて、けれど身じろいで離すのも今更わざとらしくて、仕方なく私は俯いた。残念なことに、パンツの膝小僧にインクの染みがついている。彼は、座って小さくなっている私をちらと見やってため息をつき、白い枕を手のひらで叩いた。

「横になっとけ」
「だ、大丈夫です、本当に何ともないんです」
「そうは見えねえ。自分の顔見てみろ、すげェ顔色してんぞ」
「えっ?……わ、わあ」

指差された壁掛けの鏡は、如実に私の心を写していた。耳まで真っ赤に染まった顔を手のひらで覆ってみると、成程上がった体温を自覚する。自覚してしまうとそれが再び羞恥を呼んで、顔はさらに熱くなったように感じた。

「本当に……すごい顔色ですね、私」
「だから言ったろ」

もう一度、呆れたように煙を吐いて彼は枕を叩いた。私は少し考えたが、やはり横になるなんてできなかった。横になってしまえば、仮眠ですらないとはいえ、普段よりも無防備な姿を先輩へ晒すことになる。せっかく多少の覚悟を抱いて今日へ来たのだ、これ以上無様な姿を見せるのはいかがなものか。首を横に振った私に彼の顔つきは、さすがに傍目に見てもわかるくらいに厳しくなっていく。何ら疚しいことはないのだが、その眼光にどうしても縮こまってしまう。

「……さっきからなんて顔してやがんだ」

苦虫を噛み潰したような声に顔をあげれば、同じく苦虫を噛み潰したような顔つきの先輩が私を眺めていた。

「あー、俺が居るから休めねェのか」
「あ、いえ、そんなことは……」
「……ま、何だ。出てってやるから、ポケットの中のモンをさっさと寄越しやがれ」
「え……!」

喉元で息が詰まって苦しくなる。なんで、も、どうして、も、この数分のうちに自問しすぎている。私は手の震えを隠すこともできず、ポケットの中の包みの輪郭をなぞった。指先に触れる心地の良い高質紙は、きっとこの包みに込められた想いをありありと代弁してしまっている。こんな高価なものを選んでしまったことを半ば後悔しながら、私はそれを取り出した。

「……」
「その、お誕生日、でしょう」
「……」
「いつも、お世話になって、いるので」

受け取った彼は、控えめにかけられたリボンを眺めている。

今ここで、言うしかないだろう、と思った。コートを握りしめる。漠然とした正義しか持っていなかった私が、先輩に出会って、彼を追いかけて、中佐にまで昇りつめた。先輩の正義が眩しくて、輝かしくて、憧れで。それはいつしか形を変えていて、けれどどうしても伝えられなかった。今、私は、それを、伝えようとしている。伝えたら、後には戻れない。泣きたくなる。今、今、私が此処で言うのをやめたなら。私たちはまだ、先輩と後輩で居られ続けるのだろうか。私はまだ、スモーカーさんの背中を追うことを、許してもらえるだろうか。

それでも、言わなくてはならない。

「……あの、先輩」
「……」
「わたし……わたし、ずっと、前から」

視線がかちあった時。



「スモーカー准将、name中佐、お待たせしました。いやあすみません、急患って程でもなかったんですが、思いがけず処置に手間取ってしまって……」

それは先程よりも明るい軍医の声だった。幸いカーテンのお陰で私達の距離の近さは彼からは見えていないようだった。努めて平生通りの声ではい、と一つ返事をして、先輩を見ないようにして立ち上がった。

「……今日は呑みましょう。また夜に、たしぎやヒナ先輩と誘いに行きます」

これで良かったのだと思う。きっと、そういう星のめぐりなのだ。もう伝えることはない。これからもずっと、私達は仲の良い先輩と後輩だ。沢山の安堵と、少しの失望と、得も言われぬ複雑な感情の味を舌の上で転がしながら、私は一度深呼吸をして、彼の横をすり抜けようとした。

「待て」

先輩がすれ違う私の腕を掴む。


それは柔らかく私の心を掠め攫って行った。ゼロ距離に近づいた彼の瞳が、それを見開いた私とは対照的に、布の隙間から射し込む陽の光に細められていて、それでも煌めいていて、綺麗だと思った。いつの間にか咥えられていなかった葉巻の匂いが、それでも彼自身からふわりと香って、抱きかかえられた私を包んだ。痺れるように。唇からじんわりと伝わってくる慣れない苦味が、私に事実を突きつけた。


「ドクター、さっさと診てやってくれ」

カーテンの向こうから、心なし軽快なスリッパの足音が迫ってくる。固まったままの私を余所に、先輩は顔色一つ変えていなかった。彼が再び葉巻を咥え直す。

「悪い、焦れちまった」
「あ、え、え」
「夜だったな、誰も誘うなよ」
「先輩、あ、あの、」
「こないだの礼もまだだしな。……name」

先輩が、音を上げそうな耳朶に唇を寄せた。

「分かるな?」

心臓が跳ね上がる。頷くとそれは離れていき、シャッとカーテンが勢い良く開かれた。視界が眩い白に包まれる。眩んだ眼を閉じる一瞬、彼の瞳が穏やかに細められているのを見た気がした。次に目を開けた時、もう先輩はそこにいなかった。

怪訝そうな軍医を余所に、空になったポケットを握りしめて、もう片方の指先で、私は唇へ触れた。まだそこがじんじんと熱く痺れている。じわりと涙が滲んだ。ぎゅ、と瞼で押し殺した。きっと夜には彼の手に馴染んでいるであろうシガーケースを思って、居ても立ってもいられなくてベッドへ座り込んだ。それはたった数分の出来事だったのに、彼の煙は私の髪をいつまでも抱きしめて離れなかった。それはたった数分の出来事だったのに、その煙は、香りは、光と温もりとやさしい喜びをともなって、私の心を、白く、柔く、満たしていった。


 

 

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