病棟は静まり返っていた。面会時間にはまだ余裕があるというのに、清潔な色と匂いの埋め尽くす廊下、そのリノリウムに俺は俺以外の何者の痕跡をも認められなかった。何の変哲もない筈の廊下は、目測以上に長く感じられる。目的の部屋までの一歩一歩が酷く重い。手にした花が歩むたび心なし萎れた気がしていたが、そんなものは気の所為に決まっていた。萎れているのは概ね俺の気持ちなのだろう。出来ることならば、現実を認めることから逃避したかった。


“name様”


綺麗な字で書かれた彼女の名前が現実を叩きつける。そういえば彼女はそんな名であったのだ。プレートを眺め、唇を引き締めた。病室の扉は男の俺にとっては重くもなんともない筈だが、情けなく躊躇った。いざ力を入れてしまえば、パステルカラーの引き戸は呆気なく開いてしまった。

彼女は横たわり、眠っているように見えた。俺が名を呼べば、平生の通りに目を覚まし、微笑むような心持ちがした。尤も、平常通りの人間が酸素マスクなどしている訳もなく、暫し茫然と佇んでいた俺を引き戻したのは、自発呼吸のできぬ彼女にマスクから供給される微かな酸素の音だった。

「name」

噛み締めながら名を呼ぶ。彼女が呼び掛けに応じることはない。

命を取り留めたことだけでも奇跡だった。船体は原型を留めていなかったのだから。医者はベストを尽くした。覚悟すら間に合わなかった自分を置き去りに悪夢のような時は目まぐるしく過ぎた。今もなお俺は悪夢の中にいる。こんな綺麗な横顔をしている彼女は?

「name」


分かっている。
医者はベストを尽くしたのだ。


花を取り落とした。その事にも気づかぬままに俺は、彼女の傍らに立った。頬の青白さに驚いた。俺に会う時、彼女はいつだって頬紅を欠かさない人間だった。俺は崩れ落ちた。膝をついて、彼女の掌を荒く握り、名を呼んだ。彼女は返事をしない。する筈もない。マスクに手を掛ける。彼女は悪夢から逃れられないでいる。焼き付いている。帰りたくないと駄々を捏ねた顔も、またねと電伝虫を切った声も。記憶し過ぎていた。マスクに掛けた手が震える。彼女を悪夢から救う術はもうこの一途しかないと考える自分とは裏腹に、一度救われた命なのだから彼女は生きたいに決まっていると考える自分もいる。与奪の権利など自分には無く、ましてや彼女から選択を託されたわけでもない、であるのに俺は今ただ俺のためだけに彼女を殺そうとしている。愛しているのに。愛しているから?違う。


俺には出来ない。


俺の名を呼んだ彼女の声や腕を絡めて楽しそうに微笑んだ顔を憶えている。どのような形であれ身勝手であれ、俺は彼女を喪いたくはない。マスクから手を離した。弱々しいながらも彼女の身体機能はまだ死を選んではいないのだから、それを彼女の選択とすべきだ。奇跡などは起こらなくていい。ただ彼女が自分で結末を選ぶ迄、俺は待たなくてはいけない。待たせて欲しい。奇跡などは起こらなくていい。俺たちは俺たちなりの明日を探していくべきだ。

俺は花を拾い直した。
本当はあの日、待ち合わせたレストランで渡すつもりだった。


「なァname、もしもお前の目が覚めたら、その日のうちに結婚してくれ」


覚悟がようやく間に合った。
陽が、彼女の頬の上に落ちた。
……違う。


俺は彼女の答えを知った。
嗚呼。


 

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