11、眠りの森の美女
舞台が入っている日は、ネズミの帰りが遅い。紫苑は本を片付けたり、ツキヨたちと遊んだりして彼を待つのが常だった。
今日は風が強いのか、階上の扉に飛んできた様々な物がぶつかる音がする。古びてはいるが強固なそれは、少しばかりの建て付けの悪さを持っていたが、ギシギシと軋んだ音を立てることは稀だった。お陰で寒い冬も、こうして安心して暖を取ることが出来る。
そろそろ帰る頃だろうか。この吹きさらしの中を歩いて戻るネズミの事を思い、紫苑はストーブから外しておいたスープをもう一度火にかけた。贅沢を言わないネズミだが、煮詰まりすぎては味が変わる。紫苑のスープを、ネズミは殊更に褒めてくれていた。
ほどなくして、ガチャリと扉の開く音が聞こえた。そして、ネズミが階段を下りるよりも早く、流れ込んだ寒気が中扉を揺らし、この地下室の主の到着を告げる。ノブが回転するのと同時に、紫苑は笑顔でネズミを労った。
「おかえり。スープ、ちょうど温まったよ」
「ただいま」
肩に巻いた超繊維布を口元まで引き上げていたネズミが、くぐもった声で答える。見慣れたジャケットの色も、まだ冷気を帯びているようだった。
「すぐに準備するね。今日のは結構うまく出来たんだ」
紫苑はかき回していたレードルを止め、脇に重ねていた食器へ手を伸ばそうとした。と、その瞬間、ふわりとネズミの腕に包まれた。ジャケットは脱いだのだろう。くすんだシャツから覗く白い指が紫苑の胸の前で交差している。
「ただいま」
ネズミは紫苑の髪に口元を寄せ、綺麗な声でもう一度囁いた。そうした触れ合いを積極的にはしてこないネズミの吐息が、指先が、甘く絡み付いてくる。紫苑は首をめぐらせた。
「どうしたの?」
「うん」
ネズミは潤んだ瞳を僅かに細めている。ふっと鼻先を掠める香りに、紫苑は目を見開いた。
「もしかして、お酒を飲んだんだね!」
ネズミの腕の中で体を反転させて向き合うと、紫苑はネズミを問いただした。
「どうして。君はまだ未成年だ!」
「そんなの、ここじゃ関係ない」
「そうかもしれないけど、酔ってるじゃないか」
「煩いな」
そう言いながらも、ネズミは腕を解く気配がない。むしろ、寄りかかってくる体は重みを増していた。紫苑は珍しく甘えてくるネズミを受け止めるため、彼の腰へ、そっと手を回した。シャツ越しに感じるネズミの体温に、なんとも形容しがたい痺れが紫苑の胸の置くでざわりと芽吹く。
「紫苑……、」
「なに?」
「あんたも、うちの匂いがするようになったんだな」
「え?」
「地下の空気と、本と、シャンプーの匂いがする」
安らかに瞼を閉じるネズミの頬に、睫毛の影が長く落ちている。雪よりも透明感を持った白い肌は、アルコールのせいか仄かに紅潮を残していた。
「落ち着く」
「ってネズミ、眠りかけてるだろ? 食事は?」
「ごめん。食べられそうにない。ごめん、」
「じゃぁ、ほら、ベッド!」
細い腰を引き寄せれば、ネズミは素直に歩を進める。長身を寝台へ横たえると、直ぐにすうすうと規則的な寝息が聞こえた。結わえられた髪を解いてやれば、さらりと枕へ広がっていく。作り物めいた美貌は、舞台のライトを浴びて眠る姫のようだった。紫苑はいつか観た芝居を真似て、ネズミの手の甲へキスをした。
「本当にしょうがないんだから」
合意の上ではないけれど、もうひとつくらいキスを貰ってもいいだろう。薄く開いた唇に、紫苑は自らのそれを重ねた。
「おやすみ。僕の相手は、また明日にでも宜しくね」
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