「今日、いなかったのは」


彼の心の内を支配する絶望の色が伝わってくるようだ。

いや、絶望しているのか、それともただ単に驚いているだけなのかは定かではない。

言えることはひとつだけ、あたし達は確かに"一線"を越えた。

あの川を越えたこの場所にいる。

互いの素顔も知り合った。

こんな"一線"を越えたかったわけではないと、あたしの心が涙を飲む。


「昼間は忙しくて」

「この夜襲の準備でか」

「まあ、そうとも言う」


黒鋼は刀を構えていた手をゆっくりと下ろし、あたしのほうを見据える。


「どうしたの」

「どうしたもくそもあるか」

「あたしは刺客よ。あんたの守るべき姫君を襲おうとしてる」

「分かってる」

「先に行かせたこの部下達はあんたが倒しちゃったみたいだからあとはあたしだけ」

「……るせぇ」

「ちゃんと構えて。いつまでもそうしてるとやりづらいわ」

「うるせぇ!」


物静かだけれど確かな怒りを含む声が、鼓膜をびりびりと震わせた。

それにつられて取り繕った笑みが剥がれ落ちそうになり、一瞬、俯く。


「怖いなぁ、黒鋼は」

「何でそんな平然としてられる」

「ん?」

「何でこの状況を受け入れられてんだって聞いてんだ!!」


駄目。

それ以上、そんな顔をあたしに見せないで。

平然としていられるわけがない、受け入れられるわけがない。

だけど領主様には逆らえないから、あたしは今ここにいる。

本当はこんなところにいたくないよ。

せっかくあんたと会えた夜。

あの川でだとしてもいいから、普通に会いたかった。


「どうしてお前が」

「黙ってたことはごめん。でも、こうなっちゃったからには仕方のないことよ」

「商人の娘ってのは嘘か」

「嘘も方便の内ってね。素性を晒したくなかったってのもあるけど、あたしが敵国の忍と知ったら、黒鋼、もうあの川に来なかっただろうから」


そう。

きっとあんたは、もう二度とあの川に来てはくれなかった。

でもあたしは会いたかったから。


「…」

「ね」


答えるべき質問には答えた。

屋根の上を強く吹いていた風もやむ。


「……行くぞ」

「うん」


刀を構えた黒鋼に従い、あたしも弓を張りつめた。

斬撃を放つと聞いていたから、それを遮るのに一本矢を射るが、いとも易くかわされてしまう。

それどころか。


「隙だらけだな、お前」


斬撃を放つわけでもなく猛進してきた黒鋼は、あたしが新しい矢を背から引き抜く隙に急接近してきては首に刀の切っ先を突きつけた。


「本当に忍者か」

「失礼な」

「逃げろよ」

「逃げない」


黒鋼の伸ばす刀の距離で互いの目を見つめ合う。

ギリ、と彼が歯を食い縛る様子が見てとれて、その直後、突如あたしへ伸びてきた手に首を掴まれ、屋根の瓦へ押し倒された。


「ッ」

「逃げねぇのかよ」

「逃げて、逃がしてくれる?」

「まさか」


振り上げられた刀の刃が月明かりにきらりと光る。

刹那の時、それが降ろされるのを目で捉え、次にやって来るであろう痛みに備えて目をつぶった。

だが、

ガシャッ

瓦が砕かれる音だけが耳をつんざく。


「………、」


恐る恐る目を開ければ、首のすぐ横に突き立てられた刀、あたしの上になり、あたしを見下ろす黒鋼。


「ど、どうしたの」

「いろ」

「は?」

「………ここにいろ」

「はい?」

「あっちには死んだことにして、ここにいろ」


初めて顔を合わせた夜。

一線を、越えられた。





――――――後日





「ねぇ、黒鋼」

「何だ」

「何であの時、あたしに"ここにいろ"って言ったの?」


しばしの沈黙。

答えを急かすように顔を覗くあたしの頭を押さえつけ、反対側を向かせる黒鋼。


「決まってんだろ」

「?」

「………いや、いい」

「ひどーい。言ってよー」

「寝ろ」







そうして寝転がる草の上。

今では同じ岸にいるのが当たり前。

陽が暮れる頃になれば肩を並べてお城へ帰る。

夜も一緒だ。

きっと、これからも。



(了)

 


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