3、保健室へ



保健室は遠い。
同じ棟内にあるとはいえ、階段をさがり、2階の廊下を体育館と反対に曲がり、さらにもう一つ階段を下がった先にある。
黙ってついて来ている今吉を時々振り返りながら、眼鏡をはずしたままの彼が転ばないように気をつけて手を引く。
彼は相当目が悪いらしい。
1年のときだっただろうか。
彼の眼鏡を男子がまわしながらかけていたことがあった。
そのメンバーの中には普段から眼鏡をかけている生徒もまぎれていたが、みんなくちぐちに「度がきつすぎる」と騒いでいた。
いきなりのことだったとはいえ、眼鏡を教室に忘れてくるなんてなんてまぬけなんだ。
大事ならしっかり握っておけ!
そんな風に思いながら最後の階段の踊り場についたところで振り返ると、今度は左手で目を掻こうとしているところだった。

「まっだめだって!」

左手を掴もうとした。
失敗だった。
そもそも彼の右腕を右手で掴んだ状態で移動をしていたのだ。
そのまま振り返り、左手で左腕を掴もうとするなんて。
腕がクロスしてしまい、うまくいくわけがない。
さらに前が見えていない今吉は名前が突然止まったことに気がつかず、当然そのまま進もうとし、振り返った彼女に衝突した。

転んだ。

踊り場で良かった。
どさっと言う音。
それから尻と腹に鈍い痛みを感じた。



尻餅をつくようにひっくり返った私の上に、今吉が覆いかぶさるように倒れ込んでいる。

「あたたた、なんやねんもーいったいわぁ」

覆いかぶさるように、とはいったものの、少女漫画のようなロマンのある状況ではない。
私はすでに踊り場についていた状態で後ろに転んだので大したことはないが、今吉はあと一段というところで落ちてしまったのだ。
当然重心は私の右腕にひっぱられ、左手でしか体重を支えることが出来ず、うまいこと着地が出来ていない。
私の腹部の上、少し隙間をあけたところで頭をぶんぶんとふって気を確かにしようとする彼の姿をみたら、とてもロマンチックな気分にはなれなかった。

「ごめんっ、大丈夫?!頭とか」

「こんなときまで人のことバカにするんか!ほんまきっついで!」

「違う!手とか、足は?大丈夫なの?」

「は?」

「夏に大会!あるんでしょ?こんなときに怪我なんてしたら」

ぞっ、と背中から頬にかけてなにか冷たいものが駆け抜けた。
そうだ、大会。
帰宅部の私には、高校最後の大会がどんなものであるか知らない。
でもそれがとても大切で、その為に頑張ってきたであろうことは目の前にいるかれの体つきを見ていればわかる。
余計な脂肪などついたことがないとでもいいそうな、普段服に隠れてあまり意識しない筋肉質の体がそれを物語っている。
握ったままの腕の骨が太く、しっかりとしている。
もし、大会に出られなかったら。
なんてことをしてしまったんだ。
まだ大会に出られないと決まったわけではない。
しかし、もし怪我をしていたら、練習の時間が減ってしまうことに変わりはない。
私が、自分のことしか考えていなかったせいだ。
周りに煽られて恥ずかしいとか、シャーペンで怪我したら私のせいになって面倒だとか、そんなのどうでもいいじゃないか。
なんでもっと気をつけられなかったんだ。
ギリッ、と奥歯が鳴る。

「うっ」

聞いたようなうめき声にはっと我に返る。

「どうしかし、ぁっ!?」

「なんやねんその面」

顔を上げた瞬間、今吉に眉間を叩かれた。
もしかしたらでこぴんをされたのかもしれない。
おそらく、先ほどのうめき声は私に顔を上げさせるための演技だ。

「つーか痛いねん。いきなり強く握りおって。そんなにわしのこと嫌いなんか?」

彼の落とした視線の先には、今吉の腕をしっかりと握る私の手があった。

「あ、ごめっ...」

急いで手を離すと、そこには少しだけ赤い跡が残っていて、すぅっと無くなっていった。
その光景をぼんやり見つめていると、もう一度眉間を叩かれた。
どうやらさっきもドアをノックするような手つきで、指の骨をあててきたらしい。
コン、という骨の音が頭に響いた。
今度は驚かなかった。

「なぁ、さっきも言ったやろ?なんやねんその顔」

「.....ごめん」

「まさか自分、私のせいでわしが怪我しとったら〜とか思ってるんか?」

「...現実問題、私のせいだし」

「......」

「......」

罪悪感で胸がいっぱいになっていく。
どうしよう、どうしよう。
また、奥歯が音を出し始めた。
その時、目の前が突然暗くなった。

「なにっ!?」

反射的に振り払うと、それが今吉の手だったことに気がつく。

「どんな感じやった?」

「え?」

「目ぇ塞がれてどんな感じやった?」

「...べつに、そんなこと」

「怖かったやろ」

私が口を挟んだ事なんておかまいなしに、そのまま彼は続けた。

「目ぇ見えないっちゅうんはな、むっちゃ怖いことやねん。人間は90%の感覚を視覚に頼ってるっていうやろ?だからな、目が見えない状態でなにかをするってのはすごく、不安なことなんやで」

「......」

「わしな、さっき教室に眼鏡忘れてきてしもうて、気がついたときにはもう歩き出しててめっちゃあせったわ」

「それは、私が無理矢理つれて来たから...」

「まぁまぁ、人の話は最後まで聞くもんやで?そんでな、すぐにお前に言って戻ってもらうことも考えたんやけど、簡単に言うと、その必要がかったから言わんかったん。意味わかるか?」

少し考える。
正確に言えば、なにが言いたいのか早くしゃべってほしいなぁと、適当な答えを探した。
正直、先ほど目を塞がれたのは一瞬の事で、とくに感想もなにももたなかったのだ。
しかし今吉はその続きの話をしたいらしいので、今は彼の意図にのかっておくことにする。

「...めんどくさかったから」

「あほか。名前〜ほんまに頭ええんかぁ?」

「......」

「おいおい、少しはいつも通り睨むとかしてぇな。簡単に言うとな、全然不安じゃなかったんや」

意味が分からない、と彼の顔を見ると、今吉は私の鎖骨あたり、空間を見つめながら笑って話していた。

「いつもなら眼鏡無しで移動するなんてありえへんし、だれかに手ぇ握ってもらったところで安心して歩けるってことはないんやけどなぁ」

不意に顔を上げると、また私の眉間をコツンとたたき、今度は目を合わせて言う。

「眼鏡なくてもええわって判断したのはわしやし、お前はなんも気にせんでええよ」

じわ、と、胸の辺りで何かが溶けるような感覚があった。
なんだ、これ。
唾を飲み込んで必死にこらえる。
なにか、熱いものが、頭まであがってきそうだった。


「ごめ、ん」

どうして私は目を合わせてあやまれないのだろう。
ええって言っとろうに、と、少しふざけ気味で言った今吉は、あやまるのはそれで最後な、と私の上から体を起こす。

「そんで名前」

ほっとして、腰が抜けてしまわないよう気をつけながら私もスカートをはらいながら立ち上がる。
タイツにもほこりがついて汚くなっていたので、念入りにはたいた。
下を向いている間に、どうかこの熱いものがおさまりますように。

「なに」

「手、貸してほしいんやけど」

「何ともないんでしょ?たしかに今回は私が悪かったわ…でも、あんまり調子に乗らないで」

「いや、まじで」

今吉が眉をハの字にして笑う。

「立てへん」

唖然。
熱いものなんてどっかで冷えて固まってしまったのだろう。
笑い事じゃねーよ。




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