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インターフォン。
もちろん電話に出る気配はなく、代わりに足音が扉へと近づいてくる。
ガチャリいう鍵の音。
扉が開き目が合ったかと思えば、グン、と腕をひかれた。
強制入室をさせられると、名前はすぐに鍵をかける。
「おはようさん。良くねむれたか?」
すっぴんにジャージ姿、無防備に見える彼女に思わず手を伸ばしかけたが、今にも舌うちをしそうなその顔を見てそっと手をしまった。
たしか実家の犬も不機嫌な時はこうやって嫌そうな顔を向けてきたものだ。
まぁしかし、彼女よりも犬の方が確実に自分に好意をあらわにしてきたのだが。
「もう少し素直になれへんもんかのぉ」
あえて口に出した頃には彼女は既に寝床へと足を運んでいた。
靴を脱ぎ、冷蔵庫と冷凍庫にそれぞれ水とアイスをしまう。
洗面台で手を洗う。
「名前〜うがいしたいんやけど」
「ん」
「勝手にコップ使ってええんか?」
「洗ってくれれば」
「りょーかいりょーかい」
他の男が聞いたらどんなにわがままな彼女だと思われることだろう。
自分は動きたくないという態度しか感じられない発言だが、これでも今吉と名前にとっては大きな進歩なのだ。
すこし誇らしいくらいである。
本来なら彼女が私用のコップを他人に使わせることはない。
鏡ごしに目が合った自分に笑いかければ、向こうもこちらに、やったな、と賞賛の笑みを送ってくる。
その目は、当たり前のように彼女のうがい用のコップをにぎる自分の姿を、まるで額縁に入った絵かなにかのように見つめていた。
この、部屋にあがったら手洗いうがいをする、という行動はあたりまえのようでそうではない。
一人暮らしになるとあんがいしない者は多いのだ。
そこはさておきうがいの話。
手で水をすくってでもできるうがいに、自分にはコップが必要だと言い続けて2ヶ月、やっと彼女がためらいなく私用のコップを使わせてくれるようになったのだ。
普通に会話し、普通に使わせてくれる。
ただそれだけのことを自分以外にさせない彼女を知っているからこその優越感だった。
手を拭いて六畳の部屋に足を踏み入れれば、さっそく彼女がベッドに座っている。
いつでも横になれる体制だ。
たいして興味もないくせに、テレビだけはついていなかった時がない。
天井から足下に伸びるこの部屋唯一の窓は網戸を残して開いていて、レースカーテンだけがきちんと閉められていた。
その近くで首を振る扇風機に合わせ、カーテンがわずかにゆれている。
「まだ寝るん?」
「なんで来たの?」
「冷房つけてないんやな」
「まだつける程じゃないから」
かみ合っていないようでかみ合ってる会話は付き合いが落ち着いてからいつものことだ。
お互いわざとやっているのだから仕方が無い。
夏用の柔い掛け布団を手探りで引き寄せ、まるめたのだろう。
なぞのふかふかした物体を抱える彼女の横に腰を下ろす。
「普通許可無く女の子のベットに腰はおろさないものなんだけど」
「ええやろ?わし彼氏やで」
「いやだよ汚い」
「ひど!」
肩にかかる髪を触ろうとしたらその数センチ手前ではたかれた。
こいつはわしを虫かなんかと勘違いしてるのではないだろうか。
傷つくわぁ、とおどけた演技をしても彼女はなにも気にならないといった風にテレビだけを見つめている。
どうせ何も見てないくせに。
いつもより少し強めに肩をつかんだ。
「なに?」
あ、動揺した。
普通を装う名前が一瞬目を見開いたのを見逃さなかった。
こっちをむく目はまっすぐ今吉の目を見ているが、固い表情からじわじわと溢れる緊張が伝わってくる。
きっと今吉が部屋に足を踏み入れた時、あるいは「学校終わったら部屋に行く」と届いたラインを見た時から、彼女は緊張していたのだろう。
恥じらいのある女の姿というのはどんな男にとっても愛おしく、同時にそそられるものだ。
素直さにかける彼女だからこそ、こういうものは長続きすることだろう。
文字通りムラムラする気持ちをなるべくおさえながら顔を近づける。
「ま、待って!」
静止に入った名前の手が今吉の胸をおさえる。
いつものことだが、これにはこちらが気張ってしまう。
心臓のすぐ近くに手を当てられているのだ。
いつも余裕を装ってすかしているこちらからしたら、これほどやっかいなことはない。
動悸に気がつかれないよう注意しながら、なんだと聞き返す。
「なにって…なにするの」
ただのキスです。
そうは答えたくなくなる問に思わず口角があがってしまう。
「なんやろなぁ?」
別になにもする気がなかった自分の言葉に、おびえるように固くなる体と、それとは裏腹に高揚する彼女の顔に、またムラムラと胃もたれをおこしそうな感情が脳を、全身を満たしていくのを感じた。
この、頭が麻痺するような感覚は彼女にしか感じたことがない。
よくこういったシチュエーションのかかれているエロ本には、女が「優しくして」といったり、男が「手加減できないかも」と言ったりするものだが、本当に無茶なやりとりだ。
手加減もなにも、こっちとら普段から気をつけているんだ。
傷つけないように、嫌われないように、細心の注意で相手の反応を見て、探って、その上で接しているのだ。
築いてきたものをここで崩すわけにはいかない。
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