大した期待などされていないからこそ、自由に振る舞うことができる。それを普段はありがたく思っていたのだが、今日はなんだか寂しかった。
お母さん。あなたの娘はいま、知らないひとと一夜を共にしようとしています。女だけど。
「そこのグレーの壁のアパートよ」
すぐ目の前、彼女の黒髪が歩く度に上下する。
彼女の住むアパートは、駅裏を15分ほど行ったところにあった。
特別古くも新しくもない、いたって普通の印象を受ける外装。ひとまず胸を撫で下ろす。
2階に上がってすぐの角部屋が彼女の部屋だった。
「狭い部屋だけど」
鍵を開け手探りで玄関の明かりをつけて、先に入った彼女が招き入れてくれる。
入ってしまったら今度こそ帰れないぞ、と自分自身に問いかけつつも、結局ええいと勢いをつけてあたしは中に踏み入れた。今更な迷いだ、とすっかり踏ん切りがついてしまっていた。
部屋の中はこざっぱりとしていて、あまり派手ではない家具たちは持ち主の性格を表しているようだった。まさか中がゴミ屋敷なんてことは、という心配もまた考えすぎだったみたいだ。
適当に座ってて、の言葉に従いカーペットに腰を下ろす。落ち着きなく室内を見回すあたしを咎めることもせず、彼女はコートを脱いでキッチンに消えた。
ふと窓際に目をやって、視線が留まる。木製のフォトフレームが伏せられた形で置いてあったのだ。
窓の開閉の際にぶつかって倒れたのかな。戻してあげよう、となんの気なしに手を伸ばす。
「カレー」
唐突に後ろで彼女が声を張り上げた。無防備な全身が驚きで跳ね上がる。
振り向くと、彼女がマグカップを両手に持ちまっすぐにあたしを見つめていた。
「嫌いじゃないよね」
尋ねるというよりは確認するような口振り。バクバクといまだ心臓が鳴り止まないあたしは、首だけを縦に振って返答した。
彼女がテーブルにふたつ、マグカップを並べる。ふわふわと湯気が揺れるそれらは、どうやらホットココアとブラックコーヒーのようである。
「好きな方飲んで」
彼女の言葉に、迷わずホットココアを引き寄せる。視界の端で笑われていることに気付いていたけれど、わざわざブラックコーヒーを選んでミルクと砂糖を大量に要求するよりは潔いだろう、と知らん顔を決め込んだ。