数日間意識不明の状態を経て、目覚めた現実は律にはそう甘くなかった。
暫くすると、以前注射器を打とうとしてきた銀髪の男が現れ、全身調べられた。
それから早口で色々捲くし立てると、血液を採取され、鼻歌交じりで颯爽と去っていった。

あまりのことに全ての内容を把握できなかったが、どうやらやはり律は魔族になれたということは理解できた。
当分は安静にと言われたので、ベッドで過ごす。
そこで日がな一日、頭を占めるのは魔王のこと。
魔王とは振り返ることのない背中を最後に、会うどことか見かけることさえなくなった。

律は目覚めてから、自分が魔族に近しく変貌できたことを何より喜んだ。
けれど、魔王は律の姿を見て眉を顰めた。

(僕を軽蔑した…?)

あんなに優しかったのは自分が人間の神子だったからなのかもしれない、こんな方法でこの世界に留まった自分を浅ましく思い煩わしいのかもしれない。

最初は現実味がなく、ただ魔王と共にいれることに浮かれていた律の心に焦燥感が沸き立つ。

(どうして僕はいつも、こうなんだ!馬鹿なのに考えなしで突っ走って、迷惑をかけて、)

ぎゅっとシーツを握り締める。

(でも、でもやっぱり―――傍にいたい)





律は俯き加減に歯を食いしばり、一息ついた後、前を見据える。

(よし!)

たん、と軽やかにベッドから降りると、脇目も振らず、裸足のまま部屋から出た。
廊下に出ると、迷うことなく走り出す。
ここ数ヶ月、運動からはかけ離れた生活を送っていたので、すぐに息が切れたが無心に左足、右足、と地面を蹴った。
ひゅうひゅう、と荒い空気が喉を鳴らしても、纏わりつく衣服をたくし上げながら通い慣れた廊下を突き進む。

目的地である扉の前に着くと、呼吸を整えるのももったいないとばかりに数回ノックする。
少しの間、様子を窺うが何の反応もなく、試しにノブを捻ってみたが、鍵がかかっていた。

(ここじゃない)

自分が知る唯一の心当たりが外れてしまい、一瞬決意が揺るぎそうになった律だったが、改めて気を引き締めた。

(声が出ないんだから、行動で示さないと!)

そう自分に言い聞かせると、もう一度走り出した。
今度は目的地などなく、我武者羅に両足を動かした。
方向感覚もなくなるくらい複雑な構造の城内を、当てもなく走り回る。
全くといっていいほど人の気配がなく、整然とした城にぺたぺたと足音だけが響いている。



幾らか足を進めたところで、中庭が見える吹き抜けに出た。
思わず立ち止まってしまった途端、力が抜けどっと汗が噴き出し、疲労感が押し寄せてきた。
手すりに掴まり、肩で息をしていると、中庭が少し騒がしくなった。

(…いた)

そこには、数人の魔族に囲まれ、黒を纏う律の探し人がいた。
その姿はあまりにも懐かしく思えて、ついつい魅入ってしまう。
けれど、周りの魔族達がその場を立ち去っていき、ようやく我に返った。

(早く、早く行かないと!下…さっき階段が…!)

この機を逃すまいと脚をもつれさせながら、元の途に戻る。
階段を跳ぶように駆け下り、中庭を目指ざす。
そして薄暗く長い廊下の先、溢れるような光に飛び込んだ。

目が眩むような彩が広がる。
青々とした芝生に、漆黒の人。
律の位置からでは顔が見えないが、その人物は確かにそこにいた。

「…っ…」

唇が震える。
声はやはり出ない、彼の名前も知らない。

いつもなら、今までの自分なら、きっとここで見ているだけだった。
遠目でもその姿を見れたことに満足し、気付かれなくても幸せに浸っていられた。
何に対しても受け身で、仕方がないと諦めて、選ばれることを待ち望んで。
けれど、今は違った。

その人との距離に苦しい、気付いてもらえず悲しい。
だから、だから―――

(今度は僕が選ぶ!)

渾身の力を振り絞り、地面を蹴った。
一歩、二歩、と逸る思いに追いつかない足を前へ前へと運ぶ。

そして、律は掴んだ。



「!…お前…何故ここに」

魔王は自分の腕を掴み、息切れしている律に驚きを隠せなかった。
現状報告を話していたレギンもその表情が固まっている。

律は汗をかき、裸足で汚れている足元を見て、慌ててここまで来たのだとわかる。

(何かから、逃げてきたのか…?)

つい先程まで、ミズガルズとの会談とは名ばかりで、事実上従属国になるよう条約を結んできたところだった。
牽制の意も込めてそれなりの兵を引き連れ、ミズガルズに赴いていたので、城は少しばかり手薄ではあったが、それで易々と進入を許すような守備ではない。

(だと、すると…?)

ここで無駄な推察をするよりかは、一度部屋に連れ戻った方が賢明だろうと、レギンに目配せをする。
元よりわかっていたようで、一礼すると、颯爽と去っていった。


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