暗闇にすっと光が射し込むように、意識が戻った律の視界にはもうここ数ヶ月で見慣れてしまった豪華な天蓋が広がった。 心なしか全身に痺れが残っていて、頭も重く、起き上がるのが億劫になった。 (えっと…いつの間に寝たんだっけ…?) そのままベッドに体を預けることを選択し、何故だかある心の引っかかりを考えた。 何か重大な事を忘れてしまっている気がして、いまいちまとまらない思考を丁寧に漉す。 (確か、僕は元の世界へ還すって聞いて、それで) そしてフラッシュバックする。 呪文を詠む神官達、光る陣、魔王の切ない瞳。 (そうだ!僕は元の世界に還ったはずじゃあ!) 勢いよく、起き上がると立ちくらみのように軽く眩暈がした。 片手で頭を抑えやり過ごそうとすると、ある違和感に気付く。 暫く呆然とした後、両手で体を隈なく探った。 それから転がるようにベッドから降り、覚束ない足取りで鏡台まで辿り着いた。 (な、な、何、これ…) 鏡に映っていたのは確かに律ではあったが、律ではなかった。 尖った耳、その上にちょこんと生えた角、極めつけは想い人を連想させる紫色の目。 土台こそ律の平凡な容姿そのものではあるが、変化したそれらは人間では考えられないものだった。 (どうなって、) パニックに陥りかけたが、はた、とある可能性に行き着く。 (まさか…) その仮説を立てる前に、寝室の扉が開いた。 反射的に振り返ると、鏡の中の紫よりももっと深い紫色を持つ男がやや驚きながら、律を見ていた。 しかしそれも一瞬で、途端に険しい顔つきになる。 その表情で、律は決して今の状況が喜ばれたものではないことを悟った。 魔王はクッション性の高い絨毯をズンズンと踏み締め、律を横抱きに持ち上げるとベッドへと戻した。 自身はベッドの縁に腰をかけ、律に背を向けた。 魔王は一言も発することなく、けれどそこから動かずにいた。 顔色を窺えないものの、不穏な空気を察知していた律は大きい背を盗み見ながらびくびくしたまま、気まずい空気に耐えていた。 「お前は…」 不意に魔王がぼそり、と言葉を零す。 律は聞き逃すまいと耳を研ぎ澄ました。 またも沈黙が訪れたが、少しして魔王は立ち上がりそのまま扉まで歩みを進めた。 ノブを引いてからようやっとピタリと止まる。 「お前を人間に戻す。それからもう一度、向こうの世界へと還す。それまでは大人しくしておけ」 そして一度も振り返ることなく、魔王は部屋から出て行った。 (人間に、戻す…向こうの世界へ還す…) 取り残された律はただその言葉だけを反芻していた。 律とコウを元の世界へ還す儀式は確かに成功していた。 現に数分前までうるさく騒いでいたコウの姿は、微塵の痕跡もなく消えている。 しかし、 (何故だ、何故お前が) 律はただそこに横たわっていた。 混乱する場内を余所に、フォラスが躊躇いなく近づくと触発されたかのように何人かの兵も駆け寄る。 神官達は、術式の失敗の追及を恐れ、より顔面蒼白し、レギンは遠巻きに事態を見守り、魔王は一点を見つめ佇むばかりだった。 倒れていた律は、酷く衰弱していて、元の世界に戻れなかったことに関してはとりあえず後回しとなった。 ベッドの上で熱に魘されている律を見ながら、魔王は憤りを覚えていた。 あの時、フォラスが律の体を調べると目立った外傷はなかった。 けれど閉じられた瞼を開けると、漆黒だった瞳が紫色へと変貌していたという。 そこで、まさかと思い隈なく全身を調べると、腕に注射針を刺したような痕があった。 そして寝室のローテーブルの上には使用済みの注射器が発見された。 律は、フォラスが開発した溶液を体内に注入したのだ。 その事実に魔王の胸中は複雑であった。 どうなるかわからない怪しげな薬を摂取したことに怒りを感じ、衝動的に行ったであろう無謀さに苛立ち、それからもし容態が悪化して自分の目の前で大事な命が失われたら、という恐怖。 もし、律が死んだら。 そもそも魔王は元の世界に戻るのなら、それが律にとっての幸せだと信じ、例え一生会えなくとも穏やかに送り出せたのだ。 しかし、目の前でその命が尽きるのでは、話が変わってくる。 (馬鹿なことを…) 何が律を突き動かしたのか、魔王にはわからなかったが、今は目が覚めることを祈るばかりだった。 << >> |