戻るぞ、と促そうとした時、空気を切るような掠れて乾いた音が聞こえた。

「……ぁっ…!」

律を見ると、口をパクパクさせながら懸命に何か伝えようとしていた。
注意深く聴かないと、風に攫われてしまうほど小さな声だったが、魔王が驚くには十分だった。

「い、…に…」
「ゆっくりでいい」

あまりにも辛そうに、言葉を発しているのを見兼ねて、落ち着かせようと背を摩る。
それでも、律は話そうとするのを止めなかった。

「…な、た…と、」

何度も何度も、掠れた声で律は伝える。
そして、魔王はつぎはぎの音を繋げる。

――あなたといっしょにいたい



カチリ、とピースがハマった瞬間、魔王は崩れ落ちた。
魔族の頂点に立ち、誰もが恐れる魔の王たる男が、誰に見られるかもわからない場所で、地に膝をつけた。
背を丸め、項垂れ、まるで目の前の小さな人間に平伏すように。

本心では律を還したくはなかった。
魔王という地位を投げ出して、攫って監禁して誰の目にも晒さないようにして。
けれど、この律という人間と向き合えば向き合うほど、自分では不釣合いなのだと感じた。
見栄や嘘に塗れ、非人道的な行為をいともせず、搾取に励み、他人を踏み台にしてきた自分では。

律は、そんな自身とは結びもつかぬ存在で。
絹のように柔らかな優しさを持ち、魔王にとっては穢れのない純白そのものだった。
その白に包まれると、罪を流し清くなれるような錯覚に陥る。

だから、純白が汚れぬ内に還さねばと思った。
この世界は、自分自身は汚れきっているから。

それなのに、律は何故かその身を魔に落とした。
どうなるやもしれぬというのに、その無謀さに胸の内で愚行を責めた。
その行動の真意がわからない、と思ってみても、心の奥底では律の想いに気付いていた。

もうこれ以上、言い訳はできないな、と魔王は観念した。



律は、魔王の様子に慌てふためいた。
具合が悪いのかと、同じようにしゃがんで、手を取る。
と、同時に強い力で体ごと引き寄せられた。

「愛してるんだ。ずっと俺の傍にいてほしい」

左耳からじわりと染み渡るように入ってきたその言葉に、ぽろり、と涙が一粒零れる。
逞しい腕の中で、律の願いは花開いた。
全身が鼓動を打っているように熱くなる。
そして、律も華奢な腕をその背に回すと震える声で、はい、と小さく答える。



「僕の名前は律です」
「ああ、俺は―――」





それから数世紀が経つと、神子信仰は風化していた。
ある国の王の優れた統治により、世界は平和を取り戻した。
当初、平和的思考は嘲笑われ、馬鹿にされていたが、徐々に人民の支持を得た。
そしてその平和は王の死後でも、半永久的に続いたことが影響し、ついにその王は神格化され、人々に敬われた。

描かれる肖像画は、漆黒の髪に深紫の瞳を持った威厳ある姿、その傍らには同じ色を持つが、柔和な笑みを浮かべた素朴な少年が必ず寄り添っていたという。




END.

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