どれくらいそうしていたのか、立ち上がった俺はあの神社に向かっていた。
藤を探したい、しかしそれは藤にとって望ましいことなのか、と繰り返し自問自答していたが、答えを出すことはできなかった。
だから少しでも藤を感じていたいと二人で過ごしたあの社を目指すことにした。

久方振りに足を踏み入れた境内は、禍々しく鬱然としていた。
空気の澱み具合に気圧されつつ、恐る恐るお堂の扉を開ける。
その瞬間、飛び込んできた光景に目を見開いた。
俺が依り代としていた鏡を中心に、山菜や木の実、魚や花が敷き詰められていた。
それらはお堂の奥半分にまで置かれていて、一体何が起こっているのか理解できなかった。
その中で一際大きい物が目の端に留まった。
薄暗さでよく見えず、ゆっくり近づくと俺の全身が凍った。
“それ”は横たわった藤だった。

「藤!藤!」

三ヶ月前と変わらず、否、以前よりも薄汚れていて不意に見えた腕はほとんど骨と皮だけだった。
そっと藤を抱き寄せると身の軽さにぞっとする。
綿のように軽く、存在感が乏しく思えた。

「……藤?」

藤は眠っていた。
けれど俺がどんなに名を呼んでも、肩を揺り動かしても起きない。
まるで月に照らされたように青い肌に触れると、作り物のように冷たかった。

「どうしたんだ……藤。まだ、眠いのか……?嗚呼、そうか。これだけの供物を集めたのだ。暫く寝ていなかったのだろう。だが、一度だけでも目を覚ましてくれないか?お前の声が聞きたいのだ……藤。藤……藤!」

冷ややかな頬に、熱い露が滑り落ちた。
俺の涙でもその肌は温まらなかった。
雨が上がった空は濃紺が滲み出で、その日、月は姿を消した。



藤の身体を抱えたまま座り込んでいると、徐々に辺りが明るくなってきた。
でも、もう俺にとっては朝だろうと夜だろうと関係ない。
こうして存在している意味がなくなったからだ。
他の神々と親交するなど俺には必要なかった。
大国主様の御殿に幸せがあるなんて妄信に過ぎなかった。
福の神になったところで、一番大切なものを失ったのでは無力なのと同じだった。

このまま依り代に宿らず、現世に留まれば消滅できるだろうか。
その瞬間まで藤のことを抱き締めていよう。
天空の彼方は白みを帯び、じわじわと陽が昇る。
やがて、朝日が一直線に射し込んだ。
光がお堂の真ん中に奉られていた鏡に射した時だった。
目も開けられない程眩しく辺り一面輝きに満ちた。

――露草。お前は福神である意はないと申すのか?

「そのお声……大国主様!何故此処に」

俺が貧乏神だった頃、そして藤と出会い共に過ごしたこと、その後二人が別れた後もそれぞれ何があったのか、大国主様は全て見ていたのだと仰った。

「それでは大国主様。見てきた通りに御座います。俺は浅ましくも藤を縛りつけ、藤のお陰で福神と昇進できたにも関わらず、そんな藤をあっさりと手放したのです。何故、藤が社を離れず此処で果てているのかはわかりませぬが、それも恐らく俺のせいなのです」

そんな自分が福の神であっていいわけがない。
俺は大国主様にそう伝えた。

――では、露草。福神の名を返して貰おう。その際、それなりの対価は払ってもらうぞ、良いな?

今更どうなろうと俺は構わない。
この身朽ち果てるまで、思い出の中生きていくだけなのだから。

「承知致しました」



はっと我に返ったかのように気が付いた。
大国主様との会話は一寸だった感覚で、辺りを見回してもそんなに時が経っていないことがわかった。
俺自身、何も変わりはないが対価とは何だったのだろう。

「露、草様……?」

消え入りそうな声に名を呼ばれた。
それは腕の中、眠る人に。

「藤……?藤なのか……?」

先程まで頑なに閉じていた瞼が薄っすら持ち上がる。
漆黒の瞳は間違いなく俺を映していた。
震える手で頬に触れる。

「暖かい、暖かいぞ、藤!藤、暖かいなぁ!」
「露草様も、暖かい、です」

感極まった俺は長らく藤を抱き締め放さなかった。
この時、俺は涙を流し、藤の名を呼び、かなり取り乱していたことだろう。
藤はただ黙って、俺の背に腕を回してくれていた。
半日は掛かったが、漸く落ち着いた頃二羽の兎がやってきた。

「露草様、お初にお目に掛かります。本日より露草様の神使に任命されました、兎のトオノギと申します」
「同じくトオノミと申す者です。露草様はこの地を治める産土神と相成りました」
「産土神?俺が?」
「はい。どうぞお勤めよろしくお願いいたします」

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