それから俺の全てが変わった。
頬が落ちそうになる馳走を毎日味わった。
豪奢な庭園の風情を共感する友も持てた。
初めて女を抱いた。
これが幸せと言われるものなのか。
俺が一生手にすることのなかった幸福。
これが幸せ、これが俺の求めていた幸せだ。
けれど何故だろう、飢えはなくなったと言うのに、何もかもが満ち足りていると言うのに、腹の底にぽっかりと穴が空いていた。

俺はその穴を埋めるため必死になった。
たんまりと美味い料理を食い、友人作りに励み、夜は必ず女を抱いた。
必死になるあまり、気付けば自堕落な生活を送っていた。
そして、穴は塞がるばかりかどんどん拡がっていった。
ある晩、女を抱く気になれず庭園の茶席に座り呆けていた。
そこに三人の友人が現れた。

「露草!こんな所にいたのか。花媛の御方達がお前を探していたぞ」
「お前に見初められようとめかし込んで、な」

からからと友人達は笑った。
いつもならここで俺も笑うのだが、余計に気が重く沈みこんだ。

「どうした。ここのところ覇気がないな」
「何事かあったのか?……否、大国主様の御殿で憂うことなぞありはせんな」
「そう言えば露草は現世に降りていたと聞いたな。もしや現世で何かあったのか?」

現世と聞いて、藤のことを思い出した。
藤、藤は息災にやっているだろうか。
別れの時、何か伝えようとしていたことがふ、と胸に引っかかった。

「人は欲深く、身勝手だからなぁ。お前も随分苦労したのではないか?」

まさか、藤は寧ろ無欲で、無欲すぎるくらいでいつも俺に尽くしてくれていた。

「確か、一人の人間に供物を捧げてられていたと言っていたな。その人間、余程強欲だったのだな。神を一人占めなどとは身の程知らずめ」

違う、一人占めしていたのは俺だ。
藤が離れないよう騙したり、身体で繋ぎとめようとした。

「浅ましい人間はどこにでもいる。露草よ、犬に噛まれたと思って忘れろ」

浅ましいのは俺だ。
藤は、藤こそ気高い存在だった。
俺が手折っていいような人ではなかったのだ。
友人達の声から意識を背けたくて見上げた空は深々と闇が覆っていた。
月は今にも消えかかりそうな薄い二十三夜月が浮かんでいる。
月の輪郭によってそこに大きな穴が空いている風にも見えた。
ふつに俺の腹に巣食う穴のようだ。

(月と言えば、初めて藤を求めた晩、二人で眺めたなぁ)

懐かしい思い出に頬が緩んだと同時に、ほろり、と雫が落ちた。
それが涙だと自覚しても止まらず、次から次へとぼろぼろ流れる。

「おい、露草よ。何故泣いている?」
「……い、たい」
「何だと?一体何があったのだ」
「……会い、たい」
「会いたい?誰に」
「会いたい、会いたい」


――藤に会いたい



説得しようとする友も、引き止めようとする女も振り払い、俺は再び現世へと降り立った。
常世へ上るには少しばかり力が必要だが、現世の地に立つことは容易い。
最も、降臨地点は自身に縁のある場所になる。
初めて現世に降りた時は、掘っ立て小屋のようなぞんざいな家屋だった。
貧乏神としての性質上引き寄せられたのであろう。
そして今は藤と共にした神社、ではなく、その前に宿っていた雑木林の小さな祠の前に顕現した。
神社より長く住処にしていた為か、仕方がない。
俺は急いで山へと向かった。

あの日、藤と出会った日と同じく雨が降っていた。
そのせいで山道が泥濘み、いちいち足が取られる。
昼間のはずなのに、雨雲が陽を隠しそこに雨が相俟って酷く暗く寒々しい景色に色づいていた。
やっとのことで、川まで辿り着いた。
俺が常世へ戻り三ヶ月は経っている、恐らく藤は山宿として暮らしているはずだ。
俺は上流に向かって歩き始めた、何一つ見逃さないよう目を凝らしながら。



何故だ、何故だ、何故。
藤が見つからない。
山宿は三日かかったものの見つけ出せた。
しかしその中に藤の姿はなかった。
藤が訪ねてこなかったのか、そういう青年は見たことがないのか聞いたが、誰も見たことがないのだと言う。
俺は青褪めながら宛てもなくふらふらと山中を彷徨った。

(山宿だけが頼りだったのに……。そこにいないとなると藤はどこへ行ったのだ。どこか遠くへ行ってしまったのか、それとも山道で迷いもうこの世には……)

思わず膝から崩れ落ちた。
俺は何てことをしてしまったのだろう。
あんなに離したくないと思っていたのに。
あんなに胸が焦がれていたというのに。
藤がいないとわかった途端、手足に力が入らなかった。
ただ、あの飢えとは比べ物にならない気が狂いそうなくらいの苦しみが襲ってくる。

「藤……藤……っ!」

あの飢えは、いつも“何か”に飢えていたのは、慈しみが欠けていたからだ。
そして、藤という人が癒し満たしてくれたのだ。
けれど愚かにも俺はそれに気付かず、藤から離れてしまった。
現状が受け入れられず、俺はそっと両手で視界を覆った。

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