空高編


第3章 神子と双子と襲撃



空高翼は誰よりも恵まれた人間なのだと思っていた。
ドブの中を這いずり回る自分たちのような存在と比べれば、雲の上にいるような存在で、何不自由ない生活をしているというのに飛び出すなんて、なんて身勝手な人間なのだと、そう思っていた。
アエルにとってその考えは変わらないし、変えるつもりはない。
否、正確には、なかった。
しかし、今の翼の顔を見ていると、自分の物差しだけで物事を見てはいけないのだということを痛感させられる。
それはきっと翼にも言えることなのかもしれないが、自分が恵まれている故に、自分と他者とでは悩みの度合いが違い過ぎることを、恐らくはアエルより理解しているだろう。
翼の表情はあまりにも悲しそうで、苦しそうで。
自分たちにはない因果の鎖に絡めとられているような、大袈裟かもしれないけれど、アエルには確かに、翼に絡みつく見えない鎖が見えたのだった。


第34晶 翼と雷希 其ノ壱


神の子は神聖な存在でなければならない。
神の子孫であり、全ての人間の始祖であり、原点であり、象徴であり、信仰の対象である存在、それが神の子なのだ。
人間らしい言動は許されない。
人間らしい想いは許されない。
人間であることは許されない。
自分だって同じ人間であるはずなのに、生まれが特殊だから、ただそれだけの理由でそれが許されないということが疑問で仕方なかった。
そもそも自分たちが神の子孫と決めたのは誰なのか。そんな証拠は何処にあるのか。歴史書には記載があるが、それ以外に確たる証拠なんてないじゃないか。

(それなら、この世に神なんていない。居てたまるものか。)

このような仕打ちを強いられなければいけないのであれば、神の子である必要なんてない。神なんているはずがない。
だって神がいるのであれば、全ての者は等しく救われるべきなのだから。

「そうは思わないか?雷希。」
「いや、なんだよいきなり。何の脈絡もなく話し出すの師匠の悪い癖だって。」
「む、すまぬ…」

屋敷の縁側に腰掛けて汗をぬぐう雷希の手には、木刀が握りしめられている。
まだまだ幼い身体だというのに、雷希は毎日稽古に訪れ、手に肉刺を作りながら鍛錬をしていた。
未来の護衛役を、本来は守られる立場である翼が稽古するのは異例なことで、通常であれば刀を扱うのを得意とする別の師範が雷希を稽古するものだ。
しかし翼は自ら雷希を鍛えたいと申し出た。
当然周囲の者は反対をする。神の子である翼が、護身の為に刀の鍛錬を受けるのであればまだしも、自分よりも下の身分である者の刀を鍛えるなんて、あり得ないと。
それでも翼は、将来自分を守る者のありのままの姿を、稽古を通じて深く関わり合うことで見つめて、信頼関係を築いて行きたい。他人に指導され、ろくに顔も合わせない他人に命を預ける方がどうかしている。という持論で他者を説き伏せ、強引に師範役を買って出たのだ。
当時翼は十三歳で、雷希は十歳だった。
どちらも子供で剣の稽古をするのであれば、ただのチャンバラごっこにしかならないだろうと殆どの大人が莫迦にしていたが、元々剣術の才はずば抜けていた翼と、戦闘を得意とする荒雲一族の子供の稽古風景は、ちょっとやそっとの実力しかない大人ではとてもではないが介入出来ない程のものであった。
当然誰も口出し出来ず、気付けば二年の時が流れている。

「雷希、少しは背も伸びたか?」
「お、気付いたか!いつか師匠の背も追い抜いてみせっからな!」
「ふ、それは無理な話だ。俺だって背は伸びている。師の身長を超えるなんて後五年は早い!」
「む、むかつくけど数字が割と現実的だな…?!」

翼は十五歳になり、雷希も十二歳になった。
二人の身長も伸びた。
身体付きも、筋肉が少しついて当初よりは逞しくなりつつある。

「なぁ、雷希。またこの屋敷の外の話を聞かせてくれよ。以前出来たという茶屋の団子、どうだったのだ?」
「ああ、あの茶屋の団子、うまかったぜ。特にあのみたらしのタレが美味くてさ。今度こっそり持って来てやりたいけど…」
「はは、そんなことをしても、どうせ没収されてしまうぞ?」

あれから二年も経っていたが、それでも、翼が屋敷の外へと出ることは、未だになかった。
外を知らぬ翼は、雷希から聞く話が唯一、外の世界だったのだ。
屋敷から出ることが出来ないのは寂しかったが、嬉しそうに最近出来た茶屋の団子のことや、近所に小鳥が巣を作り子供を産んでいたということを話す雷希の姿は好きだったし、毎日の楽しみであった。
いつか屋敷を出てみたい。
外の世界を知りたい。
そんな気持ちは当然あったけれど、雷希とこうしている時間が続くのであれば、もう少し、この生活を続けているのも悪くないと、翼はそう思っていた。

「師匠、聞いてんのか?」
「嗚呼、聞いているよ。お前の話は好きだからな。」

優しく微笑んで雷希の髪を撫でてやると、短い藍色の髪は少し湿っていた。
何故湿っているのかは、彼の頬を伝う透き通った汗が原因であるということに気付く。
花が散り始める季節。
寒さを感じることはなくなりつつあるが、それでもまだ、暑さを感じるには少し早い。
そんな時期に、髪が湿る程の汗をかくには、激しい運動が不可欠だ。そして雷希にとって、汗をかくに値する激しい運動はこの稽古だ。
思わず頬が緩む。

「…んだよ、気持ち悪い顔してんなぁ。」
「き、気持ち悪い?!なぁ雷希、俺、そんな気持ち悪いか?!」
「っだーうっせ!!うっせ!!さっさと稽古すっぞ!!」
「ああ待て待て雷希、喉乾いただろ?珈琲飲んでからにしよう珈琲!」
「アンタいっつも作るときホットじゃねぇか!喉乾いてる時に飲むもんじゃねぇだろ!!」

紅い瞳でこちらを睨みながら木刀を勢いよく振り回す雷希に笑みを浮かべながら、自身も木刀を握り締める。
両手で力強く握ったまま、雷希へと振りかぶれば雷希の振った木刀とぶつかり合い、腕が痺れる程の刺激が伝わって来た。
腕がびりびりと痺れ震えているというのに、笑みを浮かべずにはいられない。
木と木がぶつかり合う乾いた音と、それに呼応するように額に滲む汗が雫となって宙を舞う。
陽の光に当てられてきらきらと輝く雫に目を奪われそうになっていると、紅い瞳がこちらをじっと覗き込んでいた。

「隙だらけだと、その頭スイカみてぇに割っちまうぞ。」

年相応の悪戯っ子な笑みを浮かべているが、言っていることはとても物騒だ。
とても物騒で、笑いごとではない軽口だが、翼にとってそんなのは慣れっこで。

「それはいいな。この稽古が終わったら、スイカでも食べたいな。」

まだ季節外れだが、そう付け足して、頭部に振りかざされる木刀を、翼は軽やかに弾き返した。
楽しかった。
スイカはまだ季節外れで食べることが出来なかったけれど、冗談を言い合いながら稽古をするのは楽しくて楽しくて仕方なかった。
年の近い親しい者は殆どいなかった翼にとって、この束の間の時間は欠かせないもので、大事なもので、守りたいもので。
この時間があるのであれば、屋敷にいるのも悪くないかもしれないと、そう思える位だった。

「荒雲、卯雲、卯時の一族を、殲滅する。」

ある日の夜、大人たちが話していた、あの作戦を耳にするまでは。

 


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