秋が終わり、冬が来る。


本編



「お疲れ様。山茶花センセ。」

そう言って紅茶を差し出して来たのは、同じ大学で働く講師の男。
真っ直ぐ伸びた黒く長い前髪から、チラリと覗く赤い瞳。その赤は、白い肌によく映えている。
白いシャツに灰色のベストと黒いズボン。それだけであればごく普通の青年なのだが、彼はその肩に神父が着る祭服を、まるでマントのようにかけている。
いっそ袖を通せばいいのにと思うのだが、袖を通してしまうとそれこそ神父のようで堅苦しいだろうと、この男は笑うのだ。

「小鳥遊先生。お疲れ様です。今日の講義はもう終わったのですか?」
「うん。まあね。先生も今日はもう終わり?」

柔和な笑みで小鳥遊講師が問いかけて来るので、椿は、嗚呼と一度頷いた。
この男は年上年下男性女性問わずこの態度なので、どうも調子が狂ってしまう。普通であれば自分が年上で先輩なのだから、敬語ぐらいは使えと説教をしてもいいはずなのに、どうもそんな気になれない。

「最近、先生元気がないね。嫌なことでもあった?」
「……いや。そういう訳では。」

山茶花椿は、この、大学講師を共に務める男であり、教授職を務める男、小鳥遊浮が少し苦手であった。
人当たりの良い好青年だとは思うし、知識も教養も十分にある。それに良いところの出でもあるらしいからか、品も良い。
だから、人間として嫌いという点はない。ただ。

「そ?何か、片腕をどこかに落してしまったかのような、喪失感たっぷりな表情をしていたから、気になってね。」

この、他人の些細な変化にも容易く気付く、観察眼の良さが、苦手であったのだ。

「……そんなことより。菊紫苑は元気か?お前の学部を受講していただろう。」

そんなことよりは何だ。と、自問自答したくなる。
大学は中学高校よりも多くの生徒が存在するというのに、その生徒と接する機会殆どないに近い。
それなのにどうなんだ、と聞いたところで小鳥遊が紫苑の様子を知る訳がないのだ。
それだけでなく、もう関係が終了し、赤の他人に戻ったというのに、未だに紫苑のことを気に掛けている自分自身も恥ずかしい。
あの日以来、紫苑とは会っていないというのに。

「あれ?知らないの?」

そして小鳥遊は、きょとんとした顔で、椿にこう言い放った。

「菊紫苑は先月をもって退学した。だから、9月からは大学に来ていないよ。」

その言葉に、山茶花椿は動揺した。
この男が差し出した、甘ったるい砂糖たっぷりのミルクティー、その味すらもわからないぐらいに。


第6話 長月:期間限定のワケ


菊紫苑は退学した。
その言葉が、椿の頭からどうしても離れてくれない。
小鳥遊からその言葉を聞いた直後は目の前がくらくらとしたし、吐き気すらも込み上げてきた程だ。
生徒一人の退学報告に、我ながら動揺し過ぎだとは思うけれど。

「理由は?」

生徒の個人情報なんてうかつに話す訳がない。それでもそう聞かずにはいられなかった。
聞かれた小鳥遊も、自分は生徒の入学退学までは管理していないからねえ、と、困った顔を浮かべてはいたけれど。

「理由は僕も知らない。これは本当。気になるなら、本人に聞いてみたらいいんじゃないかな?」

結構仲良かったじゃない、君たち。
そう答えを返してきてくれたのだから、益々頭は痛くなる。
一応交際のことは隠していたつもりだったし、学校でもあまり会話はしないようにしていたはずだ。それなのにあの講師は全てを把握しているかの如く、そう答えてみせたのだ。
全く持って、性質が悪い。
恐らく、知っているのは僕だけだよ。と言って笑っていたが、それは恐らく、本当だろう。
寧ろ本当であって欲しい。この年になって、まだ、職を失いたくない。

(でも。)

と、椿は考える。

(何故、退学なんて。)

大学を退学するということは、別に珍しいことではない。
金銭的な理由で大学を辞める者もいれば、大学でやりたいことが見いだせないからと辞める者もいる。
高校を辞める者よりもよっぽどその割合は多いため、引き止めることもなければ気に留めることもないのが本来だ。
しかし今回は事情が違う。
よりにもよって、9月から辞めているなんて。
まるで自分との交際が終わったから辞めるかのような言い草だ。
否。正確には違う。
交際が終わったから辞めたのではなく、辞めなければならない状態だから交際も終わった。
きっと、こちらが正解なのだ。
今思えばおかしいのだ。
最初から期間限定であったことも、わざわざ8月末で区切ったことも。
それが罰ゲームとして告白したからなら、まだわかる。
しかし、罰ゲームであるなら、わざわざ料理を作ったり、頻繁にデートを重ねたり、……キスをしたり、する訳がないということも、椿はよく、わかっていた。
だからといって、詮索できない。詮索する気もないし、詮索する資格もない。
だって、もう、赤の他人だから。

(それでも……気にならずには、いられなくて。)

気にならずにはいられない。
気に掛けずにはいられない。
けれど、何処にいるかもわからない。何処に住んでいるのかとか、どういう生活サイクルを送っていたのかとか、よくよく考えれば、椿は、菊紫苑という人間を、知っているようで全く知らないのだ。
そう考えると、頭を抱えてしまいたくなる。
四月から八月まで、約五か月。約五か月、ほぼ毎週会っていたというのに、言葉を交わしていたというのに、手をつなぎ、共に歩いていたというのに、こんなにも彼の事を知らなかったのかと、自分の愚かさを責めたくなる。
知っていたところで、何ができる、という訳でもないのだけれど。

「椿先生。顔色優れないよ。」

小鳥遊から紫苑の退学を告げられて更に数日以上が経過。
気付けば、少し肌寒くなっていて、季節は秋に益々近付こうとしていた。
九月上旬まではまだ夏の気配が残っていたというのに、十月に差し掛かった今では、蝉の声も聞こえなくなりつつある。
街を歩けば銀杏の独特の異臭が街を支配していて、これに耐えれば、きっと綺麗な黄金色の景色が見られるのだろうと、鼻を塞ぎながら歩く日々だ。
朝と夜は肌寒い。しかし、夏はまだ夏の面影を引きずっているのか気温が高くて、つまり、寒暖の差が激しい。
季節の変わり目は体調を崩しやすい、とはよく言うけれど、自分のその一人になっていた。

「今日病院行ったら?ちょっと先にある大きな病院なら、まだやってるでしょ?」

小鳥遊の言葉に甘んじて、自分の講義が終わった椿は早々に職場である大学を後にし、大学から数十分の距離にある大学附属病院へと足を運んだ。
流石に熱っぽく、体調が悪いから病院へ行くのはタクシーを利用したけれど、健常状態であれば歩いて行けるぐらいの距離感である。
大きな病院というだけあり、入院施設も完備されており、近隣で検診や診察を受けていた人々が入院をしたりする際は、必ずと言って良い程この病院へと案内されるのだ。
こんなところでただの風邪を診察してもらうのは少しはばかられたが、地元の診療所まで行っているともう閉まってしまうので、甘んじるしかない。

「ただの風邪でしょうけど、風邪薬を一週間分出しておきますね。」

医師の診断もごく普通の風邪。
風邪薬と解熱剤とを処方され、診察室を後にする。後は受付に呼ばれたら診察代を払って、薬局薬をもらって終了だ。
こうして歩いていると、入院服を着た患者がちらほらと見受けられる。検査があるのだろう検査室へ行く人もいれば、検査が終わって出て来る者もいて。

「先生。いつも、ありがとうございます。」

その時、聞き覚えのある声が聞こえて、心臓が、跳ねた。

「いやいや。君も、まだ若いのに。」

背中の方で声が聞こえる。振り向け。振り向くな。二つの言葉が頭の中で、自分の声で、響いている。
振り向けば後悔する。けれど、振り向かなければ、もっと、もっと、後悔する。
椿は後ろを振り向いた。
見覚えのある大きな背中。けれど、薄緑色の入院服が、その背中をいつもより弱々しく見せた。
それでも変わらない、紫色の髪は、つい最近見たばかりの色だ。何も、何も、変わらない。
金色の瞳を細めて、医者に対して微笑む好青年の笑みは、いつもの、彼だ。
嗚呼、彼だ。彼だと思うと同時に、彼であって欲しくないと、そう、思う。思ってしまう。

「お大事に。紫苑くん。」

けれど医者は、残酷にも、その名を検査室から出て来た、入院服を着た青年に告げたのだった。

「……紫苑……」

思わず、声が漏れる。
消え入りそうな声だったと思う。心臓が煩い。痛いぐらいに、脈打っている。顔が熱い。これらは全てが全て、風邪のせいだろうか。
それともそれ以外が原因だろうか。
こんな呟きは、届かない。届くはずがない。そう思ったけれど。

「椿、さん……?」

その声は、紫苑に届いた。
そして紫苑は、椿を見た。
金色の瞳を小さく丸めて、顔を青白く染めて、見られたくない人に見られてしまったと言いたげに。
嗚呼、そうか。
そういうことか。
だから五か月だったのだ。だから八月末だったのだ。

「紫苑、お前……。」

この時、菊紫苑は、余命二か月の宣告を受けていた。

 


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