秋が終わり、冬が来る。


本編



「海、か。」

その時、紫苑がぽつりと呟いた。
毎週恒例となっているデートの時に、すれ違いざま海へ恋人と行くとはしゃいでいた少女たちの言葉が耳に届いた故だろう。
椿は顔を上げて、どことなく遠くを眺めているような紫苑に、声をかける。

「海。行きたいのか?」

紫苑にそう問いかけると、椿を見て、少し考えるような仕草をしてから、少し困ったように微笑んだ。

「行きたいんですけど、行けないんです。」

行きたい。でも、行けない。
それが何を意味するのかわからなくて、椿は紫苑の曖昧な笑みを見ながら、首を傾げる。
海になんて、行こうと思えばいくらでも行ける。けれど行けないということは、水が苦手なのか、それとも、ただただ泳ぐことが出来ないのか。

「でも。」

椿の手を握る、紫苑の力が少し強くなる。
緊張しているようなその声と、意を決したかのような横顔に、心の臓が、ドキリと跳ねた。

「俺と一緒に、海、行ってくれないですか。」

その願いを、断る理由はない。
椿は静かに首を縦に振り、その願いを肯定した。


第4話 文月:さざ波の音は遠く


ざざん、ざざんと波の音が聞こえて来る。
父の背に持たれて眠る、泳ぎ疲れた子ども。ビールを飲んだのかほろ酔いになっている若者たち。店仕舞いをする海の家の従業員。手を繋いで歩く水着のカップル。
様々な人々とすれ違い、椿と紫苑は、夕日の光で橙色に輝く海辺へやって来た。
日中の賑わいを考えれば、だいぶ静かな部類だろう。まだまだ遊び足りない。寧ろこれからだと言わんばかりに騒ぐ若者たちの姿もちらほら見えるが、日中のそれを比べれば数少ない。
浜辺をのんびりと歩く分には、彼らの存在は全く意に介さないものであった。
靴を脱いで、靴下を脱いで、裸足で砂浜に立ってみる。足の裏に伝わる砂は、夕日から注がれる熱を吸収しているせいか少し熱いが、不快なものではなかった。
隣に立つ紫苑も同じように靴を脱いで、靴下を脱いで、砂浜に足を踏みしめたかと思えば、すぐに海の中へとその足を向ける。
パシャパシャという水が跳ねる音が、さざ波に混ざって心地良く耳に響く。

「椿さん。椿さんも、ほら。」

紫苑の促すような声に頷いて、ゆっくり海へと歩いていく。
海の水は砂のそれと比べると冷たくて、足に溜まった熱をあっという間に奪っていく。波が引いて、足が吸い込まれていくような、砂の中に沈んでいくような感覚が少しくすぐったいが、それは紫苑も同じのようで、くすぐったいですね、と、笑った。

「海なんて久々に来ました。けど、夕方の海は初めてです。」
「海水浴は、昼間が鉄板だろうからな。」
「夕方に二人でこうして来て。怒られちゃいますかね?」
「見つかる前に帰ればいい。」

そう言って笑う自分の顔は、きっと悪巧みをしている最中の犯罪者のようだったのだろう。
紫苑は笑いながら、悪い人だ、と呟いた。
悪い人で構わない。寧ろ悪い人なのだ。自分という男は。

「椿さん。」

紫苑が、名を呼ぶ。
ざあ、ざあという波の音に溶けるようなその声は、気付けば耳によく馴染むようになっていた。

「俺、貴方と海に来れて良かったです。」

噛みしめるように呟くその言葉。何気ない言葉ではあるが、変な事を言うな、と椿は返した。
だって。

「もう、海を二度と見れないかのような言い方じゃないか。」

今年の海は見られないかもしれない。
けれど、来年の海なら、きっと、見ることが出来るだろう。
彼が何故海に行けないのかはわからない。海に行かないのかはわからない。
でも、海なんてその気になれば遠くからも眺めることが出来るし、こうして、少し歩く程度なら、行こうと思えば行けるのだから。
確かに、自分と来るのは、今年が最初で最後かもしれないけれど。

「椿さん。」

紫苑は椿の言葉に対し、肯定もせず、否定もせず。
夕日に照らされる、橙色に染まった手を、椿の目の前へと差し出した。

「手を繋いで、歩いてくれませんか。一緒に。」

言われて、断る理由はない。
その手を重ねて、パシャパシャと海水を蹴りながら、波打ち際をゆっくり歩く。
海というのは不思議だ。
朝の海は全ての誕生を感じさせて。昼の海は人々の賑わい故もあるのだろう、力強さを感じさせて。でも、夕方になると一気に寂しさが浮き出て来て、まるで、自分たちしかこの世界にいないかのように感じさせられて。そして、この日が沈めば、全てを飲み込むような、恐怖感をも掻き立てる、底なし沼のような一面が顔を出すのだろう。
時間帯によってで、ころころとその様が変わっていく。
海というものは、不思議だ。
けれど、それ以上に。

(冷たいな。)

紫苑の手の冷たさは、それ以上に、不思議なものであった。
夏の熱にあてられた椿の手はこんなにも熱を持っているのに。紫苑の手は、いつ握っても、先程まで氷を握り締めていたかのように冷たくて。

「……熱くないか。俺の手は。」

寧ろ自分の手の熱が、異常であるかのように思えて。
何故そう問いたくなったのかはわからないけれど、椿は静かに、そう、問いかけた。
紫苑は椿の瞳を見つめて、その金色の瞳をくりくりと少し可愛らしく丸めた後、ゆっくりと細めて、口元を持ち上げて、幼さの中に成人としての大人っぽさも入り混じる笑みを、その顔に浮かべた。
その笑みを見て。思った。思ってしまった。
綺麗だ。と。

「椿さんの手は、温かいです。とても、心地良いですよ。」
「……こんな。」

四十になる男の、熱の籠った、ゴツゴツとした骨ばった手。
こんな手なんて、可愛くもなければ、ペンダコまみれで綺麗でもない。使い古された玩具にも劣る、中古品のような手。
こんな手を握っても、心地良くなんて。ましてや、嬉しくなんて。

「俺は、椿さんと手を繋げて嬉しいです。」

菊紫苑は、超能力者なのかもしれない。
こちらの不安を一発で見破ったかと思えば、今度はそれを否定するように、向日葵のように咲き誇る笑みを浮かべて、こちらを安心させてくれる。
どちらが年上なのかわからなくなって、己の弱さが忌々しかった。
けれど、それ以上に、その言葉に安心しきっている自分もいて。

「椿さんの手は、働いている人の手です。頑張っている人の手です。それは凄いことで、尊敬できることで。だから、椿さんの手は綺麗です。そして、貴方は誰よりも温かい人です。だから、その手も温かいのです。俺は、そんな貴方と、手を繋いで。一緒に浜辺を歩けて。とても。とても。嬉しいんですよ?」

夕日が、眩しい。
夕日に照らされる紫苑が眩しくて。直視できなくて。直視できないのは夕日のせいだと自分自身に言い聞かせて。
やけに早鐘を打つ心臓に、落ち着け落ち着けと言い聞かせて。

「……心の温かさと、手の温かさは別ものだ。」

だって。
そうでなければ、こんなにも自分の不安を和らげようとしてくれる、自分よりもずっと幼い子の青年は誰よりも優しい温かな心を持っているのだから。
こんなに。
こんなにも。

「じゃなきゃ、お前の手がこんな冷たい訳がないんだ。」

その言葉は、さざ波の音に打ち消された。

約束の期限まで、後、一か月を切った日。
梅雨明けの、夏の始まりのことであった。

 


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