アルフライラ


Side空



「私は、シエル=カンフリエ。」

出会ったばかりの男は、そう、自己紹介をした。
シエルは海の向こうにある大陸で暮らしていた人間で、昨今、この世界の状況は芳しくないのだという。
緑豊かだった地は枯れ果て、砂地となり、その砂すらも毒素を帯びて人々を疫病で苦しめている。
水も腐り、大気も汚染され、人々が暮らしていくことは困難だ。
故に、少しでも汚染が進んでいない土地を求めて、シエルはこの地まで足を運んだのだという。

「――……。」

世界が本当に滅びているというのは、正直、驚愕であった。
確かにこの土地で自分以外の人間は見なかった。滅びていると言われても無理もないと思ってしまう。
しかし、まさか本当に、世界が滅びているなんて、誰が想像できるだろうか。
できる人間がいるなら教えてほしい。

「ところで。」

シエルは問いかける。

「お前の名前を教えてくれないか。」

名前。
そう問われて、男は首を傾げた。
確かに今目の前にいる男には、シエル=カンフリエという固有名詞がある。名がある。
では、自分には。
自分の名は。固有名詞は、何だろうか。
記憶もなく、ただただ気付けば此処にいた人間である自分には、その質問を答えることはひどく困難であった。

「……わからない。」

それが、今できる男の精一杯の回答であった。


Part3 名を与えられた男と、国を創る男


シエルに、己の知る限り全てを話した。
此処は一面砂漠ばかりで、人がいないかを探して砂漠を歩き回ったこと。自分以外の人間は見当たらなかったこと。
そして、自分のことは一切記憶にないこと。
不審に思っただろう。怪しいと思っただろう。不気味と思っただろう。そう思ったけれども、シエルはふむふむと何度も頷きながら、こちらの言葉に耳を傾けていた。
そして。

「随分と、心細かったのだな。」

男はそう、呟いた。
その瞳は決して憐れんでいる訳ではない。優しい瞳でこちらを見つめたシエルは、自分のそれと比べると随分と鍛えられた大きな手で、頭を優しく撫でてくれた。
温かいのか冷たいのかよくわからない感触。
くすぐったくて、むず痒くて、しかし、不愉快なのかと言われれば、そういう訳でもなくて。

「よく、ひとりぼっちのこの地で、頑張ったな。」

その手の温度と、その言葉の温かさは、じんわりと、心の内に染みわたるようで。
ただただ、嬉しかったのだ。

「じゃあ、お前が来た経路とは少し反対側を歩いてみよう。もしかしたら、何かあるかもしれない。」

シエルは笑いながらそういうと、青年に元来た道を尋ねた。砂漠を指で示せば、風で新たな砂が覆われつつある、足跡でくぼんだ砂地が見える。

「此処から右側を歩き続けた。」

と、そう語れば、シエルは豪快に笑いながら。

「じゃあ次は左側でも歩いてみるか。」

と、そう言った。
船から食糧や毛布等が積まれた荷物をよいしょと背負った彼は、足跡がない左側へと歩を進み始める。
シエルの背中を、待てと青年は呼び止めた。

「……荷物、私にも少し持たせてくれないか。お前だけに持たせるのは、気が引ける。」
「そうか?言っておくが私はそういう類には遠慮をしないタイプだぞ。」

そう言ってシエルは笑いながら、荷物の半分を手渡した。
彼の見様見真似で荷物を背負うと、身体にズシリと重みを感じる。体重以外の重みを支えるという経験が初めてで、その重みに思わずバランスを崩しそうになったけれど、彼の手前、ぐっと堪えた。
しかし、堪えていることがバレバレであったらしく、彼はけたけたと、声を出して笑い始めたのである。

「わ、笑うなよ。」

そう反論してみたが、反論している自分もまた、笑っていた。
楽しいと、そう、思えたのだ。
この砂地は、昼間は熱い。そして、夜は冷える。恐らくただの人間なのであろう彼にこの砂漠の地で長時間の滞在は酷なはずなのだが、それを問えば、問題ないと笑った。

「しかし、お前の名前がないのは厄介だな。いや失礼、悪いとは言わないのだが……やはり呼ぶのには些か不便だ。」
「私は苦労しないが。」
「そうは語るがな。……そうだ、不愉快でなければ、私がお前の名をつけてもよいか?」
「……別に、不快ではないが。」

名前を考える。
そう言われた時、少しどきりと、心臓が跳ねた。
自分の名前は相変わらず思い出せないし、思い出すことは二度とないような気がした。
故だろうか。
新たな名前を無意識ながらに求めたのは。
男は少し悩むような仕草をして、しかし、すぐにうんと頷いて、彼は青年の名を決めた。

「お前はシャマイム。」
「……シャマイム。」
「私の母国ではないのだが、古い言葉で、“空”という意味を持つ名前だ。お前の髪と瞳は美しい空の色をしているからな。……どうだろうか?」
「シャマイム。」

何度も、彼の名付けた名前を口にする。
シャマイム。
空を意味する名。
空に広がる天色と同じ髪と瞳を持つ、己に与えられた名前。
胸が温かくなるのを感じる。穏やかな気持ちでいられる。自分が、『シャマイム』という固有名詞を持った人間の一人として生まれ直したことに対する喜びで、跳ねる心臓が身体をぐっと熱くした。

「素晴らしい名だ。もらってもいいのか?」
「嗚呼。いいとも。寧ろ逆だ。もらって欲しい。」
「当然だ。」

シャマイム。シャマイム。シャマイム。シャマイム。
何度も胸の中で、己の名を唱える。空というその名は、自分の魂に妙に馴染んでいるような気がした。
それが何故なのかはよくわからないけれど。

「私は、シャマイム。」

そう呟いた自分の顔の筋肉が、痛い。
嬉しさのあまりに口角が持ち上がり、顔の筋肉をこれでもかというほどに酷使している故であった。

「見ろシャマイム!」

突如、シエルが声をあげる。
その声は高揚していて、興奮していて、一体何があったのだろうと思うと、シエルが、あれを見ろと指差した。
そこは一見すると、ただの砂漠だ。
ただの砂漠だが、砂漠の中に、僅かに、緑色が目に映る。
恐る恐る二人で近付いてみると、青い若葉が、そして、桃色の蕾が、その大地から芽吹いていた。

「……緑だ。」

ぽつりと、シエルが呟く。
こんな砂漠の中に、緑がある。在り得るようで、在り得ない、緑の色。
それは、この大地が生きているということを、証明しているかのようであった。
興奮するように息をしていたシエルが、大きく、深呼吸する。そして、平静を取り戻した穏やかな顔で、シャマイムのことを、じっと見つめた。

「シャマイム。私はお前との出会いに感謝をしたい。」
「……感謝?」
「嗚呼。見知らぬ地でお前という友に出会えたこと。そして、この地に私を導いてくれたこと。」
「……導いた?」

シエルは頷く。

「お前の声が在ったから、私はその声を聞いてこの地に降りた。シャマイム。先程私は語ったな。世界は崩壊し、各地で大気が汚染されている、と。」

シャマイムは頷く。
しかし、と、シエルは大きく手を広げて、目の前に広がる砂の大地を眺めた。

「私が今まで巡った地は、どこもかしこも大地が荒れ、大気も水も、全てが汚染されていて、人が暮らすには不適切な場所ばかりであった。この地は確かに草木が少ない……だが、芽吹いている場所がある。この地はまだ、汚染で浸食されていないんだ。」
「浸食されていない……」
「そうだ。まだ海しか見当たらないが、きっと水も僅かなら見つかるだろう。草木が生える可能性があるこの土地ならば、人が住める。人が住めれば、開拓が進む。この地はもっと、もっと、よくなっていく。」
「よくして、どうするんだ?」
「国を創る。」

あっけらかんとした顔で、シエルはそう答える。
きらきらと輝く紫色の瞳が眩しくて、その瞳の中にある白い光は、夜明け前に輝く星のようであった。

「私はここに国を創る。世界が滅び、生き残り、居場所をなくした人々が、寄り添って、支え合って、生きていく。そんな理想郷を、私は創るんだ。」
「……理想郷、か。」

傍から見れば、シエルは夢も物語を語っている青年に見えるだろう。
しかし、シャマイムは少し、確信があった。
この男が近い内に国を創り、その国を統べる者になるであろうことを。そして、その国はきっと、人々が穏やかに暮らすことが出来る素晴らしい場所になるであろうことを。

「嗚呼。もう国の名前も決めている。」
「随分と気が早いな。私に教えてくれるか?」

シャマイムが問えば、シエルは、その質問を待っていたと言わんばかりに、目を輝かせる。
そして、ゆっくりと、口を開いた。

「アルフライラだ。」

 
 

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