鐘の音が鳴る前に。


本編



胸に食い込む杭を眺めて、不思議と、小鳥遊浮は、その痛みを感じてはいなかった。
痛みを感じることが出来ぬくらいに、自分はもう、人ではなくなってしまったのか。それとも、この杭を作った主の、せめてもの優しさなのか。
胸から零れる赤い液体は、ぽたぽたと、床に滴り落ちては消えていく。
床を彩ることのない血液を見て、嗚呼、自分は、もうこの世の者ではないのだと、だから、この空間に残せるものはないのだと、そう、痛感させられた。

「……お前だったんだね。」

口に込み上げてくる血液の不快感を押さえながら、しかし、痛みがないせいか、言葉はすんなりと出た。
震える細腕で小鳥遊の身体を杭で貫いた女は、その瞳から、雫を零している。
手を伸ばし、涙を拭うと、親指に、濡れた感触が伝わり、触れることが出来たというその事実にほっとしている自分がいた。
自分は今、どんな感情をしているだろうか。頬の筋肉が少し疲れているから、笑っているのかもしれない。

「女って、変わるね。気付かなかった。」

人の顔を覚える術は、長けていると思った。
いくら自分を貶めた人間だったからといっても、唯一自分に関心を示していたからだといっても、自分を虐めていた元同級生たちや、目の前の元副担任の男のことが、すぐわかったのだから、人の顔を覚える才はあると自負している。
けれど、目の前の女には、八月朔日皐には、すぐには気付けなかった。
よく見れば十年前と同じ、泣き虫な女の面影があるけれども、あの時よりも顔立ちはやはり綺麗になったし、髪型も変わっているのだから、わからなかったとしても仕方がない。
女は変わる。
いや、違うか、と、小鳥遊は呟く。

「女が変わるんじゃない。……人が変わるんだね。」
「ごめん、なさい、浮くん……私、私……」
「何でお前が謝る訳?相変わらず泣き虫だし、そういうの、うざったいよ。」

そう言って、彼女の頬を少し、摘まんでやる。
柔らかい白い頬。
思えば、こうして、死体以外の肌にまともに触れたのは久々だ。
否、全く触れない訳ではなかったけれど、こんなにも穏やかな気持ちで、人に触れることが出来たのは、何時以来だろうか。
生前でも、こんな、穏やかな時を過ごしたことは、なかったかもしれない。

「……アンタは、さ。笑った顔の方が似合うんだから。笑って、僕を見送ってくれないかな。」

それが、自殺志願者に対する、アンタの唯一の餞なんだから。


第17話 小鳥が籠から羽ばたくとき


「小鳥遊!」

宰は、声を上げる。
八月朔日の頬にその手を伸ばしたままの小鳥遊は、ふと、顔を持ち上げて、宰たちのことを視界に捉える。
その表情は、先程険しい顔をして、こちらを殺そうとしていた彼とは別人のものであった。
宰は、そこから言葉を続けようとして、躊躇う。彼に何と言えば良い。
悪い。すまなかった。助けられなくて。償いたい。せめて安らかに。違う、違う、違う。どれもこれも近いけれど、正しくない。
何て言えば。そう思っていると、くす、と、彼の笑う声がした。

「ひっどい顔。……なんも要らないよ。僕だって、何も言うつもりない。正直、アンタのことなんてどうでもいいし、アンタに謝られても仕方ないというか、さ。恨んでも憎んでもいないし。アンタのことは。」

穏やかに笑う彼は、杭の刺さった胸元から朱い血を流しながら、けれど、それに動じることなく、眠たそうに欠伸をする。
眠気眼で目を擦る彼の手は、足は、淡い、白い光に包まれていて、杭からは翠色の植物が伸び、彼の身体を包んでいた。

「眠いなあ。僕もこれで、ようやく死ねるのかな。そういう面では、アンタたちにはお礼を言わないとね。これでようやく死ねるんだから。これでようやく、僕も救われる。」
「……小鳥遊……」
「僕、持論を曲げるつもりはないよ。僕にとって、死は、間違いなく救いだった。だって、死ねば何もないんだから。ほら、交通事故がいい例じゃん。いろんな人を巻き込んで、殺して。生きていれば社会的責任は免れないし多くの人に罵られて晒しものにされて、それこそ死ぬよりもひどい目に合うだろうけど…死ねばそれまでだ。責任を問われることなんてない。責任なんて問えない。本人は所謂死に逃げみたいなもんだ。僕の両親を殺したやつが、そうだったように。」

あーあ、と、彼は、深く、深く、溜息を漏らす。
口元は笑っている。表情も穏やかだ。けれど、その溜息は、彼の涙の代わりのように見えた。
どうやっても涙を流すまいとする彼の、精一杯の、強がりに。

「僕も、あそこで、死んでればよかった。」
「浮くん!……そんな、」
「そんなこと言わないで、って?それは無理だよ。引き取ってくれた親戚もろくな人間じゃなかった。友人にも恵まれなかった。思えば僕は、あの時、ある意味一度死んだようなものだったのかもしれないとすら思う。死んで、地獄を這いずり回って、また死んで、今度は十年、この店で……そうなると、此処でまた死んで、次目が覚めたら……そうだな、罪人たちの魂の牢獄にでも、堕ちているかもしれないね。」

でも、それならお祖父さまにも会えるかな。そう言って、小鳥遊は、声を出して、笑う。
彼を見るエイブラムの表情は、何とも形容しがたいものであった。

「……お祖父さまを見送って、僕を見送って。感想はどうだい?」
「お前といい、祖父のアイツといい、ほんと、他人に迷惑をかけて死んでいくな。少しは慎ましやかに死んでくれ。」
「はは、酷いの。」
「まあ、アルバの方がまだマシだったと言っておく。お前はホント性質が悪い。さっさと成仏してくれ。あの世で奴の茶飲み相手でもしていろ。……アイツも、紅茶が好きだった。」
「ミルクティー、好きかなあ。」
「どうだろうな。紅茶なら等しく愛した男だ。きっと、理解してくれるさ。」
「砂糖とミルクたっぷりは?」
「それは……どうだろうな。菓子作りが趣味の男だったから、甘いものは或る程度、好きかもしれないが。」
「……僕のこと、嫌わないかな。」
「さっきまで、高々と祖父なら理解してくれる、と豪語していたのは何処のどいつだ。安心しろ。例え性根が腐っていても、罪を犯したとしても、……孫が可愛くない祖父はいないさ。同じ“祖父”である私が言うんだ。保障しろ。」

そう言って、エイブラムは、にやりと口の端を持ち上げて、笑った。
彼のその顔を見て、小鳥遊は、ほっとしたように、安心したように、今にも泣き出してしまいそうな顔で、笑う。

「ねえ。そこの白い死神。」

びくりと、さえるが顔を上げる。
自称死神少女のさえる。何故、彼女が死神を自称しているとわかったのだろうか。少なくとも、小鳥遊に、さえるの事情はわからないはず。
けれどその理由は、彼自身の口から容易に語られた。

「あはは、やっぱり。僕も昔は人殺しとか、死神とか、言われててね。だから、わかるんだ。……君もそう言われたり、投げやりに自称した口だろう。顔を見れば、わかる。」
「似た者同士なんだね。私たち……」
「そうだね。似ている。けど、僕と君じゃあ、違うところがいっぱいだ。」
「いっぱい?」
「そう。例えば、僕は死こそが救いだと言うけれど、君は生こそが救いだと言った。死にたいと言う人間がいれば、君はそれを止めたけれど、僕はそれを手伝った。僕が黒い死神なら、君は白い死神だ。僕と同じ死神だけれど、僕とはきっと、真逆にある。そして君は……本当の救いを、手に入れた。」
「本当の、救い……」
「君にとっての救いが何か、君自身がわかっているだろう。恋だの愛だのを口にするのは僕の流儀ではないし、恥ずかしいことこの上ないけれど、人を人たらしめるのも、人を生かして殺すのも、全て、愛があってこそだ。愛に正解も不正解もない。けれど、君の場合……そうだね、生きるための息吹となる、素晴らしい、百点満点の愛という名の果実を手にしたはずだよ。僕も、もう少し早く気付いていれば、違う結末があったのかもしれないけれど。」
「恥ずかしいこと、言うんだね。」
「なんとでも言ってくれ。でも……君が死神と呼ばれることは、きっと、もうないさ。」
「どうして?」
「どうしても。」

ふあ、と、小鳥遊は口を大きくあけて欠伸をする。
眠たそうな顔をする彼のその様は、とてもではないが、これから命を終える人間の様には見えない。
このまま、ただ、眠ってしまうだけなのではないかとすら、思えてしまう。

「先生。そんな顔しないで。アンタ、人の顔覚えられないような性格の癖に、お人好し過ぎるんだよ。こんなとこまで来て、見届けて、さ。教師辞めて正解だって。アンタみたいなお人好しじゃあ教師は無理無理。……でも、まあ。」

小鳥遊は、ゆっくりと、目を閉じる。
もう目を開けているのも、疲れるのだろう。

「もし、生きてたら、生きて、十年経ってたら、教師になるのも悪くなかったのかもなあ。」

もし生きてたら。
死んでしまった今となっては、そんなこと言っても、仕方ないけれど。
でも、そうだなあ、と、小鳥遊は夢想する。
こうして、人々に見送られる最期というのも、悪くないのかもしれない、と。
死こそが救いであると、高らかに語るその想いに嘘偽りはないけれど。これほどまでに穏やかな死を迎えることが出来るというのは、その時点で、救いなのかもしれない。と。
死を夢見た自殺志願者は、死を望み続けた自殺志願者は。
ようやく。ようやく。ようやく。
自身が望んだのとは異なるけれども、それでも、最高と呼ぶに相応しい、「死」の瞬間を、迎えたのだった。

 


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