鐘の音が鳴る前に。


本編



影が、襲い掛かる。
ぐにゃりと形を変えたそれは、蛇のように、宰たちの身体に絡みつき、石のように重く、身体に圧し掛かる。
影に体重なんてあっただろうか。否、そもそも、影がこうして大きくなり、蠢くことなんて、本来なら在り得ないはずだ。
そんなことを、少し他人事のように思いながら、体重を支え切れなくなった宰の身体は、床に跪いた。
このまま、じわじわと、締め付けられるように殺されるのだろうか。安らかな死を提供するという彼のポリシーには反していると思うけれど、さえるによって彼は見事地雷を突かれたのだから、ポリシーを気にする余裕も、彼にはないだろう。

「宰、さん……私……」
「気にするな。」

と言いたいが、確かに、彼の地雷の上でタップダンスをする勢いであったあの言葉の数々は、些かまずかったかもしれない。
これではこちらの命が危ういし彼を止める所ではない。
しかし。

「俺は、よくやったと、思っている。」

死だけが救いではない。
だって、目の前の少女は、確かに、自分にとって、死以外の救いだったのだから。


第16話 救い


「だが、しかし、不味いな。この状況は。」

エイブラムの言うことは、正しかった。
この場にいる誰もが、小鳥遊の生み出した影によって、身動きが封じられている。
彼を倒す手段が、存在しない訳ではない。しかし、それは行動に移すことが出来ればこそ成立するものであり、身動きが封じられている今、成す術はなかった。
肩に、足に、ずしりとのしかかるそれは果たして本当に影なのか。視えない大蛇が、身体に纏わりついているのではないかと錯覚するほど、重圧感と圧迫感があり、息苦しい。
こちらがただただ苦しんでいる様を、小鳥遊浮は、感情を押し殺した瞳で眺めていた。

「僕の存在は消さない。消させない。ただ、忘れ去られて、生きているのかも死んでいるのかもわからない存在になんて、戻りたくない。都市伝説、いいじゃないか。みんな、みんな、死という甘い果実を欲してこの店を潜るんだ。みんな、僕に、救いを求めているんだ。だから、救うんだ。これまでも、これからも、ずっと、ずっと。」

小鳥遊はそう言って、微笑む。
柔らかい、温かな、慈愛に満ちた瞳。纏っている服故だろうか、その様はまるで、聖職者だ。
聖職者の衣を見に纏い、人々を救う。確かに、絵面としてはピッタリだろう。様になるだろう。しっくり来る。
しかし、救いを求める人々、手を差し伸べる人々に彼が与えるものは、聖職者として与えるには、正反対のものなのだ。

「お前の……」

絞り出すような声。
床に膝をつき、今にも崩れ落ちそうなその身体を何とか支えているエイブラムは、荒い呼吸をしながら、小鳥遊の赤い瞳を見つめていた。

「お前の、祖父は……お前が、こんなことをするのを、望んでは、いない……」

腕を組んでいた小鳥遊の、指がぴくりと、動く。
家族の写真だけは、大事に飾っていた、古びた屋敷。一人取り残された男は、きっと、今もまだ、家族という存在に焦がれている。
一瞬だけ歪んだ彼の表情が、それを物語っていた。

「……お祖父さまは、きっと、理解してくれる。僕が求める救いを。僕の理想を。きっと、理解してくれる。お父さまやお母さまだって……きっと、わかってくれるよ。」

わかってくれる。そう呟く小鳥遊の顔は、それとは裏腹に、まるで祈るような、願うような顔をしていた。
死人に口なし。
身内可愛さに、確かに彼の祖父は、父は、母は、彼の悪行に目を瞑ってしまうかもしれない。見逃してしまうかもしれない。
それでも、と、エイブラムは声を上げる。

「お前の祖父は、誰よりも、神器の恐ろしさを知っていた!故に、封印したんだ!お前が神器を悪用することも、お前がそれで多くの人を苦しめるのも、アルバは望んでは……!」
「うるさい!」

エイブラムの言葉を妨げるかのように、小鳥遊は、声を荒らげる。
聞きたくないものに耳を塞ぐように、今にも地団駄を踏みそうな勢いで、彼の叫び声はこの空間を支配した。
黒い影は、エイブラムの四肢に伸びて絡みつく。
締め付けられるような圧迫感で、言葉を失う彼の表情は、苦痛で歪んでいた。

「祖父様……!やめろ!これ以上のことをしたら、死んでしまう!年寄りは優しくしろと学ばなかったのか!」
「さて、ね。学んだかもしれないし、学ばなかったかもしれない。でも、確かにそうだ。年長者には敬意を払わないとね。しかも、この人は……お祖父さまを知っているようだし。それなら、丁寧に、きちんと、安らかに逝かせてあげないと。」
「やめっ……!」

黒い影が、エイブラムの喉元まで伸びていく。
首の骨を折るつもりか。それとも窒息させるつもりか。
どちらにしても、四十代の自分ですら、この影の存在は重く、苦しいというのだから、宰よりもずっと年長者であるエイブラムに、どれほどの負荷がかかっているかは想像に容易い。
エイブラムに何かあっては、困る。
小鳥遊にこれ以上罪を背負って欲しくないし、共に来てくれた幼い少女に、人の死を、これ以上、見せたくもない。
その時。

「お願い、もう、やめて。」

この部屋に足を踏み入れてから、ずっと、沈黙を守っていた女が、声をあげた。

「もうやめて。浮くん。」

ぽろぽろと、その瞳から透明な雫を流しながら、八月朔日が呟く。
彼女を視界に捉えた小鳥遊は、その瞳を大きく丸めて、まるで彼の周囲だけ、時間が止まったかのように硬直した。
彼が硬直したと同時、身体が、ふと、軽くなる。
影で覆われていた部屋が明るくなる。その時、宰たちの目の前を、一つの影が、駆けた。
喪服のような黒いスカートを翻して、亜麻色のウェーブのかかった髪を揺らして、瞳から零れ落ちる涙を散らして。
いつの間にか手に取っていたその杭で。

「ッッ……!」

八月朔日は、小鳥遊浮の胸を、貫いていた。

 


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