鐘の音が鳴る前に。


本編



「いらっしゃい。悠久休暇へ。」

そう言って、両手を広げて歓迎して来た青年は、赤い瞳を細めて柔らかく笑う。
けれどその笑みは、貼り付けられた、薄っぺらいそれであった。そこに、喜びや昂ぶりといった感情は込められていない。
筋肉を使って口の端を持ち上げた、ただそれだけの笑顔だ。
無味無臭。笑顔というものには味も臭いもないけれど、そう形容するのがピッタリな笑顔であった。
服から露出された白い手。その指は骨と皮だけなのではないかと思う程に細い。
その細い指を顔に近付けて、口元を隠すようにして、この店の店主である男、小鳥遊浮はくすくすと喉を鳴らした。

「驚いたよ。玄関から直接入って来たお客さんは、貴方たちが初めてだ。」
「……お前が、店主の……小鳥遊浮か。」

感嘆の声をあげる小鳥遊に、エイブラムが問いかける。
彼の問いかけに、小鳥遊は首を大きく縦に振った。これは、肯定と受け取っていいだろう。

「そう。僕は小鳥遊。小鳥遊浮。これまた驚いた。僕の名前を知っているんだね。何処で知ったのかな……僕みたいな、十年以上も前に死んだ人間のことなんて、気に留めるような人はいないと思うんだけど。」

そう言って、小鳥遊は首を傾げる。
指だけでなく、首も細い。手を伸ばして、この両の手で彼の首元を覆ったならば、容易く折ることが出来るかもしれない。
それ程の、小鳥遊の首は細かった。きっと、その祭服の下に隠されている腕も、足も、胴も、指や首と同じように、細く白いのだろう。
身体付きや顔付きは青年のそれだというのに、不思議そうに首を傾げる仕草は何処か幼さを醸し出す。
それは、彼の大きな瞳故に形成されている童顔のせいか。それとも、本来十六歳で亡くなったという、当時の享年のまま、心の時が止まったせいか。
恐らく、両方なのだろう。

「遺してくれた者がいてな。」

エイブラムはそう言って、ひらひらと、手に持つ黒い手帳を振る。
その手帳をじっと見つめていた小鳥遊は、何のことかと首を傾げたけれども、すぐに合点がいったのか、嗚呼、と言葉を漏らした。

「あの客人かあ。僕のこと、やたらと調べたもんね。まあ、蓋を開けたらびっくり、同級生だったんだけど。……貴方も、僕のことを知って、会いに来たのかな。お兄さん……否、先生?」

突然、こちらへ向けられた笑顔を目にして宰は思わず身を震わせた。
心臓が高鳴る。
お兄さん。そう声を掛けられて、ふと、思い出した。仕事の帰り。人気のない駅のホーム。
そこで、死を望み、電車を待っていた、全身真っ黒な青年。

『お兄さん、僕が視えるの?』

その時、青年が宰へ向けた言葉。
今なら納得できる。本来であれば、小鳥遊は死者だ。簡単に視える存在ではない。
納得をしつつも、当時出会った青年に、見覚えすら抱けなかった己の記憶力なさにはほとほと嫌気が差す。
どくんどくんと高鳴る心臓の音がやけに煩い。この心音は何なんだ。止まってしまっては死んでしまうので、止まれとは言わないが、少しは落ち着けと言ってやりたい。
何故こんなにも高鳴るのか。
彼を助けられなかったという後悔が。当時の己の無力さが。今更、恐怖を招いているとでもいうのだろうか。
彼との再会。それは謂わば、己の罪との再会でもあったのだから。

「宰さん。」

その時、囁くような、小さな声が、耳に届いた。
小さな、幼い、細い手が、宰の手を握る。その手の温もりは、年相応の幼さ故なのだろう。

「大丈夫。」

そう言って、少女は、さえるは微笑む。
気付けば、異様に高鳴っていた心音が、とくん、とくんと、規則正しいリズムへ戻り始めていた。


第15話 死と生の対峙


「そんな怖い顔しなくてもいいよ、先生。僕、別に先生のこと恨んでる訳じゃないからさ。」

小鳥遊はそう言って、くすくすと、貼り付けられたような笑みを浮かべたまま、喉を鳴らして笑う。

「ただ、残念。先生は、僕の客人として来てくれると思ったのに。先生のことなら、僕、二十四時間、三百六十五日年中無休で歓迎したのにな。」

僕の同志になれそうだったから。
そう呟く彼の瞳には、色がない。
憎しみも。悲しみも。苦しみも。後悔も。怒りも。それだけでなく、喜び、期待、高揚、そう言った類の色すら、その瞳には彩られていない。
血のように赤い瞳は、まるで、底なし沼のようにすら、感じさせられる。
かつての自分であったならば、この、不気味で、心地の良さそうな底なし沼に沈んでいったのかもしれない。けれど、今日の自分は、底なし沼に沈みに来た訳ではない。

「何故?」

小鳥遊にそう語り掛けたのは、さえるだった。
幼い少女は、光の灯った大きな瞳で、小鳥遊を見据える。深く生い茂った緑の中で、ようやく見つけることの出来た泉のような、彼とは正反対の、澄んだ瞳を持つ少女は、強い意志をもって、小鳥遊浮に問いかけた。

「何故、こんなお店を開いたの?何故、人が死ぬのを助けるの?人が死ぬのは、悲しくて、苦しくて、辛くて、とても、とても、嫌なものなのに。どうして、貴方は人が死ぬのを助けるの?」

さえるの、絞り出すような、悲痛な思いの籠った問いかけが、部屋に響く。
宰には、その辛さがわかっていた。何度も何度も、彼女は、死という鐘の音を聞いただろう。何度も助けようと、もがいただろう。きっと、自分のように、助けることの出来た人間の方が、少ないはずだ。
鳴り響く鐘を聞いて。消えゆく命を前にして。何度、彼女は絶望しただろう。涙を流しただろう。
それは想像することが出来ない。だって、その音を聞けるのは、彼女ただ一人だから。
しかし、だからこそ、彼女は、痛みを、嘆きを、絶望を、何度も見届けたからこそ彼女は、目の前の男に問いかけることが出来た。

「だって、死にたがっているんだから、助けてあげるのが筋だろう。」

彼女の叫びは、目の前の男に届くことはなかったけれど。

「彼等にとっては、“死”こそが、救いなんだ。人はみんな、軽率に死んでは駄目だとか、死ぬ前に助けを求めてとか言うけどさ、そんなの、あまりに無責任だ。生きるって、そう簡単じゃないんだよ。頑張る気力も、努力する気力も、生きる気力も何もない。ただただ楽になりたくて、そのために一番楽な道こそが、死なんだ。」

彼の口から、饒舌に、言葉が紡がれる。
その言葉を紡ぐとき、青年の瞳に、僅かな光が灯った。

「人は様々な理由で、死にたいと思う。時には会社でのトラブル。時には家庭の不仲。時には親子のすれ違い。時には思い通りにいかないからという単純な理由の時もあるうだろう。そして、虐めを苦にして、死を選ぶ時もある。何も知らない者からしたら、疑問に思う死もあるだろうさ。会社でうまく行かないならば、転職をすればいい。家庭の不仲ならば、離婚を推奨する。親子のすれ違いがあるならば、話し合いを勧めるし、酷いケースならば児童相談所もあるだろう。思い通りにいかないならば、人生はそういうものだと説けばいい。……虐めだって、学校生活での数年間だ。耐えて、耐えて、卒業の時まで待てばいい。転校だってある。そう言う者は多いだろう。けれど、ね。そんなの、幸せ者のバカだから、言えることなんだよ。他人事だから、言えるんだよ。」

光が灯ったその瞳は、しかし、氷のように、冷たい。

「耐えて、耐えて、耐えて。その先は?その先に一体、何がある?その先に希望は保障されているのか?更なる絶望が待ち受けているかもしれない。打開するための労力がどれほどのものか、想像したことがあるかい?転職をしてうまくいくことなんて稀だろう。そもそも、次の仕事が見つかるまで、どうやって生活していく?親には、家族には、何て言う?そもそも過度な労働や精神的な重圧から、自分の価値を見出せなくなって、新たな扉を開く気力なんて削がれているだろうさ。じゃあ、離婚は?今まで働いていたならいいさ。けれど、女という生き物は弱い。ひどく、か弱い。社会に出たこともない女を、労働というものを知らない女を、社会はどれだけ助けてくれる?否、助けてくれたとして、社会にまともに出たことがない者ならば、社会という新たな世界に足を踏み込むことが、どれほど困難なものか。……虐めだって、大人から見たら小さな箱庭でも、子どもたちにとっては、そこは、一つの世界だ。」

一つの世界。
彼が呟くその言葉は、ずしりと、重く、息苦しさを覚えた。
彼の言葉が紡がれる度。放たれる度。身体が、冷たくなっていく。光の見えない、真っ暗な深海に沈められていくようだ。
息が、苦しい。

「それ以外の世界は知らない。例え、この先に続く何年、何十年という人生と比べれば一瞬の、蝶の瞬きのような時間であっても、当事者にとっては永遠に続く地獄のような世界だ。いつ終わるのかわからない。明日終わるかもしれない。数年経てば終わるかもしれない。けれど、ね。今、苦しいんだ。僕は、僕たちは、今、苦しいんだよ。苦しいから楽になりたい。頭が痛くなれば頭痛薬を飲むだろう。それと同じさ。僕はそれと同じように、人々に死を与える。求めるままに、求められるがままに、僕は、彼等に死という甘い果実を、薬をばら撒く。皆、それを望んでいる。数多くの同志がいるからこそ、僕という存在は、悠久休暇というこの店は、成り立っている。」
「けれど、そんなの、間違っている。」

さえるの言葉に、ぴくりと、小鳥遊の眉が動く。
その時、笑顔を貼り付かせたその顔から、ふと、笑顔が消えた。無表情。けれど、その無表情の顔からにじみ出る、怒り。
パキンと、固く硬く堅く難く塗り固められた仮面に、ヒビの入る音がした。

「人は、生きるべき。生きなければいけない。確かに、今目の前にあるのは絶望かもしれない。黒くて、どろどろとしていて、ぐちゃぐちゃで、希望なんて全くなくて、底なし沼のような世界で、いつ終わるんだろう、いつ終わってくれるんだろう、このままならいっそ楽になりたい、そう、思ってしまうような世界で苦しむことは、あるかもしれない。ううん、きっと、ある。でも、永遠の嵐なんて存在しない。どんなに嵐が吹き荒れても、風が、雨が、雷が、この身体を傷つけても、いつか、それは止む。晴れる時は、きっとある。その僅かな希望のために、その希望を見るために、私たちは、生きなければいけない。だって、死んだらそこで終わりだから。そこで終わってしまうならば、どうせ終わってしまうならば、終わる前に、足掻いて、足掻いて、生きるべきだよ。」

それにね、と、さえるは更に、言葉を続ける。

「最初から死にたい人なんてきっといない。みんな、みんな、生きたいんだよ。死にたい人間なんていない。みんな、死ぬしか道がないって思うから、死にたいってなるんだよ。もし、死ななくて済む方法があるならば。生きる方法があるならば、きっと、生きたい。生きていきたい。だって死ぬなんて苦しい。辛い。痛い。誰だって生きていきたい。私だって、生きたい。だから、このお店に来る人たちは、死を望みながらも、生という僅かな希望を捨てきれずに、迷いながら、此処にたどり着くんだよ。……だから、最後の希望さえも奪う貴方のやり方は。死でしか救済はないという貴方のやり方は、間違っている。」

だから、貴方を止めなければならない。
さえるは、真っ直ぐ、彼を見据えて、胸を張って、そう告げた。
そんな彼女の後姿を、宰は、呆然としながら眺めていた。彼女は、こんなにも饒舌に話す子だっただろうか。
普段の彼女はもっと無口で、喜怒哀楽も少なくて、否、でもそれは、出会ったばかりの彼女の話だ。
では、いつ、彼女は変わったのか。
いつという、明確なものはない。けれど、間違いなく、彼女は変わった。変わっていった。多くの死を、絶望を、鐘の音と共に越えて、越えて、越えて。
その先を見て、彼女は、生きるということに、彼女なりの答えを見出したのだろう。
宰が彼女と出会い、死という逃げ道に走らなくなったように。彼女もまた、宰と出会い、過ごしていくことで、変わっていたのだ。

「……貴殿の気持ちは、わからなくもない。けれど、そんなものは、倫理的には、赦されない。」

さえるの言葉に重ねるように、否定の言葉を、読が投げかける。
無味無臭の、貼り付けた笑顔を取り除いた小鳥遊の顔は、無のままだ。けれど、その無の瞳の中に、宿る光の中に、一つの感情が、視えた気がした。
怒りという、とても単純で、けれど、多くの思いが渦巻く、嵐のような感情が。

「……どうして。」

ぽつりと、小鳥遊が呟く。
その問いかけは、誰かに向けたものではない。
自然と、雫のように零れた言葉。

「どうしてだ。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして……!どうして!君は!君たちは!僕のことを否定する?僕を否定する?死を望んで何が悪い!死にたくて何が悪い!死にたいと嘆く同志を助けて何が悪い!お前にわかるか?お前達にわかるか?わからないだろうなわかる訳がないわかってたまるものか!僕が!僕たちが!どれだけの絶望を抱えて、背負って、耐えきれなくなって、立ち上がれなくなって、涙を流しても!……お前たちは、見て見ぬフリを、するだけじゃあないか。」

叫んで、叫んで、叫んで。
喉から絞り出すその叫び声は、今まで、笑顔の中に隠していたものが、鍵をかけて、大事に大事に抱えて、隠して来たものが、一気に、溢れ出ているようであった。
十年分の、恨み。悲しみ。怒り。憎しみ。
叫んでいるのは、悠久休暇店主の小鳥遊浮ではない。
十年前に、命を落とした、当時十六歳の、小鳥遊浮であった。

「僕には、これしかない。これしかなかった。だって、僕は死ねない。死なない。死ぬことが出来ない。永遠に誰にも認識されない、地縛霊以下の哀れな亡霊。生きることも死ぬことも許されない。そんな僕の存在意義って、何?僕って何?僕って誰?この店が、この場所が、僕の存在意義。僕の在る場所なんだ。僕は、僕という存在を守る。守りたい。……だから。」

刹那。
彼の足元でぽつりとその存在を示していた黒い影が、大きく広がる。
大きく広がったその影は、その部屋全体を覆うように、黒く、黒く、浸食していく。
その様を、宰たちは、呆然としながら、見つめるしかなかった。

「僕は、多くの同志を救うために、僕という存在を守るために、君たちを、殺す。」

だって、生に救いなんてないのだから。
小鳥遊浮は、そう言って、口元に、引きつったような笑みを浮かべた。

 


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