鐘の音が鳴る前に。


本編



あの日は、職員室でテストの採点をしていた。
赤字で、○、×、○、×、淡々とした作業ではあるけれど、骨の折れる作業でもある。
その中で、一人、全問正解の満点を出した生徒がいた。

「相変わらず、変な名前だよな。」

誰に言うでもなく、ぽつりと呟く。
小鳥遊浮と書いて、タカナシスギル。浮をスギルと読むのだから、これは、初めて会う者であれば間違いなく読めないであろうと確信出来る名前だ。
そして、その名の通り、小鳥遊浮はクラスから浮いていた。
他の、世間一般で言う「普通の生徒」とは生い立ちの異なる彼は、クラスの者達にとって、良い標的だったのだろう。
クラスの中で、決して行われてはいけないことが行われているということは、薄々、気付いていた。担任にも、何度か進言はしていた。
ただ、肝心の担任は、うちのクラスに限ってそんなことはないだとか、お前は俺の担任の座が妬ましいんだろうとか、そんなことを言うばかりで、全く話にならなかったけれど。
別に、担任の座が妬ましいとか、そんなことはない。
生徒一人一人と関わらなければいけないとか、正直コミュニケーション能力が欠如している自分には苦行だし、その癖に何で教師になっているんだと毎日自問自答している。
でも、それでも、誰か一人が、周囲から排除されるような、そんな小さな社会を形成させることを良しとする学び舎が、本当に正しいものなのかと。
ただ、ただ純粋に、そう思うが故であったのだ。
担任に進言するだけで、ますます小さな社会の迫害が、虐めが、悪化してしまったらと思うと、それ以上の行動に移せない自分自身にも、嫌気をさしていたのだけれど、

「せ、先生!誰か……誰か……!」

ガラガラと、職員室の扉が開けられる。
副担任を受け持つ生徒が三人、真っ青な顔で、職員室に流れ込んで来た。
その様から、明らかに異常事態だということは、よくわかる。
とんとんと、担任が、宰の身体を肘でつついた。

「萩野先生。」

お前が行って来い。そう言いたげな目であった。
普通であれば、担任であるお前が行くべきだろう。そう言いたくて仕方なかったけれど、渋々、宰はテストの採点を切り上げて、席を立つ。
そうして、こっちこっちと呼ぶ生徒の背中を、あの、悪夢への一本道を、歩んでいったのである。


第8話 少女の鼓動


件の女子高生の事件が起きてから、数日後。
テレビでも、新聞でも、新たなニュースが報道されていた。
十年前の男子高校生転落事件。その目撃者であった生徒の一人が自殺をしたと、報道されたのだ。
当時の目撃者である生徒は三人。
他の二人も、既に数年前に変死体として発見されていて、目撃者であった元生徒三人全員が、今回の女子高生と同じように、外傷のない美しい死体として発見されたという。
女子高生の死亡事件から、十年前の事件が掘り起こされ、更にそこから、当時の目撃者であった元生徒三人が死亡していたということが明らかになったのだから、もう、あの学校は駄目だろう。
学校だけではない。
当時担任をしていた教師も、同じように死体で発見されるのは時間の問題だろう。そうすれば、報道の矛先は、間違いなく宰に集中する。
必然的に、さえるを巻き込んでしまうことになるだろう。
何も知らない、この幼い少女を。

「……さえる。」

しばらく、施設に戻った方が良い。その方が安全だ。マスコミに面白おかしく報道されてしまう可能性を防ぐためにも、その方法が最善だ。
そう、言いたい。言いたいのに、それ以上、言葉が出ない。
言葉を出せず、躊躇っていると、さえるは、首を傾げて、曇りのないその青く美しい瞳でこちらを見つめて来る。

「宰さん。大丈夫ですよ。」
「……何がだ。」
「私は、何があっても、宰さんの傍にいるから。離れないから。ずっと、いるから。」

そう言って、さえるは、その手を伸ばして宰の手を握る。
小さく細い少女の手。真っ白な、庇護されるべき、か弱い手。けれど、その手は、温かくて、冷え切った心ごと包み込んでくれるようで。
幼い少女のその体温に、ひどく安心している自分がいた。

「……いてくれるか。」

言うべき言葉と、正反対の言葉。
傍にいて欲しい。支えて欲しい。そうすれば、立っていられると思うから。理不尽だらけのこの世界で。残酷過ぎるこの世界で。息をするのすらも辛いこの世界で。
まだ、光を見失わず、自分を見失わず、命を投げ出すことなく、大地に足を踏みしめて、立っていられると思うから。

「俺の傍に、いてくれるか。ずっと。」

そう問いかけると、さえるは、優しく笑った。
優しく笑って、嬉しそうに、頷く。その様は、少女というよりも、一人の女性のそれに近い笑みであった。

「ずっと、一緒にいますよ。宰さん。だから、大丈夫。大丈夫です。」

大丈夫。
そう言ってもらえたからだろうか。ほっとして、体中から、力が抜ける。
気付けば視界が少し歪んでいて、頬が濡れていて、その頬が濡れる感触が何なのか、理解するのに、時間がかかった。

「俺は、立派な人間じゃない。お前を幻滅させてしまうかもしれない。呆れさせてしまうかもしれない。それが、それが怖くて、ずっと、ずっと言えなかった。俺はお前に、胸を張れるような立派な人間じゃない。弱くて、情けなくて、人間の屑みたいな存在だ。助けたかった。助けてやれなかった。見ていることしか出来なかった。何も、何も出来なかった。俺は、俺は逃げたんだ。だから……」
「宰さん。」

さえるの声が、耳元で聞こえた。
彼女の顔が、耳元にあって。零れる吐息が、耳を擽る。温かくて、柔らかいものが身体に触れていて。
嗚呼、自分は今、抱きしめられているのかと。この幼い少女に、母にしてもらうそれのように、優しく、包まれているのだと、自覚をしたら、顔が燃えるように熱くなるのがわかった。
恥ずかしい。恥ずかしい。恥ずかしい。
いい年をした、四十代の中年親父が、泣きながら、幼い少女に抱き締められているなんて、絶対に周囲に知られてはならないことだ。
あってはならないことだ。
あってはならないことなのに。

「宰さん。」

囁くような、彼女の声。
とくん、とくんと、聞こえて来るのは、きっと、彼女の心音だ。

「宰さんは、私の言葉を信じてくれた。私のことを受け入れてくれた。私のことを、何度も、助けてくれた。」

嬉しかったと、少女は呟く。
その声は、涙ぐんでいるように思えた。

「ずっとずっと、付きまとっていた鐘の音。憎くて仕方なかった音。耳を塞いで、生きていたけれど、貴方に会って、貴方に受け入れてもらえて、私、少しだけ、胸を張れるようになれました。貴方が居てくれたから、この音が聞こえても、怖くなかった。助けられる命ならば助けてくれた。救えぬ命なら、共に見送ってくれた。それがどんなにうれしかったか。それがどんなに、私の支えになったか。貴方はきっと、知らないと思うけど。」

力強く、抱き締められて、息苦しくなる。
けれど、その息苦しさは寧ろ心地良くて、気付いたら、投げ出されていた両の腕は、彼女の身体を抱きしめていた。

「一緒に生きよう。宰さん。私、子どもだから。宰さんと違って、子どもだから。だから、すごくいいこととか、言うことなんて出来ないけど。でも、一緒に生きることは出来るよ。」
「そう。だな。」

十四歳の少女に慰められるなんて、我ながら情けないと、心の中で笑ってしまう。
けれど、この少女が傍にいてくれると言うのなら、共に生きてくれると言うのなら、前を向いて、生きていけるような、そんな気がしたのだ。

「さえる。行きたいところがあるんだ。」

だからこそ、今こそ、立ち上がろう。立ち上がらなければいけない。この少女と生きるためにも。
そんな気がしたのだ。
さえるも、宰のその想いを感じ取ったのか、宰を抱きしめていたその身体を持ち上げて、向かい合うようにして座りながら、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。

「うん。一緒に行こう。」

そばにいるから。
彼女のそんな言葉が、どれだけ支えになったことか。どれだけ力になったことかと。振り返って、語ることが出来るようになるのは、あと少し、先の話。

 


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