鐘の音が鳴る前に。


本編



「萩野宰さん、ですね?」

仕事が終わり、職場を出ると、声をかけて来たのは若い青年であった。
スーツで身を包んだ若い男の手には、メモ帳とボールペン。ボールペンを握る手にはペンだこが出来ていて、嗚呼、その手の業界の人間か、と、感付く。
あのニュースが起きたのだ。あの学校で、あの事件が。
であれば、萩野宰の身元を洗い、訪れるマスコミが居ても、不思議ではない。そう、確信していた。

「十年前の、男子高校生転落死事件のことについて、お話をお伺いしたいんですけど。」

十年前。
あの女子高生が自殺した学校で、男子高校生が屋上から転落死をするという事件が起きた。
当時も虐めを苦にした自殺ではないかと騒がれたが、結局、当時は、屋上のフェンスが腐食していたことが原因で起きてしまった事故として片付けられたのだ。
実際、現場検証した際に屋上のフェンスが、腐食した場所から破損した痕跡があったし、居合わせた同級生が、じゃれ合っていたら偶然フェンスに生徒がよりかかり、誤って落ちてしまったと証言したので、事故として扱うには十分であった。

「当時の副担任として。」

萩野宰は、当時、死亡した男子生徒が所属するクラスの、副担任をしていた。
十年前。彼は、教師だったのだ。


第7話 十年前のあの事件


「……私が話すことは何もない。」

宰が呟き、マスコミの横を通り過ぎようとすると、彼は待ってくださいと声をあげて、宰の手首を握り締めた。
他人に触れられることの不快感。締め付けられる痛み。双方の理由で、宰はその眉間にしわを寄せる。
今、この顔はとてもではないが、彼女には見せられない。それだけは、わかっていた。

「蒼ヶ崎学園での生徒死亡はこれで二件目です!今回、彼女は虐めを苦に自殺したそうじゃないですか!であれば、十年前の事件だって、本当は虐めが原因だったのではないですか?」

ギラギラとした、肉食動物のような瞳が刺さる。
この視線を浴びるのは、何年ぶりだろうか。十年前にも、同じような瞳に、フラッシュの光に、突き刺すようなマイクという刃に、何度、何度、心を突き刺されたことか。
何度、悪夢のような、あの日々を繰り返して来たことか。
握って来た手を振り払い、極力、平静を装うために、深く、深く、溜息を吐く。感情的になってはいけない。感情的になれば、それは、彼等の思うツボだから。

「今回の事件と、当時の事件は無関係だ。今回の事件が、虐めが原因の自殺であったとして、当時の事件も虐めを苦にした自殺であったと結びつける理由はない。」
「けれど!これで、学園側が少女の虐めを隠していたという、隠蔽体質が明らかになった訳ですよね?では、当時だって、そういった色が強かったんじゃないですか?否、十年前なら、益々強かったに違いありませんよね?」
「十年前は十年前。今は今だ。それに、私は十年前に教壇から降りた。もう教師でもなんでもない。十年前ならともかく、今がどんな体質かなんて知らないし、十年前とは関係ない。」
「でも、貴方は教師を辞めた。教師を辞めたということは、やはり、当時それなりのことがあったということですよね……?」
「事故として生徒が死んだ!監督責任をとっただけだ!ただ、それだけだ!」

もうやめてくれ。
そう言いたくてたまらなかった。
十年前に起きた、転落事件。十七歳の若い少年が亡くなった、痛ましい事故。
そう片付けられた。片付けられてしまった。どうしようも出来なかった。当時の無力感が、怒りが、身体と心を支配して来る。
握り締める拳が、濡れているような気がした。

「本当にそうですか?本当にそれだけなんですか?それであれば辞めるべきは担任のはず!担任ではなく副担任のあなたが辞めたのは、理由があったからじゃあないんですか!例えば、あなたが虐めを先導していたとか!」
「俺はッ……!」
「ストップ。」

言葉を続けようとした時に、ぴたりと、静止の声がかけられる。
その声をかけたのは、若い男であった。人の良さそうな柔和な笑みを浮かべた男は、にこにこと、マスコミの男に語り掛ける。

「君。この人はね、うちの社員だ。うちの社員に、社長である私に何の断りもなくインタビューなんて、酷いねえ。それに、会社の前でそんな大きな声で、虐めだのなんだの……いやあ、あまりにも失礼だ。うちの会社の評判が落ちたら、どうしてくれるのかな?これ、メイヨキソン、になるのかな?」

惚けたような、ほわほわとした笑顔と口調だが、言っている内容は刺々しい。
にこにことしていた表情が、ふと、真顔に変わる。嗚呼、この人は怒っている。それが、よくわかった。

「うちの部下の身は潔白だ。これ以上うちの部下を追いつめてみろ。覚悟は出来てるんだろうな?」

社長。寧ろ、それ以上はこちらが脅迫になります。
宰はそう続けたかったけど、言葉が出て来なかった。マスコミの人間は流石に分が悪いと悟ったのか、すごすごと、その場を後にしていく。
男の背中を見送りながら、宰は、目の前の社長に、頭を下げた。

「……すみません。社長。ご迷惑をおかけして。」
「いやいや、いいんだよ。萩野先輩が珍しく声を荒げてるなあって思ったら、あの人たちだったからね。俺としても、あの事件は極力掘り返して欲しくなかったからさ。あの時の先輩、見てられなかったし。」

この目の前にいる男、森谷一は、宰の大学時代の後輩だ。
一般企業に入社した後、大学時代の同僚と共に独立を考えていたところ、教師を辞めて塞ぎ込んだ宰の話を聞いてすぐに雇ってくれた男だ。
社会復帰は絶望視していたし、正直、あの時は今よりも自殺願望が強かったので、我ながらよく十年も生きながらえていたと思う。
と、いいつつ、つい最近、ビルから飛び降りようとしていたのだから、恩知らずにも程があると宰は心の中で自分を責めた。

「最近の萩野先輩、表情が柔らかくなってたから、だいぶ吹っ切れて来たのかな、って思ったのに……その矢先にあの事件だったから。」
「藤枝にも言われましたが……俺、そんなに、変わりましたか?」
「変わったよ。昔はなんか、もっと鬱々としたような、今にもキノコが生えて来そうな顔してたけど、今は少し、心に余裕がある顔してる。自分で気付かなかった?」
「……いえ……」
「いい人、出来たんじゃないの?」
「何言ってるんですか。社長は知ってるでしょう?」
「あはは、さえるちゃんだっけ。」

へらへらと、一はまた食えないような朗らかな笑顔で誤魔化して来る。
流石に上司である彼には、さえるを引き取ったこと、それが理由で深夜に渡る残業は難しいことは伝えていた。
流石に彼にも、さえるは遠い親戚という設定は貫いているけれども。

「萩野先輩の様子を見ていると、良い子なんだろうな、っていうのは伝わって来るよ。」
「……まあ、いいこ。ですよ。」

俺には勿体ないくらい。そう言いそうになって、その言葉はひとまず飲み込んだ。
あまり自分を卑下すると、この後輩であり上司である男はまた心配をするだろうし、下手な勘ぐりをされてしまっても、また墓穴を掘るだけな気がする。
けれど、本当に。本当にいい子なのだ。それだけは、胸を張って、主張することが出来る。
そっかそっか、と、一は笑って、ぽんぽんと宰の肩を優しく叩いた。

「ま、今日は災難だったね。萩野先輩。今日はもうあがるんでしょう?早く帰ってあげな。」
「あ、はい。すんません……失礼します。」
「後輩に敬語使わなくていいのに、先輩も律儀なんだから。」
「まあ、一応、上司ですし。」

宰がぎこちなく笑うと、真面目だねぇと、一は笑う。
後輩であり上司である彼に頭を下げ、背中を向けて歩くと、また、先輩、と宰のことを呼ぶ一の声が響いた。
振り向くと、一が、元気よく、手を振っている。
その様は、上司としてではなく、後輩としての森谷一であった。

「俺、先輩なら吹っ切れるって、信じてますから。」

そう言って、お人好しな後輩は、笑ったのである。
宰はそんな彼に、手をひらひらと振ってから、また背を向けて、帰路へと歩を進めた。
今、自分は、ちゃんと彼に笑いかけることが出来ただろうか。そんな自問自答を心に思い浮かべながら。

(ただ、森谷はああ言ってはくれたけど。)

あの事件からは、逃げられない気がする。逃げてはいけない気がする。
いつか、きちんと、向き合わなければならない日が、訪れるような気が、するのだ。
それも、近い日のうちに。
少なくとも、あのマスメディアの男に、それを打ち明けることは決してないけれども。

「……腹、減ったな。」

今は、その想いを全て誤魔化すかのように、そんなことを、呟いた。

 


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