鐘の音が鳴る前に。


本編



「うーん……」

会社から帰ると、さえるは机に教科書とノートを広げて、それらとにらめっこをしていた。
何をしているのだろうと覗き込めば、数学の問題を解いているということがわかる。学校からの宿題といったところだろうか。

「長さが20cmの蝋燭があって……火をつけると……うーん……」

ぶつぶつと聞こえる、さえるの声。
数学の文章問題に苦戦しているということがよくわかって、思わず、くすりと笑ってしまう。
こちらの気配に気付いたのか、くるりと振り返ったさえるは、恥ずかしそうに、少し居心地悪そうに顔を赤らめながら、おかえり、と呟いた。

「ただいま。どうやら、苦戦しているようだな。」
「む、むぅ……」

鞄を置いて、さえるの横に座る。

「“長さが20cmのろうそくがある。火をつけると1分間に3cmずつ短くなる。火をつけてからx分後の全体の長さをycmとする。yをxの式で表せ。”……か。成程。よくある一次関数だな。そう悩むことはないだろう。」
「だ、だってぇ……」

少しバツが悪そうに、さえるは声をあげる。
これ以上虐めては可哀想だろう。はいはいと笑って、さえるの頭を優しく撫でた。

「俺は歴史の方が専門なんだがな。」
「?」
「さえる。まず考えろ。1分間に3cmずつ短くなるんだ。例えば、2分後だと何cm短くなる?」
「……6cm?」
「そうだ。じゃあ、5分後は?」
「えっと、15cm?」
「正解。どうやって計算した?」
「5分×3cm。」
「じゃあ、x分後は何cmだ?」
「えっと、x分×3cmだから……3x?」
「その通り。そうなれば後はわかるな?」

流石に此処まで言えばわかったらしい。
さえるは、そっか、と呟いて、すらすらとノートに答えを書いていく。その答えは、勿論、正解であった。
学校に行かない時期があったりしたことから、授業の遅れを取り戻すのは大変だろう。しかし、彼女であれば、すぐにその遅れも取り戻せるはずだ。宰は心の中で、うんうんと何度も頷いた。

「宰さん、凄い。わかりやすいよ。先生みたい。」
「……そうか?」

さえるの突然の言葉に、宰は、少し恥ずかしそうに、しかし、困ったように、笑ったのであった。


第5話 迎えはヒグラシと共に


さえるは、死の音が聞こえる。
実際に聞いたことはないけれど、その音は、まるで教会の鐘のようなのだという。
まるで神の祝福だ。そんなことを思ったりもしたけれど、彼女にとっては、そして、彼女以外の人々にとっても、死は祝福なんてものではないので、口が裂けても言えないけれど。

「……宰さん。此処。」
「……」

辿り着いたのは、そこだけ時代が切り取られたかのように取り残された、一軒家。
暑い季節だったからだろうか、草は無造作に生い茂っていて、ろくに手入れされていない。伸びた蔓は家を取り囲み、緑の壁を形成している。
古びた小さな民家。その縁側で、ぽつんと座り込む老婆の姿があった。

「あ、さえる。」

たた、と駆けたさえるは、白いワンピースを翻しながら、老婆の元へと向かう。
縁側に腰かけたままの老婆は、その小さな視界にさえると捉えると、一瞬、驚いたかのように、目を見開いた。

「……私にも、ついに、お迎えが来たかね?」

そう呟く、しゃがれた老婆の声。
雑草を掻き分けて、宰はさえるの後を追った。

「ばあさん。残念だが、そいつはただの人間だよ。」

宰が老婆に声をかければ、老婆は、そうかい、と、少し寂しそうに呟く。
今日は土曜日。
セーラー服を着ていないさえるは、真っ白な膝上丈のワンピースに身を包んでいた。
白い髪と白い肌。そして白い服。そんな彼女を見ていれば、彼女を人為らざる何かと勘違いしてもおかしくはないだろう。
自分だって、もし、彼女と初めて出会ったあの日、セーラー服ではなく、今のような白いワンピースを着ていたとしたら、彼女を天使と見間違えたかもしれない。

「残念だねぇ。そろそろ、お父さんのところにいけると思ったんだけどねぇ。」

残念そうに、老婆は呟く。
ふと顔を上げれば、少し埃の被った仏壇に、柔和な笑顔で微笑む初老の男の遺影が飾られていた。

「旦那か?」
「もう、十年近く前に、先に逝ってね。薄情な男だよ。」

言葉とは裏腹に、優しい声だった。
その老婆の優しい声色と、表情。そして、遺影で微笑む、幸せそうな男。この夫婦が、どれだけ互いを慈しんでいたかということが、よくわかる。
そよそよと吹く風と、その風に乗ってカナカナと聞こえるヒグラシの鳴き声が、やけに悲し気であった。

「……婆さん。もうすぐ、爺さんのところに逝けるって言ったら、さ。」

どう思う?
宰の静かな問いかけ。
閑静な住宅街とはいえ、人通りが全くない訳ではないはずなのに、此処に立っていると、不思議と、草の擦れる音と虫の声しか聞こえない。
しばしの沈黙は、ヒグラシの鳴き声が穴埋めをしてくれている。
西日が差し込んで、老婆の顔はよく見えない。けれど、さえるの悲しそうな顔だけは、赤い夕陽によく映えた。
その横顔を見て、綺麗だと、思うだけならバチは当たらないだろう。

「……私は、あの人の所に、逝けるのかい。」

老婆の声は、変わらず穏やかだ。
けれど、安心したような、ほっとしたような、嬉しそうな、そんな、顔をしていた。

「不思議だねぇ。こうしてお迎えが来てるっていうのに、心はひどく穏やかだ。逝ったとしても、あの人が待っててくれてるっていう、安心感からかねぇ。」
「……お婆さん。死ぬのって、怖くないの?」

皺だらけの、枯れ木のような老婆の手に、さえるのふっくらとした白い手が乗せられる。
さえるは今にも泣き出しそうだ。
それもそうだろう。今回、自分達は何も出来ない。
事故による「死」であれば、回避をする術があるだろう。けれど、今回は、違う。違うのだ。
寿命や病。それは、人の手ではどうしようもない。
今は医療技術が発達しているから、寿命が年々伸びて、当初は百歳を迎える人間が数十人程度だったのが、今では数万人になっていたり、病だって、本来なら余命数か月と言われていたものが、数年近くも生き続けたり、そんな奇跡が次々起こっている。
けれど、人間は。人間だけじゃない。生きとし生けるものは。生きている限り、必ず、死ぬ。
それが寿命であれ。病であれ。時には理不尽な事故や事件であれ。人は、必ず死ぬ。
中には、どのような死であっても、それがその人においての「寿命」なのだと、定められた「生」なのだと説くものもいるだろう。
いつかは向き合わなければならない。
避けられるものではない。必ずそれは、訪れるのだ。

「死ぬのは、怖いよ。怖くないなんてことは、ないよ。」

そう言って、老婆は、さえるに対し、優しく微笑む。
見ず知らずの他人であるはずなのに。今日出会ったばかりのはずなのに。その老婆の笑顔は、まるで、田舎の祖母を彷彿とさせた。

「でも、心はとても、穏やかだよ。不思議だねぇ。あの人のところに逝けるからか。それとも、あんたたちが、いてくれるからか。」

少なくとも、寂しくはないねぇ。
そう言って、老婆は、笑う。

「お婆さん。死ぬって、どんな感じ?死ぬと、何処へいくの?」
「それは、わからないねぇ。でも、少なくとも、お嬢ちゃんが経験するには、まだ早いだろうねぇ。」

からからからと、また、老婆は、笑う。
さえるの表情とは、対照的だ。

「お嬢ちゃんはまだ若い。いっぱい遊んで、笑って、泣いて、怒って。そして、素敵な恋をして。私のお父さんみたいに、素敵な男を捕まえなさい。」

「死」を考えるのは、もっと、その手にたくさん皺を刻んでからでいい。
その老婆の言葉は、ずしりと胸に圧し掛かるような、けれど、じんわりと温かくしてくれるような、そんな、確かな存在感を感じさせた。
疲れたね、と、老婆は言う。

「息子が顔を出さなくなって、もう数年。人とこうして話したのは……久々だったよ。お前さんたちと話せてよかった。」

もう眠くなってしまった。
そう語る老婆に、宰は、自身の上着をそっと肩にかける。

「婆さん。もうすぐ日が落ちる。冷えるだろう。……ゆっくり休め。」

宰なりの精一杯の言葉。
せめて、せめて、穏やかに。安らかに。そう、祈ってやまない。
細い老婆の手に触れると、その手は、とても冷たく、細く、皺だらけで、力を入れれば、あっという間に折れてしまいそうであった。

「お前さんは、優しいねえ。ありがとお。」

それが、老婆の最期の言葉だった。
目を閉じ、深く、深く息を吐いた老婆。その様は、ただ眠りに落ちるだけのようにも見える。
けれど。

「……ッ……」

声を殺して、服の裾をぎゅっと握りしめて、涙をぽろぽろと流しながら泣くさえるの様子から、それが、ただ眠っているだけではないということが、よくわかった。
きっと、彼女の頭の中では、教会のそれのような、鐘の音が鳴っているのだろう。
その鐘の音は果たして神からの祝福か。それとも、ただの悪魔の呪いなのか。
少なくとも、宰の耳に届いている音は、さえるの泣きじゃくる小さな嗚咽と、カナカナカナと鳴き続ける、ヒグラシの悲しい音色だけであった。

 


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