鐘の音が鳴る前に。


本編



『次のニュースです。先日起きた交通事故で、運転手は居眠り運転をしていたとのこと。』

珈琲を啜りながら、朝のニュースを眺めていると、目の前に、ほかほかと白い湯気を漂わせる、温かいトーストが置かれた。
それを皿に置いた主が誰なのかは、顔を見なくともわかる。

「宰さん。朝ごはん、ちゃんと食べてくださいね。」
「……わかっている。」

返事をして、皿に乗ったトーストを一つ手に取り、口に運ぶ。
齧るとサクリと軽やかな音を立てるが、口の中で何度か噛めば、もちもちと程よく弾力のある歯ごたえがする。
朝食といえば白米だと思っていた時期があったが、それは撤回だ。白米も素晴らしいが、パンも同じくらい素晴らしい。
といっても、朝食を摂るようになったのは、もう十年以上ぶりな気がするけれども。

「宰さん。今日も仕事、遅いんですか?」
「嗚呼、そうだな。」
「そうですか。じゃあ、ご飯、温められるようにしておきますね。」

そう言って、さえるは朗らかに微笑む。
さえるの料理の腕は、だいぶ上がって来た。カレーだけでなく、煮物や炒めもの、その他にも様々な料理をパソコンで調べて作ってくれる。
十年以上、コンビニで添加物に溢れた弁当ばかり食べていたから、始めこそきちんとした料理の味になれなかったが、慣れてしまえば、もうコンビニには戻れないと痛感する。
否、コンビニの食事も、十分美味しいのだけれど。

「なるべく早めに帰るよ。」

そう言って、宰はさえるの頭を優しく撫でた。


第4話 死ねない死にたがり


「……想像していたよりも、遅くなってしまった。」

そう言って、宰は深く溜息を吐く。
時刻は気付けば十時。最近帰宅が早かったし、後輩にばかりしわ寄せがいくのは忍びないと思い久々に張り切ったらこんな時間だ。
さえるはもう寝てしまっただろうか。
流石に、もう中学生なのだから、まだ起きているだろうか。
なるべく早めに帰ると言った手前、なんとか終電で変えるという最悪な事態を免れることは出来たけれど、これでは、彼女にとっては十分遅い時間だ。
帰りの電車を待つ為、駅のホームに設置されたベンチに腰掛ける。
左右に視線を動かすと、ホームに人の気配があまりない。決して人の往来が少ない駅ではないはずなのに珍しいなと思っていると、ぽつんと、ホームに立つ一人の男の姿があった。
彼の特徴を一言で済ませるのであれば、それは、黒。
真っ黒な黒髪に、黒い、教会の神父が着ているようなゆったりとした服を着た青年は、虚ろな瞳で虚空を眺めている。
何処かを見ているようで、何処も見ていない瞳。
そして、彼は、まるで何かを待っているようであった。
何を待っているかは、想像に難くない。
ガタンゴトン、と、音を立ててやってくる電車。それを見て、青年は、まるで無邪気な子どものように明るい笑顔を見せる。

(やはりか。)

待っていたのは、電車。
駅のホームに立っているのであれば、電車を待つのは当然だ。
しかし、彼が電車を待っていたのは、家に帰る為ではない。
宰はゆっくりベンチから腰を持ち上げると、青年の方へと足を向ける。青年は、宰の存在に気付くことなく、前へ、一歩、二歩、と足を踏み出していた。
電車はまだ、来ていないというのに。このままでは、落ちるというのに。
だがそれは、この青年にとっては正しいこと。だって、この青年は、電車に轢かれるために、電車を待っていたのだから。

「おい。坊主。」

宰が手を伸ばして、青年の腕を掴めば、これ以上進むことが出来ずにぴたりと停止する。
それと同時に、ごうんごうんと音を立てながら電車が横切り、風が吹きあがった。
青年の、長く伸ばされた黒い前髪。それが風に煽られてふわりと浮かべば、その顔が、月明かりに照らされて露わになる。
白い、否、青白いと言った方が的を得ているであろう透き通った肌。それに映えるように添えられた、血のように赤い二つの目。
大きく赤いその瞳が、ぱちぱちと何度か瞬きされる。
呆けた顔の青年が、口を半開きにしてこちらを見つめる。
整ったその容姿は、美青年の言っても良い部類だろう。細く、白い、その青年の顔は、思わず見とれてしまうくらいに、綺麗で、儚くて、美しかった。

「……おにいさん、ぼくがみえるの?」

ぽつりと呟く、青年の声。
彼は一体何を言っているのだろう。見えるのなんて、当たり前じゃないか。
そう思っていると、青年は、あーあ、と残念そうに溜息をついた。

「また、死ねなかった。」

やっぱりだ。
自分も自殺を試みようとしていたからだろうか。同類。つまり、他の自殺志願者のことが、見分けられるのだ。
顔を見合わせれば。目を見れば。
嗚呼、彼もだと。
彼もまた、死という甘い果実を手に取って、現実という名のがんじがらめの苦痛から逃げ出そうとしているのだと、わかってしまうのだ。

「……残念だったな。俺に見つかったのが、運のツキだ。」
「ちぇ。今日こそはいけるって思ったのに。」

唇を尖らせて、青年は不服そうに呟く。恨めしそうにこちらを見上げているが、そんな顔をしても駄目だ。
昔の自分であれば、放っておいたのかもしれない。
けれど、残念ながら、自分はさえるの影響をとことん受けてしまっているようで、自ら「死」に近付こうとする人間を、そう簡単に、見過ごすことが出来ないのだ。
それに、今彼を見過ごしてしまったら、この後、どんな顔で彼女の元へ帰ればいいか、わからない。
彼女の元へ胸を張って帰るためにも、目の前のこの男は止めなければならない。そんな気が、したのだ。

「まあ、いいや。」

そう言って青年は、うん、と身体を伸ばす。
彼は長年、運動という運動をしていないのであろう。身体を伸ばし、腰をひねったり首をひねったりすれば、パキポキと、身体から楽器のように軽やかな音を奏でた。
くるりと青年は、身体を回転させる。
方向は、改札。ホームの反対側。所謂出口だ。

「お前は電車に乗らないのか?」
「乗らなーい。僕、轢死したくて電車待ってたんだしー。出来ないなら興味ないなー。」
「轢死って……」
「そういうお兄さんだって、自殺志願者でしょ?」

何で死なないの?
そう言って、青年は、少し意地悪な笑みを浮かべながら、こちらに顔だけ向けるようにして立っている。
つまり、振り向いているような姿勢だ。
何故死なないか。
そう問われれば、こちらとて、何故だろうな、と、返したい。
死にたい理由はある。あるのだ。どれくらいあると言えば、とりあえず両手で埋まるぐらい、波乱万丈な出来事があって嫌気が差したからだとでも言えばいいだろうか。
けれど、死ねない理由も、なんとなく、ある。
死んだらたぶん、あの子は泣く。
自分の死をなんとか引き留めてくれたあの子が。間に合って良かったと泣いて喜んだあの子が。ようやく料理を覚えて、人並みに笑顔を浮かべられるようになったあの子が。
その子の笑顔を、また、崩してしまうのは、忍びなかった。

「……泣く奴がいるから。」

だから、それだけ、短く返した。
青年にとっては、きっとつまらない答えだったのだろう。
顔すらこちらに向けることを放棄して、ふーん、と、力のない声で返事を返す。
もういいや、と呟く声が聞こえたのだから、きっと、飽きてしまったのだろう。

「僕、もう帰る。お兄さんも、早く帰れば?」

言われなくてもそうするさ。
そう言って、宰は身体を電車の方へと向けて、ドアを潜る。
プシュー、と、空気の抜ける音と共に、ドアが徐々に締まっていく。
その瞬間。

「本気で死にたくなったら、いつでも呼んでよ。僕は三百六十五日二十四時間年中無休で、君たちの味方だからさ。」

青年の、そんな声が、聞こえたような気がした。
はっとして振り返ると、電車のドアは既に閉まっていて。
ガタン、という音と共に身体が揺れて、電車が走り始める。そのドアのガラス越しに見える景色。
その景色の中には、既に、彼の青年の姿はなかった。

 


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