鐘の音が鳴る前に。


本編



「せーんぱい。新聞ですか?」

ひょっこりと顔を出した後輩が、宰が読んでいた新聞を覗き込む。
紙面には、小学生が遊び半分で植木鉢をマンションのベランダから落とし、危うく幼児を怪我させるところだった、ということで小学校に抗議の連絡があったことが記載されていた。
ニュースの内容を見て、うひゃあ、と、後輩が声を漏らす。

「いやあ。怖いですね、子どもって。死んじゃうって予想出来ないのかな。」

そう言って眉を八の字に下げた後輩は、癖っ毛混じりの髪を弄りながら、溜息を漏らす。
予想出来ないから、子どもなんだろう。宰がぶっきらぼうに答えると、それもそうか、と、目の前の後輩は呟いた。

「でも、この幼児も運が良かったですね。通りすがりの男性が気付いて、とっさに抱えてくれたから助かった、って書いてあるじゃないですか。」
「……そうだな。」

その「通りすがりの男性」が目の前にいることに気付くことのない後輩は、笑顔で朝の珈琲を差し出してくれたのだった。


第3話 青だからとて油断せず


「さえる。」
「宰さん!」

仕事を定時で切り上げ、退社をする。
職場近くのスーパーへ行けば、そのスーパーの前で、白いビニール袋をぶら下げたさえるの姿があった。
多くの荷物が詰まっているのであろう、重いビニール袋を宰が片手でひょいと抱えれば、中には、肉や野菜がごろごろと入っている。
ニンジン。玉ねぎ。じゃがいも。

「今日はカレーか?」
「はい!」

そう言って、さえるは、嬉しそうに笑った。
ちゃんと辛口ですよ、とさえるが言うので袋の中を覗いてみれば、確かに彼女が買ったカレールーは辛口だ。
大丈夫なのか?と聞くと、不服そうに、彼女は頬を膨らませる。

「私、もう14歳ですよ。辛いのくらい、大丈夫です。きっと宰さんよりも強いです。」
「わかったわかった。悪かった。」

そう言ってさえるの頭を撫でれば、納得したように、嬉しそうに、表情を綻ばせた。
さえるとの共同生活を始めて、もうすぐ、一週間が経とうとしている。
この一週間、彼女は音を聞いていない。どうやら彼女が感知出来る「死」には、一定の範囲があるようで、あまり遠い場所では聞こえないのだそうだ。
確かに、範囲を問わず聞こえてしまっていたら、彼女はとっくのとうに気が狂ってしまっているだろう。
人間は常に死と隣り合わせだ。
だからといって、常に居合わせるとは限らない。
そういう面では、この一週間、彼女が音を聞くことがないというのは当たり前のことでもある。
前回の件を考えると、半径五十から百メートル以内の範囲で「死」の音が聞こえる、ということだと思われる。
あくまで仮設なので、彼女には何も伝えてはいないが。

「……宰さん。」

緊張した声色で、さえるが呟く。
嗚呼、来たか、と、その一言でわかった。わかってしまった。想定される範囲内で、これから死へと近付いてしまう人がいるということだ。
青ざめた、不安そうな顔で、スーツの裾を握り締める少女の頭を優しく撫でる。

「大丈夫だ。……お前は、その音の主を探せ。」

さえるはこくりと頷くと、きょろきょろと周囲を見回す。
音のする方向を目指し歩いていく。歩いて行ったその先には、信号があり、赤く灯ったそれが、青く灯ることを待つ、腹を大きくした妊婦の姿があった。
その他に、人は見当たらない。
さあ、と顔が青くなるのを感じながら、宰はさえるのことを見た。

「……そうなのか?」

それは、彼女が対象であるかどうか、さえるに確認をするものであった。
さえるが小さく頷くと、宰は、嘘だろ、と、消え入りそうな声で呟く。
相手は妊婦。腹に胎児が宿っている。これは、どちらのことだ。妊婦か?胎児か?それとも、その両方か?
いくら道路とは言え、信号はある。車の通りだって、そんなに、大きくない。
妊婦は、大きくなった自身の腹を優しく撫でながら、笑顔で、何か語り掛けている。恐らく胎児に話しかけているのだろう。
そんな和やかな光景が、まもなく失われるかもしれないというのだ。
一体何が原因で。
どんなことが起きて。こうなるのか。
考えろ、考えろ、考えろと何度も頭の中で呟いて、宰は周囲を見渡す。
否、前回のような、外部的な要素が原因とは限らない。けれど、それでも、もし外部的な要因が原因で、彼女の身に何かあるというのであれば。
それは、出来得る限り、排除しなければならない。
信号が、ぱっ、と、青く変わる。
青く変わる信号を見て、妊婦が一歩、足を前へ出そうとした、その時。

「あの!」

思わず、宰は、声をあげた。
こんなに大きな声を出したのは、何年ぶりだろうか、思いのほか、大きく口から零れたその音に、自分自身も、驚いてしまう。
進もうとした足を止め、妊婦が振り向き、こちらへと一歩、近付く。

「私ですか?」

そう尋ねた瞬間、ごう、と勢いよく風を切る音がして、彼女の腰まで伸びた長い髪がふわりと浮かび上がった。
風を切り、勢いよく走り抜けた鉄の塊は、ガシャンと音を立ててガードレールにぶつかって、停止する。
鉄の塊は、トラックだ。
大きな荷物を運ぶ巨大なトラックが、赤信号だったのにも関わらず、勢いよく走って来たのだ。そして、道を反れて、ガードレールにぶつかり、停車した。
プー、と、クラクションの音が鳴り響く、異質な空間。
もし、今、咄嗟に呼び止めていなければ。
目の前で、彼女は、お腹に宿った子どもと共に、あのガードレールのようにぐしゃぐしゃに潰れていたかもしれない。
ごくりと唾を飲み込んで、なんとか、緊張する身体を和らげた。

「た、大変。パトカーと、救急車も……必要、ですよね。」

おろおろとしながら妊婦の女性が問いかける。
彼女の言葉で、ようやくはっとした宰は、ポケットから携帯電話を取り出して警察を呼んだ。
目の前で交通事故が起きたのだから、警察は必要だろう。運転手のためにも、救急車だって、勿論大事だ。

「……運転手さんは、大丈夫。」

電話をしながら、ちらりとさえるのことを見る。
さえるがこう言っているのであれば、運転手は、大丈夫だろう。
警察と救急車を呼んでひと段落すると、妊婦も、ほっとしたように、息を吐いた。

「怖いですね。事故なんて。でも、声かけてくれて、ありがとうございます。あのまま信号を渡っていたら、私、轢かれちゃってたかもしれません。」

偶然って凄いですね。そう言って、彼女は穏やかに笑う。
否、実は、偶然ではない。
そう言いたい気持ちもあったけれど、そう言ってしまっては、不気味がられるだけなのでやめておくことにする。
無事で良かった、と、宰はありきたりな言葉を返した。

「警察が来たら、帰れなくなるでしょう。周囲の状況とかは、俺が説明するんで、貴方は家へ帰ってください。」
「でも、悪いですよ。」
「お腹に障るでしょう。こちらは、大丈夫だから。な?」

そう言って、宰は、さえるに最終確認を取る。
彼女はもう帰して大丈夫か、意を込めてさえるに問いかければ、彼女もこくりと頷いた。もう大丈夫、と受け取っていいのだろう。
さえるの後押しもあり、自信を持って、彼女を帰路へ向かわせることが出来た。
何度も何度も頭を下げて、感謝をしながら歩く妊婦の姿が、小さくなるのを見送ると、今度はパトカーと救急車の音が大きくなってくる。

「……さえる。お前も先に帰ってろ。」
「ですが……」
「カレーの材料、悪くなっても困るからな。カレーを作って、待っていてくれ。」

そう言って鍵と荷物を手渡すと、さえるは笑顔で頷いた。

「わかりました。美味しいカレー作って待ってますから、早く帰って来てくださいね。」

さえるがビニール袋をしっかり握りしめて、嬉しそうに走っていく背中を見送りながら、今夜の晩御飯に思いをはせるのであった。

 


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