鐘の音が鳴る前に。


本編



「おはようございます、先輩。」
「……おはよう。」

翌日。
休暇ということになっていた故、普段通り、変わらぬ朝を迎えて出社をすると、入社してまだ数年の後輩、広瀬諒が笑顔で挨拶をしてきた。
少し癖の残る茶髪を揺らして微笑み好青年に、一言だけ挨拶をすると、宰はゆっくりとデスクに座る。
コンピュータの電源を入れ、コンビニで買って来たブラックコーヒーを口に運んでから、口の中に苦味を広げて溜息を吐いた。

「昨日はゆっくり休めました?」
「……否。ちょっと色々あってな。今日も午後、休暇を貰う。」
「え、大丈夫ですか?」
「仕事の方は問題ない。」
「いえ、そうじゃなくて……もし、ご予定とか、体調が優れないとかあれば、午前中も休んでしまった方がよくないですか?」

諒はそう言って、少し心配そうに宰を見る。
まだまだ若手の彼ではあるが、仕事はよく出来て責任感もある。しかしいかんせん人が良すぎる為、大抵困った仕事は全て彼に押し付けられてしまう。
今だってそれなりに案件を抱えているはずなのに、引き受けようとするのだから、よく言えば心優しい、少し悪く言えばお人好しな人間だ。
大丈夫だと、宰は口にする。

「今日の午後だけで十分だ。だから、午後だけ頼む。まあ、引き継ぐほどの仕事はないから、問題ないだろうが。」
「わかりました。」

そう言って諒は、また人の良さそうな、爽やかな笑顔を浮かべたのだった。
その笑顔が眩しくて目を細めてしまったというのは、内緒にしておいてやろう。


第2話 怖いのは、大人か子どもか


何故こうなってしまったのか。
今となってはわからないしわかりたくもないけれど、萩野宰が暮らしている3DKの広すぎるマンションに、白髪の少女がちょこんと正座をして座っていた。

「……さえる。姿勢は崩して構わん。」

そう言うと、少女、さえるは正座から少し座り方を変えて、ふう、と息をつく。
何故彼女が此処にいるのかと言えば、彼女が家に転がり込んできてしまったからに他ならない。
人の死が聞こえる。
そう言う彼女の言葉を、宰は半信半疑ながらも、結局はその状況証拠で信用することにした。
しかし、自分以外の、彼女の周囲の人間はそれを容易く受け入れる訳もなく、さえるは両親からも見捨てられ、児童養護施設に保護されていたのだという。
そこでも周囲に馴染むことが出来ず、忌み嫌われ、塞ぎ込んでしまい、学校も不登校がちになってしまった彼女は、宰と出会う、その一日前に児童養護施設を飛び出してしまったというじゃないか。
児童養護施設にそのまま送り返してもよかったのだが、彼女を送り届ける際に、遠い親戚と名乗ってしまったのが運のツキ。
例え遠くても親戚ならば引き取ってくれと言われてしまったのだ。
当然、本来自分とさえるに血の繋がりなんてない。
けれど、そこで「いえ違います。自分は赤の他人です。」なんて言ってしまえば、児童養護施設の人間からどんな目で見られてしまうか……下手をすれば少女趣味の変質者と間違われてしまう恐れもある。
致し方ないが、彼女を引き取ることにしたのだ。

「幸い、部屋は空いている。一か所は倉庫みたいになっていて使い物にはならんが……まあ、もう一部屋は使えるだろう。家具が揃っていないから、数日間は薄い布団で過ごすことになるが我慢をしてくれ。」
「いいえ。構わないです。」

そう言ってさえるは、礼儀正しく頭を下げた。
彼女を引き取るということになってしまったのは、想定外だった。
しかし、これからの自分と彼女の関係を考えれば、寧ろ都合がいいのかもしれない。

「で、俺はどうすればいいだ。」

宰が問いかける。
このやりとりをするに至った経緯は、昨日に遡る。
助けて欲しい。そう言ったさえるの要求は、彼女と共に、鐘の音が鳴ったその時、人が死に至ることを止める手伝いをして欲しいというものであった。
最初は、何を言い出すのやらという思いがあったし、面倒なので、断ろうと思った。
けれど、どうせ死のうとしていた身なのであれば、手伝ってほしいという彼女の言い分に、それもそうだと折れてしまい、現在に至る。
ただし、こちらとしても少なからず条件はあるので、それだけは了承してもらうことにした。
一人で無茶はしない。離れているときに何かあった時は必ず連絡を入れる。協力は仕事に支障をきたさない範囲。そして、さえるも普段は学校へ通うこと。
これが、宰が協力するにあたって提示した条件だった。
学校には無理していく必要はないと思っている。しかし、勉学が遅れれば、将来に影響を及ぼすのは自分自身だ。社会復帰が困難になる前に、保健室登校で構わないから学校へ通うようにと伝えたのだ。

「宰さんは、今のところ、何をする必要もないです。」

さえるはふるふると首を横に振りながら答える。
そうしょっちゅう、人の死と直面していたら、彼女も流石に気が狂ってしまうだろう。

「……何か、夕飯でも買うか。コンビニに行くぞ。」
「……こんびに……」
「行ったことがない、とは、流石に言わないだろう。」
「ううん。ただ、いつもコンビニなのかな、って。」
「コンビニが不服なら、お前が料理覚えてくれ。そうしたら助かる。」

ぺたぺたとフローリングの上を歩き、廊下へ出て、玄関で靴を履き替える。
普段外出をするにあたっては当たり前の光景なのだが、隣で十代の少女が丁寧に靴を履いているのを横で見ていると、不思議な気分になる。
とんとん、とつま先を軽く叩いてさえるが靴を履き終えたのを確認すると、玄関の扉を開けて部屋の外へと出る。
このマンションは立派なセキュリティも付いていないし、エレベータもないが、部屋数はそれなりだし駅から近い割に家賃も安い。
おまけにコンビニへも数分で行けるのだから、非常に便利な立地だ。
少女と隣り合わせに並びながら、コンビニへの平坦な道を歩いていく。非常にのどかな住宅街で、平和そのものだ。
そんな、平穏な道なりをゆっくり歩いていると、ぴたりと、さえるは急に立ち止まった。

「……さえる?」

少女は、口を開け、呆けた顔のまま、焦点の定まらぬ目で虚空を見ていた。
何処かを見ているようで、何処も見ていない。きっと、何を見ているのかと尋ねたところで、彼女の視界には、ただ、映像としての風景が瞳というレンズに映っているというだけなのだろう。
そよそよと風がなびく。
その沈黙は、何秒だったか、否、何十分にも感じられたかもしれない。
短く長いその沈黙を破ったのもまた、目の前にいる少女であった。

「あっち。」

一言、さえるが呟く。
そして彼女は、地面を蹴った。走ったのだ。アスファルトで構成された人工的な地面を蹴って、彼女は走る。
いくら身体の旬がとうに過ぎ、くたびれて来ているといっても、男の足で少女のそれに追いつくには、そう時間はかからなかった。

「さえる。どうした。」
「聞こえるの。音が。」

その一言で、彼女が何を言いたいのか、宰は察した。
こっちこっちと呟くさえるの導きに従って、宰も足を動かす。この先に誰か、死に近づいている人間がいるのだろうか。
ごくりと唾を飲み込み、歩いていると、さえるが細く白い人差し指を持ち上げて、す、と一人の人物を示した。

「あの子。」

それは、幼い子どもであった。
幼稚園に通っているぐらいであろうか、幼い男児がボールをぽんぽんと地面に叩きつけて、遊んでいる。
それは平和そのもので、「死」とは程遠い光景であった。
ちらりと少年から少し視線を外せば、数メートル先で、母親らしき女性が買い物袋をぶら下げながら、近所の住民と会話をしている。
母親も近くにいるし、目立った車の往来もない。
やはり、さえるは考え過ぎなのではないか、彼女の言う「音が聞こえる」というのは、やはり狂言で、自分の時のそれは偶然だったのではないか。
彼女には申し訳ないけれど、そう思えてしまう程、今、目の前にある景色は「平和」だったのだ。

「……さえる。」

勘違いじゃないか、そう言いたげに名前を呼んで、少女を見る。
すると、少女は顔を青くして、額に汗をにじませながら、左胸のあたりをぎゅ、と握り締めて、背中を丸めている。
それが演技だとは、もしそうだったとしても言いたくはなかった。
きっと、何かあるのだ。
あの少年がこれから死へと片足を踏み込んでしまう何かが、きっと。
横を見る。前を見る。後ろを見る。何処を見ても、車が通る気配もなければ不審者が現れる気配もない。
此処は何処だ。住宅街だ。周囲は高いマンションがいくつか立ち並んでいる。そう、マンション。

「まさか。」

宰はふと、顔を上げる。
幼子がボールをぽんぽんと叩いて遊んでいる、そのすぐ真上。その真上には、ベランダからひょっこりと顔を出す少年の姿があった。
表情はよく見えない。声もよく聞こえない。けれど少年は複数いて、楽しそうに動いていて、きっと家主の子どもと遊びに来た友人たちなのであろうということが、よくわかった。
手には何かを持っていて、顔をぐるりと動かして、下を見る。
下には幼子。
子どもたちは、その手に持つ何かを、そっと、手放して。

「ッ!」

認識したその瞬間、宰は走った。
走って、ボールを手に持つ子どもを抱える。抱えたその瞬間、母親から、悲鳴が零れた気がした。
それはそうだろう。
いきなり中年の男が幼子を抱きかかえたとなれば誘拐犯と思われても仕方ない。
幼子を抱えたまま、一歩、二歩、三歩と先程幼子が立っていた場所から距離を取る。
母親が誰か、と、人を呼ぼうとした叫び声は、ガシャンと何か硬いものが地面にぶつかり、破壊された音で掻き消された。
しばしの沈黙。
母親は唖然としながら、先程まで我が子が立っていた場所で、粉々に砕けている植木鉢を見つめている。
幼子はボールを持ったまま、宰に抱えられ、呆けた顔で同じく植木鉢を見つめていた。きっと、こちらは何も理解していない。
宰は幼子を抱えて、すたすたと歩いたら、母親の目の前で、その幼子をそっと下した。

「驚かせて、すまない。」
「い、いえ。あの、その……」

そう言って、頭を下げる。
母親としては複雑だろう。目の前にいる中年男は、誘拐犯かと思ったのに、その誘拐犯と思わしき男が我が子を抱えなければ、下手したらあの植木鉢で頭をかち割られていたかもしれないのだ。
そう思うと、感謝すればいいのか、どうすればいいのか、わからないに決まっている。
宰は、きっ、と、鋭い顔で、マンションのベランダを見上げた。
子どもたちがわらわらと、ベランダから逃げていく。
面白半分でやったのかもしれない。ちょっと驚かせてやろうと思ったのかもしれない。けれど、一歩間違えれば、この幼い子どもの命は奪われていたのかもしれないのだ。

「……さえる。もう、平気か?」
「あ、はい。もう、聞こえない。」

それは、この幼子に降りかかっていた危機が去ったということだ。
宰は、ほっとしたように、息を吐く。

「……行こう。」

さえるの手を引いて、その場を去るべく、方向を変えて歩く。
その時、あの、と、母親が声をあげる声が聞こえた。

「ありがとうございます。」

それは、感謝の言葉。
ふと宰が振り向けば、幼子の手を握って、頭を下げる、母親の姿があった。
宰は小さく頭を下げると、また、前を向いて、歩く。

「……警察は、呼ばなくていいの、かな。」
「恐らく、アレをやったのは、小学生だ。小学生があんなことをしたとこちらが通報しても、結局は厳重注意で終わるだろう。あの子どもは助かった。今はそれで十分だ。」
「……そっか。」

それに、と、宰は言葉を付け足す。

「あの母親を含め、目撃者は何人かいるからな。いずれ話は近隣の小学校にも及ぶし、あのマンション全体にも行き渡る。親の耳に入る頃には、全てが明るみになって手遅れだ。警察に通報されるより、性質が悪い。」
「……大人って怖いね。」
「怖いだろう。大人は怖いんだ。……でもな、さっきみたいに、最悪の展開を想像出来ない、子どもの思い付きの行動だって、とても怖いんだよ。」

そう言ってさえるの頭をぽんぽんと撫でれば、よくわかんない、と、小さく彼女は口にした。
さて、買い物の続きをしよう。
宰はさえるの手を引いて、近所のコンビニに足を踏み入れたのだった。

 


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