鐘の音が鳴る前に。


本編



ごーん。ごーん。

頭で響くのは、鐘の音。
もうやめてと叫びたくて。もう止まってと泣きたくて。唇から零れ落ちそうな叫びを、きゅっと噤んで唾と一緒に飲み込みながら、少女はただ、走っていた。
ぜえ、はあ、と息切れする音すらも、頭に響くこの音で掻き消されて、周囲の音を気にする余裕は彼女にはない。
アスファルトを蹴る音も。周囲の喧騒も。鉄の塊がごうんごうんと往来する音も。
ありとあらゆる、日常では流れて止まない、欠かせない音という音を否定して、頭の中で、何処からか聞こえる鐘の音が響き続ける。
ごーん。
そう鳴る度に、締め付けられるように、頭が痛くなる。胸が痛くなる。
どうしてこんなに痛いのか。どうしてこんなに、今、視界がぐにゃりと濡れて歪むのか。
痛むから涙を流しているのか。涙を流しているから痛いのか。順番なんてもうわからないし、どうでもいい。
ただ願わくば。
この鐘の音が消えてくれればと。少女は祈るように歯を噛みしめて、地面を蹴った。


鐘の音が鳴る前に。
第一話 自称、死神少女


死にたい。
ビルの屋上から地面をぼうっと眺めながら、萩野宰はそう口にした。
ぽつりと呟いたその言葉は、ごうごうと強く吹く風に掻き消された。きっと、誰にも聞こえていないだろう。
萩野宰は、自殺を望んでいた。
毎日毎日、こう死のうか、ああ死のうかと模索しながら、生きている。
昨日は、電車に轢かれる。というものを考えた。電車というものは素晴らしい。巨大な鉄の塊が、勢いよく走って来るのだから、後はそれに轢かれるだけだ。生存率は限りなく低いし、電車なんて一日に何本も行き交っているのだからチャンスも多い。万が一失敗しても次があるさ、と気軽に考えることが出来るし、正直、自分が轢かれたことによって電車が遅延して、周囲が困ろうがどうなろうがどうでもいい。賠償金を請求されるかもしれないといっても、自分には親戚もいないのだから、請求先もないし。そういう意味では、一番理想的な方法だと思っている。
一昨日は、溺死について考えた。これもなかなかに素晴らしい。人魚姫というものも、海に沈み、泡と成って消えていく。水に消えていく様は、さぞ幻想的だろう。しかしこれは息苦しく、即死でない分苦労するのだ。
その前は確か、そう、首吊りについても考えた。自殺といえば首吊り。オーソドックスな選択だろう。まさに自殺、ということがいかにもよくわかるし、自殺であることを知らせたいのであれば、それはきっと一番いい方法だ。だが、これはいかんせん死んだ後の外見が悪すぎて、却下した。
そして今日。
宰は転落死、という方法を選らんだ。
風が吹き、少し伸びて鬱陶しくなった前髪がふわりと持ち上がる。視界が鮮明になる。目下には鉄の塊、車が無数に往来しており、蟻のサイズにも感じられる人の子たちが、ぞろぞろと同じような服を着て往来している。
今から宰は、その日常を放棄するのだ。

(何処かには、自殺志願者を支援する店というものも、存在するらしい。)

そんな噂を耳にして、自殺を手伝ってくれるというのはなんとも魅力的で、否、実際、見たことがある。
古びた扉。
簡素なプラスチック素材のプレートで、営業中と書かれた、なんの店とも書かれていない怪しい店を。
きっとあれが、都市伝説でいう、それなのだろう。
だが宰は、その店の扉を潜らなかった。潜ってはいけないような気がした。

(俺は、俺自身の手で、終わらせる必要がある。)

自分の意志で、終わらせる。
萩野宰という人間の死は、綺麗に終わらせてはならないのだ。もっと汚く、どろどろとした、ぐちゃぐちゃとしたものを撒き散らしながら、ごみ屑のように死にたい。
ならば。
今此処から飛び降りて、体中の血という血を。肉という肉を。全て撒き散らして、汚らしく死んでしまおうじゃないか。

「もう、疲れたんだ。」

掠れたような声で呟く。
そして一歩、足を踏みしめようとしたその時に。

「だ、め、で、すぅ!」

聞こえたのは、少女の声。
白く細い手が、宰が羽織っていた黒いスーツを引っ張って、飛び降りようとした身体を引き倒した。
抵抗しようと思えば出来たはずなのに、気付けば宰は、コンクリートで出来た硬く冷たい床に大の字になりながら、空を、見上げる恰好となった。
呆然としながら、空に広がる白い雲を見つめていると、ひょっこりと少女の顔が覗き込む。
色素の薄い青い瞳と、白い髪。そして、透明感のある白い肌。肌が白いせいだろうか、黒いセーラー服がよく映えた。
中学生ぐらいの少女は、宰の顔を見つめて何度か瞬きをすると、ほっとしたように、溜息を洩らした。

「……よかった。間に合った。」

そう言って、ぽろぽろと、大粒の涙をこぼしたのだ。
何故この少女は涙を流しているのだろう。男一人の自殺を止めたぐらいで、何故、こんなにも、安心したように、ひっくひっくとしゃくりあげながら泣くのだろう。
疑問を覚えながらも、自分のせいで泣いているという自覚を持っていた宰は、恐る恐る手を伸ばし、少女の髪をそっと撫でた。
白い髪はさらさらと艶やかで、絹のようで、美しい。
不謹慎かもしれないが、この少女の泣き顔は、驚くほどに、綺麗であった。

「……すまん。」

とりあえず、謝罪の言葉を口にする。
泣かせるような原因を作ってしまったのは事実なので、まず、謝罪する。すると、少女ははっとこちらに気付いて、恥ずかしそうに、白い頬を桃色に染めた。

「あ、いえ、その、わたしこそ、すみません。あの、いきなり。」
「いや、問題ない。というか……何故……」

そう。宰には、疑問があった。
何故この少女は、宰の自殺に気付けたのだろうか。宰は別にこの少女と特別な面識はないし、自殺をすると前もって宣言をしていた訳でもない。
知ることが出来るとすればせめて会社の同僚ぐらいかもしれないが、あらかじめ有給休暇を取得していて、今日、そうだ死のうと思い立ったのだから、気付くものは誰一人としていないはずなのだ。
こちらが何を言いたいのかすぐに察した少女は、そうですよね、と、呟く。

「私、死神なんです。」
「死神?」
「死神といっても、本物じゃないですけど、でも、聞こえるんです。」
「聞こえるというと……」
「はい。これから死んでしまう人の、命の音。」

まるでそれは、教会で鳴り響く鐘のようだと、少女は語った。
ごーん、ごーんと頭に響くような大きな音が、少女には聞こえてしまうらしい。
最初は遠くから、間隔もゆっくり、聞こえて来るそうだ。しかし、死へと向かう人間に近付く程、鐘の音は大きくなり、鳴り響く間隔も、死に近付くほどに早くなる。
その鐘が鳴り響くのが終わる時は、人が死ぬときか、もしくは、死を防げるときのみだそうだ。

「私、ずっと、聞こえてた。貴方の音。だから、走って来たの。死んでほしくなかったの。誰かが死んでしまうなんて、そんなの、とっても、悲しいから。」

よく見たら、少女の頬は、首筋は、汗でぐっしょりと濡れていた。
此処は廃ビルの屋上だ。音が聞こえて、宰の存在に気付いて、一生懸命昇って来たのだろう。エレベーターが機能していないから、階段を必死に走って。
そんなに、一生懸命になって止める程、この命に価値なんてないのに。

「信じて、くれるの?」

少女は首を傾げる。
信じるも信じないも、現に少女が自分の自殺に気付いて此処まで来たということが証明なのだ。
信じたくなくても、信じざるを得ないだろう。
それに、こんなに汗だくになって走って来た少女の言葉を、嘘という一言で片付けてしまうのも忍びない。

「突拍子もないし非現実だが、信じるしかないだろう。」

それが、萩野宰が、目の前の少女に出した結論だった。
すると、また、少女は目に涙を溜める。
おろおろとしながらも、涙を止める術は彼にはない。彼にもし出来ることがあるとすれば、ポケットに入っていた、くしゃくしゃになったハンカチを手渡すくらいであった。
とりあえず、前日は手を洗った時に拭いたくらいしか使っていないので、涙を拭う程度なら、そんなにも汚くはない……と、思いたい。
そんなことを思いながら宰が少女にハンカチを手渡すと、少女はそのハンカチで、そっと目に溜まる涙を拭いた。

「ありがとう、ございます。」
「……否……」
「こんな話、信じてくれる人、いないから。」

それはそうだろう。
死がわかるなんて、そんな不吉なことを言われても、人間信じたくないのが実情だ。
宰だって状況証拠が揃っているからこそ首を縦に触れたけれど、何の前触れもなく言われてしまえば、信じたかどうかは怪しい。
ただ、一生懸命話すその姿から、もしかしたら、信じたかもしれないが。
昔から甘いのだ。子どもには。

「あの、すみません。お名前は……」
「萩野宰。」
「宰さん。すみません、お願いがあるんです。私の話を信じてくれた、宰さんにしか出来ないことなんです。」
「……なんだ。」
「私のこと、助けて欲しいんです。」

自殺をしようと思い立った真昼間。
出会ってしまったのは、自称死神少女。
やはり自殺はするものではない。目の前の電波少女に絡まれてしまうことになるのだから。
当初はただ、ただそれだけを、思っていたのだ。




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